醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1462号   白井一道

2020-07-10 16:39:36 | 随筆・小説


   タタールの平和 


「タタールの平和」が世界史の始まりである。このような話を聞いたのはもう40年も前のことになる。13世紀に世界史は始まった。それまでの世界の歴史はそれぞれ別個の歴史世界が並立していた。東アジアには中国を中心にした歴史世界がある。ヨーロッパにはローマを中心にした地中海世界があり、西アジアにはアラビア半島のメッカを中心にしたイスラム世界が存在していた。これらの歴史世界が別個に存在していた。この別個に存在していた歴史世界が一体化し始めるのが13世紀、世界史上初めて誕生した空前にして絶後の世界帝国、モンゴル帝国の出現である。モンゴル帝国の成立が世界を一体化し、世界史が始まったと私は学んだ。
 タタールの平和とは、モンゴル帝国の成立を意味している。Pax TaTarica、パックスタタリカ。このような言葉の起源はパックスエジプトにあると宮田光男氏の『平和の思想史的研究』で学んだ。上エジプトと下エジプトを統一した王朝が出現したとき、エジプトの平和が実現した。紀元1、2世紀古代ローマ帝国が繁栄を極めた時代をパックス・ロマーナと言い慣わされている。
 地中海世界に紛争が無くなった。軍事的に強大なローマ帝国に刃向う国が地中海周辺にはいなくなったことによって地中海世界に平和が実現した。ローマ帝国市民による厳しい収奪に抵抗できる軍事力を持つ集団がいなくなった。その結果が戦争がなくなった。ローマ市民の栄華と平和は属州民の窮乏化と没落であった。ローマ市民の栄華の裏には属州民の窮乏があった。この窮乏化した属州民の中からキリスト教が生れてくる。だから原始キリスト教の教えの中には反権力の思想があると私は考えている。
 パックス・アメリカーナとは、アメリカ合衆国の強大な軍事力に対抗できる国や勢力がなくなった時、世界に平和が訪れたということを意味している。アメリカ合衆国に富が奪われ、特に第三世界の富がアメリカ合衆国に吸い上げられていった。このアメリカ合衆国に抵抗する勢力が世界になくなった時代がパックス・アメリカーナの時代である。
 13世紀、モンゴル帝国が成立するとモンゴル帝国に抵抗できる軍事力を持つ国がなくなり、世界に平和が訪れた。世界中が平和になることによって東西交易が始まった。タタールの平和がマルコポーロの大旅行を可能にした。イタリア、ヴェネツィア共和国の商人、「マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか」フランシス・ウッド著 ; 粟野真紀子訳、このような本が出版されている。マルコ・ポーロの『東方見聞録』は有名である。また』、『三大陸周遊記』を書いたイブン・バットゥータは約30年をかけて旅を行っている。イブン・バットゥータは21歳の時にメッカ巡礼に出発し、当初の目的は巡礼と学究であったが、旅先でのイスラム神秘主義者、スーフィーとの出会いなどがきっかけとなり、メッカへ到着したのちも旅行を続ける。故郷を出発した時は一人だったが、途中で巡礼団と一緒になったり、政府の使節として旅行するなど、彼の旅の形態は多様である。エジプトからシリアのダマスカスを経てメッカに滞在したのちは、イラク、イラン、アラビア半島、コンスタンティノープル、キプチャク・ハン国、トゥグルク朝のデリー、マルディヴ、スマトラ、泉州、大都、ファース、グラナダ、サハラ砂漠などを訪れている。ただし、中国をはじめいくつかの土地に関しては、実際には訪れていないという考証もあるようだ。このような大旅行が実現した背景にはタタールの平和があった。
 『東方見聞録』,『三大陸周遊記』のような著作を可能にした背景にはモンゴル帝国の成立があった。世界の平和が大旅行を可能にしたのだ。この裏にはロシア人が「タタールの軛(軛)」という苦難の時代があった。ロシア人だけでなく、中国人もまたモンゴル人支配に対して漢民族の中国人は苦しんだ。13世紀のヨーロッパ人たちの祖先は、「地獄から来れる者ども」(エクス・タルタロ)というラテン語を思わせる「タルタル」をモンゴル人を指す語として用いたという。
 この「タタールの平和」の時代にイベリア半島で「レ・コンキスタ」という国土回復運動が起き、イスラム勢力をイベリア半島から追い出す戦いが始まっていく。この運動の延長上におきてくる出来事が新航路の探求を求める出来事である。スペインは西に向かい、ポルトガルはひがしに向かって船を進め、太平洋上で前年の教皇子午線を修正して西に移動させ、後にスペインがアメリカ大陸の大部分、ポルトガルがブラジルを領有する根拠となるトルデシリャス条約を結ぶ。これが世界最初の植民地分割である。

