資本主義経済はいかに生まれて来たのか6
商業革命
16世紀、大航海時代はヨーロッパ経済の中心を地中海岸から大西洋岸に換えた。
大航海時代にポルトガルがインド航路を発見し、モルッカ諸島の香辛料貿易を独占し、繁栄した。スペインはアメリカ新大陸を征服し、インディオをほぼ絶滅させ、大量の銀を奪いヨーロッパに銀をもたらし田結果、貿易・商業のありかたのが大きく変わった。この大きな変化を商業革命と言われている。その要点は、 一つ、商業圏が世界的規模に拡大し、アジア・新大陸におよんだ。二つ、世界経済の中心地域が、従来の地中海周辺から、大西洋沿岸に移った。三つ、地中海交易で繁栄した高利貸し的な金融業者が没落した結果、ベェニスやジェノア、フィレンツェが衰退した。その結果新しい金融システムが形成された。四つ、.銀の大量流通によって物価が上昇し、地代に依存する領主階級の没落を決定的にした。
ヴェネツィアやフィレンツェに変わってリスボンとアントウェルペンが繁栄するようになった。ヴァスコ=ダ=ガマのカリカット到達(1498年)、カブラルによる香辛料貿易の開始(1501年)によって、インドからの香辛料が直接リスボンに運ばれ、そこからアントウェルペンを経てヨーロッパで商品化されるようになったことによって、従来の東方貿易の利益を独占していた北イタリアのヴェネツィアなどの商業都市国家の繁栄は終わった。同時に北イタリアと結びついていた、内陸の南ドイツやシャンパーニュ大市などの地位も低下し、かわってヨーロッパ経済の新たな中心地はリスボンとアントウェルペンなどの大西洋岸に面した港市に移動した。また、中世以来のフッガー家やメディチ家など旧来型の金融財閥は没落した。このような変化は政治的には、ハプスブルク家の神聖ローマ帝国の支配のもとで展開された。
しかし、ポルトガルとスペインは、この段階では経済の発展に対して国家機構が十分に対応することができず、資本を蓄積することはなかったため、17世紀にはいると両国は没落し、かわって主権国家としての体制をつくりあげたオランダとイギリスが台頭し、世界経済の中心もアムステルダムとロンドンに移り、リスボン、アントウェルペンは衰退する。
イギリスにおける生活革命
17~18世紀のイギリスでは新大陸やインド、東南アジア、アフリカなどから綿織物、コーヒー、茶、砂糖などの物資がもたらされることによって衣服、食事、住居、その他生活全般が大きく変わった。
17世紀のイギリスは、ピューリタン革命を経て名誉革命に至るイギリス革命によって政治体制が変革され、ジェントリと言われる中間層の経済力が高まっていった。並行して英蘭戦争や英仏植民地戦争で海外発展をとげ、海外に多くの植民地を支配するようになった。特にイギリス東インド会社によるアジア貿易と、イギリスとアフリカ・新大陸を結ぶ三角貿易によって、イギリスには急速に新しい物資が商品としてもたらされるようになり、人々を生活の面から変化させていった。
特にインドからもたらされた綿織物は急速に普及し、国内でもその生産が始まり、従来の毛織物中心のイギリス産業のあり方と共に、その服装を一変させた。また西インド諸島などからもたらされたタバコ・コーヒー・砂糖はイギリス人の嗜好品の大きな部分を占めることとなり、ロンドンなどの都市にはコーヒーハウスが出現し、あらたな情報交換や商取引の場となっていった。また、中国からもたらされた茶も急速に庶民に広がり、インドやスリランカでも栽培されるようになり、新たな紅茶の文化が形成された。イギリスにはドイツのビールやフランスのワインに匹敵する国民的飲み物がなかった。イギリス民衆の飲み物として紅茶が定着していった。中でも「誇示的消費」と『有閑階級の理論』を書いたソースタイン=ウェブレンが述べたような消費者がイギリスに出現してきた。それらの人々の嗜好品の一つが煙草である。ラス=カサスの『インディアス史』では、「この草は乾いた葉につつんであって、紙鉄砲のような形に作られており、その一端に火をつけ、反対の端を吸って、息と共にその煙を吸うと、肉体が眠ったようになり、ほとんど酔っぱらったようになる。それで疲れが治るのだという。この紙鉄砲を、彼らはタバコと呼んでいる」と述べている。タバコの原産は南米アンデス山脈である。ヨーロッパ人渡来以前から先住民が用いていた。ニコチンが喫煙や噛みタバコや嗅ぎタバコにより体内に吸収される。紙巻タバコがもっとも吸収速度が速い。、人類は「禁断の快楽」に身を委ねることになる。