ものいへば扇子に顔をかくされて 芭蕉
この句は俳諧の発句ではない。この句の俳諧の発句は「秣(まぐさ)負う人を枝折の夏野哉」である。この俳諧の発句は『おくのほそ道』に載せてある句である。この句を芭蕉は元禄2年4月4日(1689、5、22)、栃木県黒羽で詠んでいる。『おくのほそ道』途上、初めて俳諧歌仙を巻いたものの発句が「秣(まぐさ)負う人を枝折の夏野哉」であり、この歌仙の7句目に芭蕉が詠んだ句が「ものいへば扇子に顔をかくされて」である。この句は芭蕉の恋の句であると東明雅は『芭蕉の恋句』岩波新書の中で述べている。
「黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信(おとづ)る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つヾけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤(つとめ)とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに」と『おくのほそ道』で芭蕉は書いている。芭蕉と曽良は黒羽の浄坊寺図書宅に13泊している。この期間に歌仙は巻かれている。
「ものいへば」の句は曽良の詠んだ77の句「秋草ゑがく帷子(かたびら)はたそ」に付けたものである。秋草とは着物の絵柄として有名な(辻が花)である。この辻が花の模様の書かれた帷子を着ている方は誰なのかと、いう句に芭蕉は妙齢な女性に話しかけようとしたら、微笑んで女性は顔を扇子で隠されてしまったと詠んだ。曽良の句に恋を呼び出され、芭蕉は恋の呼び出しに答えてこの句をよんでいる。こうした掛け合いが俳諧の面白みだったことが想像される。このような遊びに興じることができたのも女を口説いた経験が芭蕉にはあったからこそ、このような句を詠むことができたのではないかと私は思う。
14句目の77の句が曽良の「碪(きぬた)うたるゝ尼達あまたちの家」である。この句に付けた15句目の句が「あの月も恋ゆへにこそ悲しけれ」 翠桃(すいたう)の句である。夜分、衣の布を打つ砧の音が響く中、尼たちは昔話に興じている。あの月の光に照らされると昔、娘だった頃の恋の思い出が湧きあがって来る。恋を成就できなかった哀しみが尽きの光に思い出される。この恋に呼び出されて芭蕉が答えている。その芭蕉の77の句が「露とも消えね胸のいたきに」である。叶わぬ恋に張り裂けるような苦しみを抱いた胸の痛みは露のように消えてしまえと、芭蕉は詠んでいる。このように芭蕉が歌仙の中で詠んでいるのを読むと私は芭蕉もまた若かりし頃、叶わぬ恋に苦しんだ経験があるのかなと思ってしまう。
芭蕉もまた平凡な青年時代を経験している人のように思えてくる。芭蕉は農家の次男であった。当時、農家の次男は嫁を貰うことは叶わなかった。生涯部屋住みの長男に仕える下男でしかなかった。嫁を迎え、一家を構えることがもともとできない運命にあった。ただ叶うことは夜這いするだけだったのかもしれない。その生きる哀しみを芭蕉は当時の恋の句に詠みこんだのかもしれない。
叶わぬ恋は梅雨のように消えとしまえという発想は古来奈良時代からの読み続けられてきたもののようだ。例えば『万葉集』には次のような歌がある。
わが屋戸(やど)の夕影草(ゆふかげくさ)の白露(しらつゆ)の消(け)ぬがにもとな思(おも)ほゆるかも
笠女郎(かさのいらつめ)が大伴家持(おほとものやかもち)に贈った二十四首の相聞歌の一首である。
「わが家の夕映えの中に映える草の白露のように消えてしまいそうなほどあなたを思って切ない心です」と、家持を思う恋心の切なさを訴えかけている。
秋萩の上に置きたる白露の消(け)かも死なまし 恋ひつつあらずは
秋萩の上に置いている白露のように、いっそ消えて死んでしまおうか、こんなに、恋ひ続けていないで
弓削皇子は志貴皇子と同様に、天皇になれる資格がある立場でありながら、ならずにまた、なれずに 政から一線を置いている皇子の歌は、なんとも言えず、心に沁みこんでくる。
秋の田の穂の上(へ)に霧(き)らふ朝霞(あさかすみ)何処辺(いつへ)の方(かた)にわが恋ひ止まむ
秋の田の稲穂の上にかかる朝霞はいつしか晴れるのに私の恋の思いは晴れることがない。恋の思いをとげることができない苦しみを詠っている。
芭蕉にも同じような思いがあったのかもしれない。