資本主義経済はいかに生まれて来たのか7
重商主義時代
冨とは金銀、貨幣の事である。金銀、貨幣を獲得するために積極的に国内で生産した物を輸出し、金銀、貨幣を獲得するべきだという考え方が重商主義である。重商主義の考えによって経済運営した会社がイギリス東インド会社である。産業革命以前の絶対王政期の経済政策が重商主義である。重商主義の代表的な思想家がトマス・マンであろう。「わが国には財宝を産出する鉱山がないのだから、外国貿易以外に財宝を獲得する手段がないことは思慮ある人なら誰も否定しないであろう」という言葉を残している。イギリスの重商主義には、・重金主義、・貿易差額主義という2つの考え方の発展がある。「重金主義」というのは、金銀を獲得する事が国力を増強する手段だと考えられた。国内の鉱山開発や海外からの金銀を獲得することであった。国内の金銀を外国に流失させない事も重要視した。「貿易差額主義」というのは輸入よりも輸出を多くしてその差額で金銀を獲得しようとする政策である。そのためには国際競争で優位を持てる産業を国内保護して輸出を増加させ。株式会社の起源となったオランダ東インド会社の係官トマス・マンが貿易差額主義を主張した。
大航海時代の主役だったスペインやポルトガルが重金主義にもとづく政策を採用したのに対し、出遅れたイギリスで主流となっていたのが、重商主義のなかの貿易差額主義です。1648年にオランダが独立すると、イギリスは貿易面でオランダにも圧倒されるようになります。そこでこの状況を打破するために、1651年に「航海法」が成立。イギリスとその植民地への輸入品は、イギリス船、またはヨーロッパであれば現地の船で輸送するよう制限をしたのです。これによって、中継貿易を担っていたオランダを排除した。1652年、航海法に反発したオランダとの間に「第一次英蘭戦争」が勃発した。イギリスはこれに勝利し、貿易を通じて富を蓄積していく。「イギリス商業革命」と呼ばれる大きな成長へと繋がり、帝国の拡大に寄与した。
フランスにおける重商主義の担い手は、ルイ144世の側近として財務総監を20年以上務めたジャン・バティスト・コルベールです。このことから、フランスの重商主義を「コルベール主義」ともいう。
フランスの財政を再建するために、国内の産業を保護、育成し、輸出を奨励しました。具体的には、中心産業だった毛織物や絹織物、絨毯、ゴブラン織などの産業を保護。また国立工場を設立して兵器やガラス、レース、陶器など新しい産業の育成に努めた。
さらに、フランス東インド会社、フランス西インド会社、ルヴァン会社、セネガル会社などを相次いで設立。市場の開拓と植民政策を推進し、新たな植民地を開発した。コルベールの重商主義によって蓄積された富は、王立科学アカデミーの設立やヴェルサイユ宮殿の建設費にあてられ、フランスの全盛期を支えた。
商工業者たちは「外国製品が入ってくると、自分たちの作った物が売れなくなる」と、輸入品を規制する政策を求める。これを「国内産業の保護政策」という。しかし、そうは言っても国内のマーケットにも限界がある。国外にマーケットを求めるようになったのが海外の植民地獲得だ。17世紀の後半移行、イングランドやフランスがこぞって海外に植民地を求めるようになっていく。すると、これまでなら考えられなかったことだけれど、アジア、北アメリカやカリブ海などを主戦場に、イングランドやフランスが植民地の取り合いのために戦争を繰り返す時代がやってくる。かつての百年戦争を第一次と見て、この時代の英仏間の戦争は「第二次」英仏百年戦争と呼ぶことがある。第二次英仏百年戦争は世界的な規模の戦争になった。北アメリカ、インド、ヨーロッパで英仏は戦った。
1757年、インドのベンガル地方で起こった、クライヴ指揮のイギリス東インド会社軍とフランス東インド会社軍の支援を受けたベンガル太守軍との戦争。このとき、イギリス・フランス両国は、南インドでも第3次カーナティック戦争を戦い、ヨーロッパでも七年戦争で対立関係にあり、アメリカ新大陸ではフレンチ=インディアン戦争(1754~63年)を戦っていた。つまり、イギリスとフランスの英仏植民地戦争は、世界的な規模で展開されていたということになる。
ベンガル地方は豊かな農業生産力を有し、イギリス東インド会社はその地への進出を狙い、フランスの進出に備えるためと称して太守の許可無くカルカッタの要塞を増強した。ベンガル太守は工事中止を命じ、フランス軍の援助を求めた。英仏はプラッシーで戦い、英軍か勝利し、フランスは撤退した。