醸楽庵だより   1461号   白井一道

2020-07-10 16:39:36 | 随筆・小説


   タタール人について 



 白い肌、金髪、青い目の女性が日本語で私はタタール人ですと、自分で作成しているyou tuberで述べていた。一見するとどこにもアジア人の風貌がない。出身はどこなのかなと思ってアシヤさんのyou tubeを見ていると母親が出て来た。母親の姿にアジア人の血を感じた。黒い髪の毛、黒い瞳、肌の色にアジア人を感じた。もともとこの地域にはアジア系といってもトルコ系の民族が古くから流入していたようだ。アシヤさんの出身地に興味を抱き、次々とアシヤさん作成の動画を見ていると故郷へ帰還した映像があった。アシヤさんはウラル山脈の東側に位置するチェラビンスクの出身のようだ。モスクワから電車で29時間ぐらいかかるようだ。
 チェラビンスクはタタールスタン共和国にあるのかと思い地図で確認してみると違っていた。クリミヤをロシアが併合したとウクライナが抗議し、紛争になっている。このクリミアの住民の大半はタタール人だと教えられた。ロシアの南部、ウラル山脈からカスピ海、黒海の北側の地域には多くのタタール人が居住しているということを知った。
 タタール人はロシアの中にあって政治的にも経済的にも有力な民族のようだ。人口もロシア人に次いで多いのがタタール人である。このタタール人の中にはほぼコーカソイドと同じ形質を持つ人がいることを知った。ロシアは多民族国家なのだ。タタール人にはタタール語がある。ロシア語とは異なる言語がロシア国内において話されている。
 若かったころ『マルクス主義と言語学の諸問題』スターリンの書いたものを読んだ記憶が蘇った。ロシアのような多民族国家にあっては言語帝国主義の問題が起きてくるのはもっともなことだ。公用語をロシア語にする以上、どうしてもロシア語を母語とする人々が有利になる言語帝国主義が出てくることに注意しなければならない。
 ロシア史には「タタールのくびき」と言われる時代がある。モンゴル帝国のバトゥの西方遠征によって、1240年にキエフ公国が滅ぼされてから、1480年に独立を回復するまでの約240年続いた、ロシアがモンゴル人の支配を受けていた時代のことである。つまりロシアがモンゴルの支配を受けていた時代である。ノヴゴロド公アレクサンドル=ネフスキーは東方からのスウェーデンやドイツ騎士団の侵入を撃退したが、キプチャク=ハン国にはみずから進んで臣従し、1252年にはモンゴルの力でロシア正教の主教座のあるウラディミール大公となった。その後、ロシア諸侯はキプチャク=ハン国に対して貢納するという形で服属を続け、1480年、モスクワ大公国のイヴァン3世がキプチャク=ハン国から自立してその軍を撃退し、「タタールのくびき」は終わりを告げる。「世界史の窓」より
「タタールという言葉には、いつもある独特な響きがつきまとう。13世紀のヨーロッパ人たちの祖先は、”地獄から来れる者ども”(エクス・タルタロ)というラテン語を思わせる「タルタル」をモンゴル人を指す語として用いた。一説には、タルタルがモンゴルの一部族だった韃靼(タタール)の音とよく似ていたからだという。」注意しなければならないのは、現在ヴォルガ川中流で生活するタタール人ではないことである。現在のタタール人はヴォルガ中流域の先住民であるフィンランド人やハンガリー人の祖先たちと、後から移動してきたトルコ系民族(ブルガール人)の混血から生まれた民族で、イスラーム教化し、13世紀にモンゴルのキプチャク=ハン国に服属したが文化的にはモンゴル人を圧倒し、モンゴル人を同化させた。その後、征服者モンゴルを意味するタタールを民族名として自称するようになった。ロシア史においては、野蛮なモンゴルの圧政の下に高いキリスト教信仰を持つロシア民族が苦しんでいた時代、またその後のロシアの後進性であるツァーリズムの専制君主政や封建的な社会のしくみをモンゴル支配時代の影響とする見方が根強い。しかし、そのような見方は事実からは離れている。まずロシアを支配したキプチャク=ハン国は純粋なモンゴル人の国家ではなく、モンゴル人とトルコ系民族が融合した、モンゴル=トルコ人とも言われる人々であり、文化的にはイスラーム化したトルコ文化であった。キプチャク=ハン国が衰退して、モスクワ公国が自立してからも、同じ時期のキプチャク=ハン国の後身であるカザン=ハン国やクリム=ハン国の方が高い文化水準にあった。文化的に高いロシアが野蛮なモンゴルに支配された、というのは誤りである。また、キプチャク=ハン国のロシア諸侯に対する支配も間接統治に止まり、ギリシア正教の信仰も認められていた。