醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  186号   聖海(白井一道)  

2016-01-21 13:16:08 | 随筆・小説

  芭蕉はモテる男だった

句郎 芭蕉はもてる男だったみたい。
華女 イケメンだったの。
句郎 そう、当時はイケメンだったんじゃないかな。
華女 寿貞という奥さんらしき女性がいたんでしょ。
句郎 そうらしい。「数ならぬ身とな思ひそ玉祭」と寿貞への悼句を詠んでいるからね。
華女 寿貞さんは芭蕉の前では自分を「数ならぬ身」と卑下していたのね。
句郎 自分は一度もあなたを「数ならぬ身」だと思ったことはありませんよ。今、こうして我々の故郷伊賀上野の盂蘭盆会であ
なたの冥福を祈っているのです。
華女 芭蕉は優しい人だったのね。
句郎 芭蕉は同郷の女性、寿貞と深川の芭蕉庵で共に生活していた。その芭蕉庵で寿貞は元禄七年(1694)六月二日、亡くなっている。芭蕉は六月八日、門弟の去来の庵、京都・嵯峨落柿舎で寿貞、死の知らせを受け取った。芭蕉は寿貞の死に目に会っていない。
華女 当時、一週間ぐらいで江戸からの手紙を受け取ることができたのね。意外に速かったね。手紙で寿貞が亡くなったのを知り、芭蕉は寿貞の悼句を故郷の盂蘭盆会で詠んだのね。
句郎 芭蕉は寿貞の甥、村
松猪兵衛宛に書いた手紙が残っているんだ。
華女 三百年も前の手紙が残っているの。芭蕉のような有名人になると凄いのね。その手紙でどんなことを芭蕉は書いているのかしら。
句郎 「寿貞無仕合もの、まさ・おふう同じく不仕合、とかく申しつくしがたく候。何事も何事も夢まぼろしの世界、一言りくつはこれなく候。ともかくもよきように御はからひなさるべく候、うろたえもうすべく候間、特に気をしづめさせ、取り乱しもうさざるよう御しめしなさるべく候」
華女 「まさ・おふう」とは誰なの。
句郎 寿貞さんの娘だったようだ。
華女 芭蕉の娘だったの。
句郎 芭蕉の子ではないというのが有力な意見のようだ。ただもしかしたら芭蕉の甥の桃印の子ではないかという意見がある。
華女 だったら、芭蕉の血筋につながる子なのかもしれないのね。
句郎 寿貞もその子供たちも本当に不仕合せでものなのでよろしくお願いしたいという親心のような気持ちでこの手紙を芭蕉は書いている。
華女 芭蕉は現代人と同じような心性を持った人だったのね。
句郎 そうなんだ。江戸時代は身分制社会だったにもかかわらず、女性を卑賤視する心性が芭蕉にはなかったみたいなんだ。
華女 女性に対する差別意識がなかったということなの。
句郎 芭蕉は農民身分の出身だけれども武士身分の者に卑屈になるような所がなかったみたいなんだ。
華女 だからなのね。芭蕉はモテたんじゃないかと、いうわけね。
句郎 恋愛というのは対等な男女関係の中から生まれてくるものなんじゃないかと思うんだ。
華女 そうね。身分の高い女は身分の低い男に恋心を持つことなんて少ないと思うわ。
句郎 そうでしょ。身分差別が当たり前の社会にあって、性的対象としての女性ではなく、心から女性を好きなる人だった。

醸楽庵だより 185号  聖海(白井一道) 

