醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1473号   白井一道

2020-07-25 12:45:01 | 随筆・小説


 
 資本主義経済はいかに生まれて来たのか4



 イギリスの植民地獲得を担ったのはイギリス東インド会社である。東インドとは現在の南アジアのインドではなく、喜望峰から東の東南アジア、中国・日本までを意味していた。西インドが南アメリカ、カリブ海地域である。東インド会社とは国王の作った国営会社ではなく、商人が組織した会社であり、国王の特許状によって貿易独占権を持っていた。会社の目的は香辛料などのヨーロッパでは手に入れることのできない希少価値のあるものを獲得することが目的であり、当初は領土的侵略をすることではなかった。
 1600年、ロンドンの商人がインド以西のアジア各地との貿易を独占するため、エリザベス1世の特許を得て設立した。1601年からアジア貿易を開始したが1航海ごとに資金を集め、東南アジアの特産品、香辛料を獲得し、販売した富を出資者に分配した。
 イギリス絶対王政の最盛期、テューダー朝のエリザベス1世は、1600年12月、正式に「イギリス東インド会社」、つまり「東インド諸地域に貿易するロンドン商人たちの総裁とその会社」を法人と認める特許状を下付した。最初の東インド会社船4隻がロンドンを発ったのは1601年3月であった。500人以上が乗り組み、大砲を110門備えた武装船団である。翌年10月にスマトラのアチェに到着、さらにジャワ島のバンテンに立ち寄り、マラッカ海峡ではポルトガル船を襲い、積荷の胡椒などを略奪、1603年9月に無事イギリスに戻り、103万ポンドの胡椒を持ち帰った。ロンドンに入荷した胡椒はそこからヨーロッパ各地に売りさばかれた。
 イギリス東インド会社は、国王から貿易の特権を与えられた特許会社であり、それ以後、オランダ、フランス、デンマーク、スウェーデンといった西ヨーロッパ諸国が競って設立した東インド会社の最初のものである。その手本となったのは、すでに存在していたロンドン商人による地中海での東方貿易のためのレヴァント会社であった。それは一航海ごとに資金(株)を集め、船が帰国した後にその輸入品またはその販売代金を、投資額に比例して利益を分配するという株式会社の形態を採っていた。しかし、航海ごとに利益は分配されたため、恒常的・組織的な株式会社としては不十分なものであった。イギリスより遅れたが1602年に発足したオランダ東インド会社は、1回の航海ごとではなく、永続的に資金を集め、組織的な会社を組織し、利益を配当する形式をとったので、実質的な最初の株式会社と言うことができ、イギリスの東インド会社はその競争では後れをとることになる。
 モルッカ諸島は香料諸島とも言われ、香辛料の中の丁子とナツメグの唯一の産地として重要だった。1511年にマラッカを占領して東南アジアに進出したポルトガルがこの地に進出したが、次いでスペインのマゼラン艦隊が西回りで太平洋を横断してこの地をめざし、両国がこの地で争うようになった。初めはポルトガルが優位に立ってその香辛料を独占していたが、17世紀にはネーデルラント連邦共和国(オランダ)の東インド会社が進出してポルトガル勢力を駆逐し、アンボイナ島に要塞を築いた。それに対してやや遅れて進出してきたイギリスのイギリス東インド会社が、モルッカの香料貿易に割りこんできた。両国の東インド会社が激しく争ったが、本国ではその対立を回避しようとして、1619年に両社を合同させ、共同で経営させることを決定した。そのため、オランダ東インド会社のアンボイナ要塞の一部にイギリスも商館を設けることになった。
 本国では両社の合同は合意されたが、現地では依然としてオランダ人、イギリス人の対立が続いており、両社は対抗心を燃やしていた。そんなとき、1623年にオランダ商館は、イギリス商人が日本人傭兵らを利用してアンボイナのオランダ商館を襲撃しようとしているという容疑で、島内のイギリス人、日本人、ポルトガル人を捕らえ、拷問の末に自白させ、20名(イギリス人10人、日本人9人、ポルトガル人1名)を処刑するという事件が起こった。イギリス人と日本人の共謀した襲撃計画とは事実ではなかったらしく、オランダがイギリス勢力を排除し、モルッカの香辛料の独占をねらったものと考えられている。
 オランダのもくろみどおり、イギリスは事件に反撃することができず、東南アジアでの香辛料への進出をあきらめ、その後はインド方面への植民地進出をはかることとなる。この事件はイギリス国内の世論を刺激し、後の英蘭戦争の一因ともなった。
 重商主義経済政策による東南アジアの香辛料獲得にイギリスは敗北し、インドへの領土的侵略をする。