19世紀後半までアメリカ南部では奴隷制度が存続し得たのか。
奴隷制度とは古代社会の古い社会制度である。このような古い社会制度が近代化を進めているアメリカ合衆国で復活し、普及した。奴隷制度の維持を主張する南部の人々と奴隷制度の廃止を求める北部の人々との間で戦争にまで発展した。その戦争が南北戦争であった。
アメリカ南部諸州の人々はアフリカ黒人奴隷労働なしには綿花の大量栽培をすることができなかった。アメリカ南部の人々が黒人奴隷制度の維持を主張する経済的な理由があった。黒人奴隷労働の存在がアメリカ南部の人々の生活基盤を支えていた。アメリカ南部で生産された綿花はイギリスに輸出され、イギリスの繊維産業、綿布生産の原料提供地域がアメリカ南部であった。イギリスの綿布生産者たちはアメリカ南部の奴隷制度の存続を望んでいた。安価な綿布生産の原料が得られるからである。イギリス政府も国内の綿布生産者の意向に理解を示していた。フランスもまたナポレオン3世が、南北戦争に乗じてメキシコに出兵し、さらにマクシミリアンを皇帝に据えるためには、南北戦争が長期化することを歓迎していた。当時の国際社会はアメリカ南部の黒人奴隷制度の存続を認める意向があった。黒人の人権を根底的に否定するような前社会的な制度の存続を認めざるを得ないとするのがイギリスやフランスの政権担当者たちであった。
リンカーンはケンタッキー州の開拓農家の間仕切りのない丸太小屋で生まれている。西部開拓の最前線地域の一つで生まれ育ったリンカーンは現実主義者の弁護士になった。
大西洋三角貿易とは、イギリス商人がブリストルやリヴァプールなどの港からイギリス製品を積み込み、アフリカの族長階層で奴隷制度と結びついている西アフリカで製品を売るか奴隷と交換し、奴隷を連れてイギリスの植民地や他のカリブ海諸国あるいはアメリカ合衆国に船で運び、そこで農園主に奴隷を売るかラム酒や砂糖と交換し、それをイギリスの港に持ち帰った。18世紀、リヴァプールには奴隷貿易で築かれた巨万の富があった。この富がイギリス産業革命の資金になった。
啓蒙思想の普及が奴隷貿易廃止運動を起し、1807年イギリス議会で奴隷貿易法が成立し、イギリス帝国全体での奴隷貿易を違法とする法が成立した。
1833年奴隷制度廃止法が成立し、イギリスの植民地における奴隷制度を違法とした。1834年イギリス帝国内の全ての奴隷は解放されたが、年季奉公制度で元の主人に仕える者は残った。この年季奉公も1838年には廃止された。この財源としてロスチャイルドは1500万ポンドの金塊を供出していたが、それまでロスチャイルド自身も奴隷制に関わっていた。
国際的な民意は奴隷制廃止に傾きつつあった。このような国際情勢の中でアメリカ南北戦争は戦われた。
1860年の大統領選挙で奴隷制度拡大反対を掲げる共和党のリンカンが当選すると、南部諸州の反発が強まり、12月に連邦離脱を決定した。翌1861年、リンカンが大統領に就任、それに対抗する形で南部諸州はアメリカ連合国を成立させ、ジェファソン=デヴィスを大統領に選出した。アメリカ連合国の首都は初めはアラバマ州モントゴメリーであったが、間もなくヴァージニア州のリッチモンドに遷された。リンカンは、南部諸州の分離独立を認めず、対立は決定的となった。南部諸州は、綿花輸出先のイギリスと、ナポレオン3世のフランスの支援を期待していた。
リンカーンは奴隷制廃止が目的ではなく、アメリカ合衆国の統一を守ることであった。奴隷制を存続して合衆国の統一が守られるのならリンカーンは奴隷制を容認した。このような現実主義者であった。
1862年9月、リンカンは奴隷解放宣言の予備宣言を出し、南部諸州に対して黒人奴隷を解放を迫った。さらに、翌1863年1月1日に本宣言を出して、戦争の目的を黒人奴隷制度の廃止にあることを明確に示した。これによってイギリス、フランスなどの国際世論は北部に理があるとして支持に転換した。また、62年にはホームステッド法を施行して西部の農民の支持を受けて、さらに北部工業地帯の経済力を生かして次第を挽回し、1863年7月のゲティスバーグの戦いで北軍が大勝、最後は北軍のグラント将軍が南軍のリー将軍を降服させ、1865年3月にアメリカ連合国の首都リッチモンドが陥落して戦争は終結した。
世界の歴史を動かすものは世界の民意である。