2016-01-20 12:49:29 | 随筆・小説

  芭蕉は推敲する人だった

句郎 芭蕉は句を推敲する人だったようだね。
華女 そうみたいね。三百年前の推敲の様子が分かるという事が凄いと思うわ。有名な「閑さや岩にしみいる蟬の聲」になるまでいろいろと推敲しているんでしょ。
句郎 うん、「山寺や石(いわ)にしみつく蝉の聲」、「さびしさや岩にしみ込(こむ)蟬のこゑ」、「淋しさの岩にしみ込せみの聲」。このように三つも作って、最終的に「閑さや岩にしみいる蟬の聲」になったみたいだからね。
華女 「山寺や」が発案の句だったのかしら。
句郎 そうみたいだよ。
華女 たしかに「山寺や」では全然ダメだと思うわ。
句郎 そうだね。われわれでも詠めそうな句かな。
華女 そうね。上五に「閑さや」ともってきたから凄いのよね。
句郎 同感だな。『野ざらし紀行』に載っている句でも推敲を重ねている句があるんだ。「道のべの木槿は馬にくわれけり」。この句の後に載っている句が「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」だ。
華女 どこで詠んだ句なの。
句郎 東海道の名所「小夜の中山」でこの句を芭蕉は詠んでいる。
華女 「小夜の中山」は歌枕なんでしょ。
句郎 西行は「年たけてまた越ゆべしと思いきや 命なりけりさよの中山」と詠んでいる。
華女 「年たけて」とは年とってということでいいのかしら。
句郎 西行はこの歌を詠んだとき、六九歳だったようだ。
華女 西行は鎌倉時代に生きた人なんでしょ。
句郎 平安時代末期から鎌倉時代の初期に生きた歌人だね。
華女 当時にあっては、ものすごい老人よね。
句郎 だから感慨が深かったんじゃないかな。こんな歳になってまたこの峠を越えることがあろうとは思ってもみなかったことだ。こうしてまたこの峠が越せるなんて、命のあってのことだよ。小夜の中山よ。
華女 ここで芭蕉は「「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」の句を詠んだ。
句郎 朝早く、夢見心地のまま馬に乗って、はっと気が付いてみたら小夜の中山じゃないか。ほの白い有明の月が遠山の端にかかり、山の麓の里では茶を沸かす煙が立ち上っているではないか。
華女 「道のべの木槿は馬にくわれけり」の句と比べてみて、蕉風の句とはいえないような気がするわ。
句郎 読んですっと読者に入ってこないものね。
華女 そうよ。何を詠んでいるのか。いまいち伝わってこないように思うわ。
句郎 そうだね。だからかもしれない。芭蕉は推敲しているんだ。「馬上落ンとして残夢残月茶の烟」が発案だったようだ。
華女 「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」より「馬上落ンとして残夢残月茶の烟」の方が調べがあるように感じるわ。
句郎 確かに「残夢残月茶の烟」は口調がいいね。口調が良すぎて口調だけの談林の俳諧になってしまうかな。
華女 だからかしら、芭蕉は推敲したわけね。
句郎 そうなんじゃないかな。西行を偲ぶ句にしたいと芭蕉は思ったんじゃないかな。その結果、里人の生活を詠った。しかし成功しているのか、どうかな。

醸楽庵だより  184号  聖海(白井一道)

2016-01-19 12:37:07 | 随筆・小説

 「道のべの木槿は馬にくわれけり」芭蕉 貞享元年(1684)

