資本主義経済はいかに生まれて来たのか3
古代ローマの市民たちは中国人女性が紡いだ絹のドレスに魅了されたが、イギリス人たちはインド人女性がその指先でせっせと300番もの細い糸を早朝の湿気の中、手で紡いだ木綿のドレスの美しさに魅了された。マルクスは資本論で書いている。英国帝国主義者たちは、インド手紡ぎ職人の白骨でインド高原を白く染めたと。アフリカ奴隷貿易に使用されていたインドダッカモスリンに替わって、英国産業革命は機械製綿製品を奴隷買収商品として活用、リバプール港に歴史的繁栄をもたらした。
インド、西アフリカを衰退・貧困化することによってイギリスに繁栄をもたらした。
イギリス絶対主義王朝の全盛時代の女王エリザベス1世に「わたしの海賊」とまで言われナイトの称号も与えられた国家の英雄が「悪魔の権化」と言われた海賊であり、イギリス海軍提督でもあったフランシス・ドレイクである。彼はまたイギリス人として最初に世界一周を実現した人物としても知られている。人類の歴史上2番目の世界一周達成者は海賊ではあったがイギリスの貴族でもあった。
フランシス・ドレイクには奴隷貿易で莫大な利益をあげたジョン・ホーキンスと言う親戚がいた。幼いころから水夫として働いていたドレイクは1567年、親戚のホーキンスに同行し10隻の船で奴隷貿易の旅に出発した。ところが航海の途中、海上で味方を装ったスペイン船の奇襲を受け、命からがら逃げ出せたのはたったの2隻で残りの船は沈められてしまったが、その2隻のうちの1隻がドレイクの船だった。20歳代の半ばだった若いドレイクにとってこの出来事は衝撃的で、この時の体験がスペインへの激しい敵対心を生み、スペイン船に対する残虐な掠奪行為をさせたのではないかと言われている。
1570年になると彼は西インド諸島でスペインの船やスペイン人の住む村を次々と襲い始めた。その後、サンブラス湾を根城に定め、カリブ海で海賊行為を繰り返し海賊として名前を上げていくが、そんな彼に転機が訪れる。当時イギリスは新興国で、海の王者スペインに対しては国を上げて対抗意識をもやしており、スペイン船やスペインの村を襲って蓄えた大量の財宝を持ってイギリスに帰還した彼は、エリザベス女王におおいに気にいられ女王専属の海賊となった。1577年エリザベス女王の許可を得て5隻の船団を組んで世界一周の旅に出た。出発当初は船員達には世界一周の事を伝えておらず、海賊行為のための出航と思っていた船員達も南米マゼラン海峡のあたりまで来るとさすがに船員たちにも不安をおぼえ始め不満も募ってくる。やがて反逆を企てる部下も出はじめるが、ドレイクは毅然とした態度でその部下を処刑し、先に進む強い意志を見せつけた。こうしてドレイクは南米西海岸の村々を襲撃しつつ北上し、ペルー付近ではスペインの大型帆船を襲って大量の宝石と18万ポンド(現在の価値で50億円以上)の金銀を手に入れる事にも成功した。
その後ドレイクは太平洋を横断し、フィリピン沖を通過しアフリカ喜望峰を廻って北上しイギリスのプリマスへと寄港し、1580年9月、ドレイクによる世界一周は達成された。ドレイクは海賊行為を繰り返しながらの航海で莫大な財宝を手にしていたが、それに加えて東南アジアでは丁字という香料を大量に仕入れて来たので、ドレイクが持っていた財産総額は60万ポンドを超えていた。ドレイクの船に投資した人達への配当はなんと4700%だった。一説には当時のイギリスの国庫金額を上回る額だったといわれている。とくに一番の出資者だったエリザベス女王は30万ポンドの配当金がはいり、女王はドレイクに「ナイト」の称号を与え「私の海賊」と言ってドレイクをねぎらった。
一方、ドレイクによって莫大な被害を受けていたスペインはイギリスにドレイクに対する処分と損害賠償をたびたび求めたが、女王がこれに従う事は無く、その後も両国は互いに海賊行為の応酬を続けることになる。ドレイクもイギリスの主力としてカリブ海を舞台に次々にスペイン船を襲撃し、スペインの無敵艦隊をも撃破し、イギリスに多大なる利益をもたらした彼はついにイギリス海軍のトップにまでのぼりつめた。このころドレイクがスペインから奪った金銀は後にかの有名な「東インド会社」の資金に繋がって行く事になる。つまり、海賊だったドレイクがイギリスの植民地政策と世界支配の根幹を作ったと言っても過言ではないのだ。
1600年植民地経営をする「東インド会社」をイギリスは設置する。17世紀のヨーッロッバ人にとって最も注目を集めた物というとそれは香辛料であった。この香辛料獲得に敗北したイギリスはインドに進出し、インドを植民地化していくことになる。