資本主義経済はいかに生まれて来たのか1
資本主義経済は産業資本の成立をもって初めて成立するものである。商業資本が活発に動き回っていたとしても確実に資本主義経済が生れたとは言えない。
産業資本は産業革命の結果、生まれたものである。産業革命とは如何なるものであったのかを理解することが資本主義経済を理解することになると私は考えている。マルクスの『資本論』とは、産業革命の本質を解明した著作である。マルクスは産業革命を研究し、産業革命の結果生まれて来た経済の仕組みを「資本主義」と名付けたのである。
産業革命はイギリスで最初に始まった。産業革命の始まりは16世紀のことである。オランダで毛織物手工業が隆盛する。毛織物の原料供給地としてイギリスで牧羊業がはやる。この出来事をイギリスの人文学者のトマス・モアが『ユートピア』の中で次のように述べている。「イギリスの羊です。以前は大変おとなしい、小食の動物だったそうですが、この頃では、なんでも途方もない大食いで、その上荒々しくなったそうで、そのため人間さえもさかんに食い潰されて、見るもむざんな荒廃ぶりです。そのわけは、もし国内のどこかで非常に良質の、したがって高価な羊毛がとれるというところがありますと、代々の祖先や前任者の懐にはいっていた年収や所得では満足できず、また悠々と安楽な生活を送ることにも満足できない、その土地の貴族や紳士やその上自他ともに許した聖職者である修道院長までが、国家の為になるどころか、とんでもない大きな害毒を及ぼすのもかまわないで、百姓たちの耕作地をとりあげてしまい、牧場としてすっかり囲い込んでしまうからです。家屋は壊す、町は取り壊す、後にぽつんと残るのはただ教会堂だけという有様、その教会堂も羊小屋にしようという魂胆からなのです。林地・猟場・荘園、そういったものをつくるのに相当土地を潰したにもかかわらず、まだ潰したりないとでもいうのか、この敬虔な人たちは住宅地や教会付属地までも、みなたたきこわし、廃墟にしてしまいます」。このことを「羊が人間を食べている」と言っている。牧羊業の普及が土地を「囲い込み」牧場が増えていった。土地を奪われた農民たちは羊毛を原料にした毛織物を作る手工業の工場に吸収されていった。農民が工場労働者になった。このことをマルクスは「資本の原始的蓄積」と説明している。自分の労働力を売ることによって生計を立てる人々が労働者である。農民が土地を奪われ、自分の労働力を売ることによってしか、生活する術を持たない人間が労働者である。この労働者の出現が資本の誕生なのだとマルクスは述べている。生活手段であった農地を奪われ、農村から追い出されていった農民たちが労働者になった。だからこのことを血と涙の中から資本は生れてくるとマルクスは述べている。
エンクロージャー(囲い込み)によって農民が労働者になった。この新しく生まれて来た労働者を雇い入れることによって新たに誕生したのが毛織物を織る工場制手工業(マニュファクチャー)である。このマニュファクチャーの成立が産業革命のはじまりであると同時に資本主義経済の誕生である。このようなマニュファクチャーがイギリスのどこで生まれて来たのかというと、その場所はヨークシャーの小高い山の間を流れる川沿いに毛織物を織る手工業の工場が建てられていった。
更に18世紀末に大麦↓クローバー↓小麦↓蕪(かぶ)を四年周期で植える四輪作農法、ノーフォーク農法が発明されると、それまでの休耕地がなくなったことで、家畜の飼育が可能になり、イギリス政府や議会が土地の囲い込みを奨励した。この農業革命により新たに土地の囲い込みが行われ、土地から追い出された農民が生れ、毛織物マニュファクチャーに労働者を供給した。政府の目的は食料増産をして、18世紀末に、イギリスはフランスとの戦争に備えたのである。
一方17世紀末~19世紀初頭、イギリスとフランスは、ヨーロッパ本土において戦争を繰り返しただけでなく、世界的規模でアメリカ植民地・インド植民地においても激しく奪い合った。その長期にわたって断続的に繰り返された両国の戦争を、14~15世紀の百年戦争になぞらえて、第2次百年戦争とも言われている。
北インドにおけるプラッシーの戦いにおいてクライブ率いるイギリス東インド会社軍がフランス軍に勝利すると北インドはほぼイギリス東インド会社が支配する地域になった。こうしてインドがイギリスの支配する地域になることによってインドの手織りの綿布がイギリスに流入することになる。この綿布がイギリス本土で大流行することになる。