句郎 「道のべの木(む)槿(くげ)は馬にくはれけり」。芭蕉のこの句は「山路来て何やらゆかしすみれ草」と並んで広く知られている句だよね。
華女 そうね。芥川がいうところの「調べ」がある句ね。だから覚えやすいのでしよう。きっと。
句郎 「古池や蛙飛びこむ水のおと」と同じように芭蕉をして芭蕉たらしめている句じゃないかな。
華女 蕉風の句ということ。
句郎 「古池」の句は貞享3年(1686)に詠まれた句だから、「道のべ」の句は貞享元年(1684)に詠まれているので、「古池」の句より二年前の句になる。「山路来て」の句は貞享二年に詠まれている。「古池」の句の一年前の句だ。
華女 確かに、この三つの句に共通するものは静かさかな。この句を前にすると読者の心を静かにするような働きがあると思うわ。「道のべ」の句と「山路来て」の句より「古池」の句の方が静かさが深いように感じるわ。
句郎 そうだね。この深い静かさのようなものが蕉風の句の特徴なのかな。
華女 蕉風開眼の句が「古池」の句だと言われているの。
句郎 そのようだよ。機知に富んだ笑いの談林俳諧から抜け出た句を蕉風の俳諧というらしいんだけれどね。この三つの句には機知はないものね。
華女 侘び・寂びの句ね。
句郎 芭蕉は『野ざらし紀行』を通して談林の俳諧から抜け出し、芭蕉独自の俳諧を創造していったのかな。
華女 旅を通して芭蕉は新しい文芸作品を創造したわけね。
句郎 そうなんじゃないかな。後の芭蕉の俳諧理念のようなものが萌芽として生まれてきているんじゃないかと思う。
華女 芭蕉の俳諧理念とは何なの。
句郎 それはまず、今、華女さんが言った「侘び・寂び」と「しほり」。最後に「かるみ」ということを言うんだ。
華女 「しほり」とは何。
句郎 芭蕉の弟子に森川許六という人がいた。その人の句に「十(とう)団子(だご)も小粒になりぬ秋の風」がある。この句に「しほり」ありと芭蕉は言ったようだ。
華女 この句のどこに「しほり」があるのか、分からないわ。
句郎 東海道の宇津谷峠という所にあった茶店に「十団子」という名の知れた団子があった。秋の風が吹き始めると街道を行く旅人も疎らになり、団子も小粒になった。ここに無常の「あわれ」が形象化されているということらしいよ。
華女 「もののあわれ」が形象化されたものが「しほり」なの。
句郎 そのようだよ。
華女 「かるみ」とは何。
句郎 仏教でこの世は苦だというじゃない。生老病死、四苦八苦の世界だと、この苦の世の中を嘆くのではなく、笑って受け入れていこう。この世は良いものだ。たまにはいいことだってあるじゃないか。人を乗せ、苦しい道中をしてきたが、一休みさせてくれたところに柔らかな木槿が咲いている。美味しそうに馬がむしゃむしゃと食べた。こんな風景に私の心は癒されるのだ。こんなことを表現することが「かるみ」の形象化だと思う。「かるみ」は『奥のほそみち』のなかで生まれてきた美意識のようだけれども、『野ざらし紀行』の中に蕉風開眼の萌芽があると思うんだ。「道のべ」の句には「かるみ」の萌芽が表現されている。

醸楽庵だより  183号   聖海(白井一道)

2016-01-18 15:53:04 | 随筆・小説

  「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」芭蕉

句郎 「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」。芭蕉の有名な句があるでしょ。
華女 芭蕉の辞世の句なの。
句郎 この句の前書きに「病中吟」とあるから芭蕉が亡くなる元禄七年(1694)十月十二日より少し前に詠んだ句なんじゃないかな。
華女 ほぼ辞世の句といってもいいんじゃない。
句郎 そうだよね。生前最後の句のようだものね。辞世の句だといっても間違いじゃないと思うな。
華女 「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢」。豊臣秀吉の有名な辞世の句があるじゃない。自分の人生を閉じ込めたような言葉を辞世の句というんでしょ。「旅に病んで」の芭蕉の句が芭蕉の人生を閉じ込めた言葉になっているのなら、辞世の句だと言っていいのじゃないも。
句郎 秀吉の句には太閤秀吉の人生が閉じ込められている言葉になっているよね。なんか出来過ぎの感があるなぁ。「旅に病んで」の芭蕉の句には芭蕉の人生が閉じ込められているのかどうか、難しいものがあるように思うんだけれどもね。
華女 確かに芭蕉の人生は「枯野」を「かけめぐる」ような人生ではなかったようにも感じるわ。
句郎 そうでしょ。やっぱり、生前最後の句と言った方がいいような気がするな。
華女 死を自覚した人間最後の想いのようなものを詠んでいると感じるわ。
句郎 そうなんだ。とても哀しい句だと思うんだ。自分には何も成し遂げたものがないという思いのようなものがあるよね。この句には。秀吉の辞世の句とは全然違うよ。
華女 自分はまだまだしなくちゃならないことがあるという思いかしらね。
句郎 この句について、森澄雄は次のようなことを言っている。「人生のかたわらにほっと息をぬいた安心の場と、あくまで人生の真中で汗にまみれようとするけわしさとの相克」があるとね。
華女 なんか、分かるような気がするわ。
句郎 まだまだ、死ねるような状況じゃない。そんな句だよね。澄雄がこのような評をなぜしたのかと、いうとね、「虚に居て実をおこなふべし。実に居て虚にあそぶべからず」という芭蕉の言葉が澄雄は好きだったらしい。
華女 とても難しい言葉ね。「虚に居て実をおこなふべし」とは、どんなことを意味してるの。
句郎 蜜柑が一つ、二つとある。このような一や二という数字を自然数というんだ。しかし0やマイナス1という数字は具体的には存在してないでしょ、ただ抽象的に存在しているだけなんだ。抽象的存在の数字がなかったら、引き算や割り算が出来なくなってしまうじゃない。抽象的存在の数字の存在が物の長さを計り、物を組み立てる時には絶対必要なんだ。
華女 その抽象的にしか存在しないものが俳句作りにも必要だということ。
句郎 そうなんだ。「虚」とは俳句作りの理念や想い、表現したいと思うものなどは抽象的存在でしょ。この抽象的存在物に具体性を付与することが表現するということなんじゃないかな。このことを「虚に居て実をおこなふべし」と芭蕉は言ったのだと思うんだ。
華女 ごくごく当たり前のことね。

醸楽庵だより  182号   聖海(白井一道)  

2016-01-17 16:48:28 | 随筆・小説
 
  「辛崎の松は花より朧にて」この芭蕉の句、どこがいいの

句郎 「辛崎(からさき)の松は花より朧にて」、『野ざらし紀行』にある句があるでしょ。つまらない句だと思わない?
華女 そうね。芭蕉が何歳の時の句なの。
句郎 貞享二年(1685)、42歳のときに詠んだ句だね。
華女 そろそろ芭蕉の本領が発揮されてくる頃ね。
句郎 そうだね。芭蕉は51歳で亡くなるからね。
華女 旅の途上、どこで詠んだ句なの。
句郎 琵琶湖畔の大津、本福寺の千那亭において俳諧興行行われ、その席で詠んだ発句だったんじゃないかな。「湖水の眺望」と『野ざらし紀行』にあるから、亭主への挨拶句かもしれないな。
華女 「唐崎の松」が朧に見えて結構な庵に招かれ有難うございます。このような挨拶をした句なの。
句郎 大津、千那亭から本当に唐崎神社の松が見えたんだろうね。
華女 「唐崎の松」というのは、広重の近江八景の一つ「唐崎の夜雨」で有名な松なんでしよう。
句郎 もちろん、広重は芭蕉より後の時代の人だから芭蕉が広重の浮世絵を見ていることはないと思うけれど。
華女 芭蕉が生きていた時代にはもう「唐崎の松」は有名な大木として知られていたんでしょ。
句郎 そうなんだろうね。有名な大木だったから芭蕉は句に詠んだんだろうね。
華女 枝が四方八方に広がった大木なんでしよう。
句郎 そうらしいね。
華女 琵琶湖畔の大津では、桜の花より「辛崎の松」の方を春になると眺めるのが楽しみなんでしようねと、いうような句なのかしらね。
句郎 まさに挨拶だね。「唐崎の松」を愛でる大津の人々に対する挨拶だね。
華女 「朧にて」という下五の言葉にそんな意味が込められているのかなと思っただけなんだけど。
句郎 「にて」で留める句なんて珍しいものね。
華女 「朧かな」じゃ、「唐崎神社の松」を愛で誇る大津の人々の気持ちが表現できないように感じるわ。
句郎 『去来抄』に「にて留の難有」という意見に対して芭蕉は「我はただ花より松の朧にて、おもしろかりしのみと也」と言ったと書いてあるんだ。
華女 「朧にて」の方が趣が深いと感じたまでだと、いうことでしょ。
句郎 芭蕉の感覚は人の気持ちを快くする言葉を見つけるんだろうな。
華女 俳諧師はそうでなくちゃ生きていけなかったんじゃないの。
句郎 大津に住んだことがない我々には「辛崎の」の句が分からないのかもしれないな。
華女 きっと今でも大津の人々にとって、この芭蕉の句は、すっと心に渋滞することなく入ってくるくなのかもしれないわ。
句郎 そうかもしれないね。この句の発案は「辛崎の松は小町が身の朧」だったらしい。中国では「西湖と西施」。芭蕉にあっては「琵琶湖と小町」を連想した。千那亭から朧に見える唐崎の松が小野小町のように見えると、詠んだけれども、これでは大津の人々への挨拶にならないと気が付き「辛崎の松は花より朧にて」と推敲したのかもしれない。
華女 芭蕉という人は、本当に気のまわる人だったのね。
句郎 だから弟子が多かった。

醸楽庵だより  181号   聖海(白井一道) 

2016-01-16 15:54:20 | 随筆・小説

  俳句は動詞が少ないほうがいい。なぜーー?

句郎 「菊の香やならには古き仏たち」。芭蕉が元禄七年(1694)に詠んだ句がある。動詞が一つもない。
華女 何だったかな。名詞だけを連ねた句が芭蕉の句にはあったわね。「奈良七重七堂伽藍八重ざくら」。
句郎 貞享元年(1684)、芭蕉が41歳のときに詠んだ句だね。
華女 俳句には動詞が少ない方がいいとよく言われるけれども、どうしてかしら。
句郎 万葉集、大伴家持の歌に「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ乙女」がある。この歌には動詞が使われているけれども、名詞が大きな役割をしている。「春の苑」、「桃の花」、「乙女」。匂うような美しい少女のイメージが浮かんでくる。
華女 日本語の韻文は名詞的表現に力があるのね。
句郎 「菊の香や」の芭蕉の句にも菊の香りが漂う仏像のイメージを読者に想い浮かばせるよね。
華女 「奈良七重」の芭蕉の句も古き都、奈良のイメージが浮かんでくるわ。
句郎 馴染の縄暖簾をくぐり、「生」と言うと、オヤジは黙って、生ビールのジョッキをカウンターに出してくれる。こんなことあるでしょ。
華女 へぇー、そうなの。「生」と言えば、すべて通じるのね。そういえば、お蕎麦屋さん行き、「ざる」と言えば、確かに通じるわね。「て、に、を、は」を付けなくとも、動詞がなくとも「私はざる蕎麦がいいわ」と云わなくとも通じるわね。
句郎 主語、述語のない名詞だけで立派な文章になっていると国語学者が言ってるそうだよ。
華女 助詞や動詞を省略するわけね。
句郎 省略して通じる文は省略した方が心が通うってことがあるんじゃないかな。
華女 何も言わずにわかることっていう事ね。
句郎 近しい関係を味わうことができるっていうことかな。
華女 うーん。わかるわ。
句郎 そうだよね。特に若い男と女の場合、そうかもしれないな。
華女 それが韻文の余韻のようなものにもなっていくのかしら。
句郎 そうなんじゃないかな、と思っているんだけれどね。
華女 名詞的表現というのは省略された表現になるからなのね。その方が余韻が醸し出されるのかもしれないわね。
句郎 奈良に行くとね、菊の香りのする古い仏さんがたくさんあるんだよ。このような散文にしてしまったら、味も素っ気もないつまらない散文でしかなくなってしまう。
華女 説明する言葉を省いた方が良いわけなのね。だからね。俳句の先生がよく「この言葉は説明ね」と言うのを聞くわ。
句郎 そうでしょ。説明する言葉を省く。単語一つが持っている多くの意味を表す言葉を重ねない。助詞や動詞をできる限り省く。残るのは名詞だけだ。意味の違った名詞を重ね、繋ぐ。このことによって一つの世界を創りだすことが句を詠むということなのかもしれないな。
華女 「奈良七重七堂伽藍八重ざくら」。この句の場合、奈良、大寺院、桜。大景から徐々に小景に並べただけで立派な句になっているんですものね。
句郎 問題は並べ方なのかもしれないな。

醸楽庵だより  180号   聖海(白井一道)

2016-01-14 15:01:45 | 随筆・小説

 芭蕉の俳句の特色とは

句郎 「春雨」を芭蕉は、元禄二年に「春雨や蓬(よもぎ)をのばす草の道」また、元禄四年には「不性(ぶしょうさ)さやかき起されし春の雨」と詠んでいる。この二句を芥川龍之介は取り上げ、「僕はこの芭蕉の二句の中に百年の春雨を感じている」と絶賛している。
華女 「百年の春雨」とはどんなことを言っているのかしら。
句郎 映画か、小説の題名になりそうな言葉だね。
華女 そうね。
句郎 春雨とはこういうものだ。春雨が表現されているということを「百年の春雨」と文学的に表現したんじゃないかな。
華女 確かに「草の道」の「蓬を」「春雨」は「のばす」わね。
句郎 調べがいい。「気品の高いのはいうにまたぬ」と芥川は言っている。
華女 えらく褒めているのね。子規は芭蕉を貶(けな)していたんでしょ。
句郎 更に「不性さや」に起こり、「かき起されし」とたゆたった「調べ」にも柔(じゅう)媚(び)に近い懶(ものう)さを表している。このように芥川は芭蕉の句を評している。
華女 春雨の艶(なま)めかしさが表現されているということかしらね。
句郎 「芭蕉の俳諧の特色の一つは目に訴える美しさと耳に訴える美しさとの微妙に融けあった美しさである」と芥川は言っているよ。
華女 口調がいいということなんでしょ。そうね。「秋深き隣は何をする人ぞ」。この句、芭蕉の句なんでしょ。
句郎 今では、諺みたいに使われているものね。
華女 口誦になっているわね。そうなんじゃない。
句郎 そうだね。「おもしろうとやがてかなしき鵜舟かな」なんていう句も広く口ずさまれているね。芥川は「秋ふかき」の句を「こういう荘重の調べを捉え得たものは茫々たる三百年間にたった芭蕉一人である」と言っている。
華女 芥川は「芭蕉神社」の神主さんね。
句郎 芥川は蕪村の句との比較をしている。
華女 蕪村と比較し、どんなことを言っているの。
句郎 「春雨やものかたりゆく蓑と笠」、「春雨や暮なんとしてけふもあり」など、蕪村が春雨を詠んだ句を取り上げ、「大和絵らしい美しさを如何にものびのびと表している。しかし耳に訴えてみると、どうもさほどのびのびしない」。蕪村の句は読んで絵を心に描くことはできるが、口ずさんでも口誦にはならないということのようだ。
華女 蕪村の句は目には訴えるけれども耳には訴えないということね。
句郎 芭蕉の句は、目にも、耳にも訴える。絵画的であると同時に音楽的でもあるのが芭蕉の句であって、蕪村の句は絵画的ではあっても音楽的ではないということのようだね。
華女 分かるような気がするわ。「五月雨をあつめて早し最上川」芭蕉と「「さみだれや大河を前に家二軒」蕪村を比べてみると確かに芭蕉の句には調べがあるけれども蕪村の句には芭蕉の句にある調べは無いわね。しかし蕪村の句には絵があるわ。まんまんと水をたたえた大河の前の家が瞼に浮かぶわ。

醸楽庵だより 179号   聖海(白井一道)

2016-01-13 15:39:37 | 随筆・小説

 芭蕉の言葉「俗語を正す」とは


句郎 「じだらくにねれば涼しき夕べかな」。宗次という人の句が猿蓑集巻の二に載っているんだ。
華女 元禄時代の人の句ね。三百年前の人も今の人と同じ気持ちだったのね。
句郎 芭蕉同門の人たちが俳諧『猿蓑集』の編集をしている時に宗次という人が数句投稿してきたんだ。見てみるとどの句も入集できるような句ではないというのが編集に携わっている人たちの一致した見解だった。疲れた。皆さんも一服して下さい。私もちょっと横になりますよ。芭蕉が横になると編集委員たちの間の緊張がほぐれ、去来が自堕落に休むと夕べの涼しさが身にしみますねと、言った。その言葉を聞いた芭蕉は「じたらくの」の句を入集させましょうと言った。この句は発句になっていますよ。こうした事情で入集した句のようなんだ。
華女 どうして゜、そんなことが分かるの。
句郎 『去来抄』に書いてあるんだ。
華女 編集委員会というのは今も昔のかわらないのね。でも芭蕉はどうしてこの句を『猿蓑集』に採
用しようと決めたののかしら。
句郎 「じだらく」という俗語がこの句では詩語になっていることに芭蕉は気付いたからだということを芥川龍之介が『芭蕉雑記』の中で述べているんだ。「じだらくに」は「芭蕉の情調のトレモルを如実に表現した詩語である」と述べている。
華女 へぇー、そうなの。
句郎 芭蕉は弟子の土芳に「俳諧の益は俗語を正す也」と云った。土芳が残した『三冊子』の中にある芭蕉の言葉だ。
華女 「俗語を正す」とは日常用いる言葉を詩語にすることを言うのね。
句郎 「俗語を正す」とは「俗語に魂を与えることである」とも言っているから詩語とは魂のある言葉なのかもしれないな。
華女 言霊のある言葉が詩語なのかもね。
句郎 そうかもしれない。「じだらくにねれば涼しき夕べかな」。この句には人間が表現されているものね。
華女 緊張感から解放されたときの安らぎみたいなものかしらね。
句郎 ふっと口をついてでてくる言葉に人間を表現する言葉が出てくることがあるということかな。。
華女 作意のない言葉ね。
句郎 「命なりわづかの笠の下涼み」。三十三歳の芭蕉が帰郷の際、小夜の中山で詠んだ。この句の「命なり」の語の横に芥川は点を打っている。このことは「命なり」の言葉には魂が籠っているというを意味していると思うんだ。俗語が詩語になっているということだと思う。
華女 真夏の街道を行く旅人にとってはまさに笠の下の涼しさは命なんだと感じるわ。
句郎 作意のない句だね。
華女 作意がなければ句はできないんでしようけれども作意あっては句ができないとは矛盾ね。
句郎 「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師のおりしも私意をはなれよという事なり」という芭蕉の言葉が『三冊子』にある。僕が言う作意とは芭蕉が言う私意ということかな。
華女 作意と私意、同じような言葉ね。
句郎 見た物、そのものが自分の表象となるということ。主体と客体が一体化するということかな。

醸楽庵だより  178号   聖海(白井一道)

2016-01-12 16:07:59 | 随筆・小説

 『現代俳句に生きる芭蕉』堀切実  この本を読み感じたこと。

句郎 「閑さや岩にしみ入る蟬の声」、この句は芭蕉の有名な句の一つだよね。
華女 そうね。
句郎 この句を加藤楸邨は「真実感合」の句の代表として挙げている。
華女 「真実感合」とは、どんなことなの。
句郎 「真実感合」とは、自分がものを見て感じたことや分かったことがそのものの真実だと主張することのように理解しているんだけれどね。
華女 山寺の森の中に「閑さ」の真実を芭蕉は発見したということなのね。
句郎 単なる写生じゃない。
華女 子規が唱えた客観写生とは違うの。
句郎 子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」という句があるでしょ。この句は単なる「客観を描写した」句ではないと楸邨は言っている。「鶏頭の写生の真実の中に、子規の存在の真実が浸透している」のだと楸邨は言う。
華女 「写生」という言葉は難しいのね。
句郎 楸邨は子規の写生という言葉をこのように理解したということなんじゃないかな。
華女 虚子の花鳥諷詠も同じなのかしらね。
句郎 きっと同じなんじゃないかな。「物に入りて、その微の顕れて情感ずるや、句と成る所なり」と芭蕉の言葉が『三冊子』の中で紹介されているでしょ。また別の個所では「物の見えたる光、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」とも。
華女 芭蕉が言っていることと同じことを子規も虚子も別の言葉で言っているということなのね。
句郎 芭蕉は子規・虚子に受け継がれ、現代に生きているんじゃないのかな。
華女 楸邨の句にも芭蕉は生きているのね。
句郎 そうなんじゃないかな。「寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃」という句を楸邨は「閑さや岩にしみ入る蟬の声」と同じ真実感合の句だと言ってる。
華女 凄い自信家ね。
句郎 そうだね。凄い勉強家だったんじゃないかな。
華女 「寒雷」という季語は楸邨が使い始めて広まった季語らしいわよ。
句郎 「寒雷」は楸邨の造語なの。
華女 冬の雷じゃ、憂鬱な気分を吹き飛ばすようなすさまじい雷鳴が表現できないということらしいわよ。
句郎 この句から『寒雷』という俳誌ができたのかな。
華女 きっと、そうなんじゃないの。
句郎 楸邨は「冬の雷」に「寒雷」を発見した句が「寒雷やびりりびりりと真夜の玻璃」という句だったのかな。
華女 真冬の夜中、作句に苦しんでいた時、雷鳴が轟き、ガラス窓がぴりりぴりりと鳴り響いた。作句の苦しみから解放され、「寒雷」を発見したのかもしれないわ。
句郎 「冬の雷」の真実は「寒雷」にあると楸邨は認識したんだろうな。
華女 「寒雷」という言葉を多くの俳人たちが使い始めたことによって「寒雷」は季語として認められるようになったのね。
句郎 身の周りの自然には無限の事実が満ちているけれども、それらの事実の中の一つに真実の事実がある。その真実の事実を表現する言葉は一つしかない。その一つの言葉を見つけることが表現するということなのかもしれないな。
華女 楸邨は「寒雷」と云う言葉を見つけたのね。