醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1181号   白井一道

2019-09-09 12:12:04 | 随筆・小説



    「徒然草第9段」を読む


 「女は、髪のめでたからんこそ、人の目立つべかンめれ」と兼好法師は「徒然草第9段」を書き出している。女は髪が美しいと人目にも良く見える。黒く長い髪の毛は美しい。島崎藤村もまた『初恋』を詠っている。
まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな

林檎畑の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ

 リンゴの木の下の黒い髪の毛の乙女に藤村が恋をしたように兼好法師もきっと黒い髪の毛の女に悩まされたのだろう。
「人のほど・心ばへなどは、もの言ひたるけはひにこそ、物越しにも知らるれ」。「人のほど」、身分の高さや「こころばえ」、気立ては「もの言ひたるけはひにこそ」、話し方や声色にこそ、物越しにもわかるものだと、述べている。女の話す声を聞けば、その女がどのような女なのかが分かると述べている。確かにそうだと、発言する男がいる。声の高さ低さ、調子、速さ、言葉の選択などが話し声を聞けば女の年、処女か経験者か、未婚者なのか、既婚者なのかどうか、分かると発言をした友人がいた。職場に初めて赴任してきた女性職員と一言、話した友人が言った。彼女は独身だよ。男はいない。発言は厳しい。酒は好きだよとー。
 「ことにふれて、うちあるさまにも人の心を惑はし」と兼好法師は「ことにふれて」、ちょっとした女の振る舞いに心を惑わされたことがあるのだろう。
「すべて、女の、うちとけたる寝(い)もねず、身を惜しとも思ひたらず、堪ふべくもあらぬわざにもよく堪へしのぶは、ただ、色を思ふがゆゑなり」。
 当時の貴族社会はまだ妻問婚だったのだろうか。妻は夫が通ってくることを待ち続けていたということか。女は安心してぐっすり眠ることもなく、自分の身をいたわることに気をつかうことなく、耐え難いことにもよく耐え忍ぶのは、ただ男(夫)を思うが故である。女性は絶えず、夫(男)が通ってこなくなることを心配していたということのようだ。妻問婚の社会に生きる女性の不安、残酷性のようなものに兼好法師は気づいていないようだ。
 「まことに、愛著(あいじゃく)の道、その根深く、源遠し。六塵(ろくじん)の楽欲(ぎゃくよく)多しといへども、みな厭離しつべし」。 誠に、男女の道はその根が深く、遠い。六塵(ろくじん)と言われる「眼耳鼻舌身意」を感覚器官とする「色声香味触法」の欲望が身を亡ぼすから、それらすべてを厭い避けるべきだと兼好法師は述べているがーー。
「その中に、たゞ、かの惑ひのひとつ止めがたきのみぞ、老いたるも、若きも、智あるも、愚かなるも、変る所なしと見ゆる。されば、女の髪すぢを縒れる綱には、大象もよく繋がれ、女のはける足駄にて作れる笛には、秋の鹿必ず寄るとぞ言ひ伝へ侍る。自ら戒めて、恐るべく、慎むべきは、この惑ひなり」。
「六塵(ろくじん)の楽欲(ぎゃくよく)」の中に一つ、我慢できいものがある。それは老いたる者も若い者も、知識人も愚かな者も変わる所はない。女の髪の毛で縒った綱では大きな象も繋ぐことができるように、女の履く足駄で作った笛の音には秋の鹿が寄ってくると言い伝えられている。自らを戒めるべきこと、慎むべきことはこの惑いなのだ。それは性的欲望であろうと今から700年前に兼好法師は述べておられる。性的欲望は我慢しづらいものであると我々に注意を促している。
しかし性的欲望を満たすことが禁止されている人々がいる。刑務所に入れられている人々である。死刑囚であった永山則夫は獄中結婚したが妻と手を握り合うこともなく、離婚し死刑された。戒律の厳しい宗派の僧侶やキリスト教の宗派によっては妻帯が禁止されている神父たちがいる。

醸楽庵だより   1180号   白井一道

2019-09-08 11:02:37 | 随筆・小説



   政治災害に苦しむ国境の島・対馬


  年間40万人の韓国人客が激減、長崎・対馬の静かすぎる夏    藤中 潤 日経ビジネス記者



「売り上げは9割くらい下がったのかな。いつもだったら船を待つ韓国のお客さんが買い物に来てくれて、会計待ちが長くて諦める人もいるくらいなのに」。韓国・釜山への航路がある長崎県対馬市北部の比田勝港近く。アイスクリームや飲み物、土産品を販売し、イートインスペースを備えた商店を営む天瀬弘子さんは出航を待つフェリーに目をやり、そうつぶやいた。
日曜日の夕方ともなれば「出国手続きの行列がターミナルから道路にずっと続いていた」(天瀬さん)。8月最後の日曜日となった25日の夕方は、430人が乗れる高速旅客船の出航まであと1時間を切ったというのに、港に集まった旅行者は100人にも満たないようだった。
 福岡市から北に約100㎞の玄界灘に浮かぶ国境の島・対馬。古くから漁業などが盛んだが、2018年は41万2782人の外国人が訪れるなど観光の島でもある。外国人観光客の99%以上は福岡市よりも近い約50km北の韓国から訪れる。対馬市のまとめでは、韓国人観光客は2010年に6万人ほどだったが40万9882人にまで急増した。
 それとともに旅行客向けの商店も増加。天瀬さんの店も、もともとは電器店として使用していたが、旅行者の増加を目の当たりにして、3年ほど前に旅行客相手の商売を始めたばかりだという。ホテルなどの宿泊施設も増えており、人口約3万人の島に小規模の民宿などを合わせると100軒を超える宿泊施設がある。日本の他の地域と同様に過疎化が進む中、地価上昇の動きさえもあった。
 だが、この夏、日韓関係の悪化で状況は一変している。比田勝港では韓国と結ぶ旅客船の減便が相次ぎ、市南部の厳原港を発着する韓国便は全便運休になった。法務省の出入国管理統計によると、減便が始まった今年7月に比田勝港から入国した外国人は1万4891人で、昨年同期の2万3382人から5000人近く減少している。
 韓国人観光客の減少は島内各地に打撃を与えている。島の南部に位置し、市役所などもある市中心部の厳原地区。ホテルやショッピングセンター、免税店などが立ち並ぶこの地域では、ホテルや商店の出入り口はもちろん、郵便局や工事の看板にまであらゆるところにハングルの表記がある。ただ人波はまばらで、買い物帰りの地元住民の姿がほとんどだ。
「この通りは韓国の人たちがいつもいっぱいだったのに、今はさっぱり。ホテルもずっと満室続きだったけど、団体客のキャンセルが続いてガラガラ。大打撃ですよ」。ホテルに勤める50代の女性は説明する。ホテルの館内に人の気配はなく、「この状況が続けば経営は立ち行かない」と表情を曇らせる。
 状況は韓国資本の宿泊施設も同様のようだ。厳原地区の高台から海を臨むホテル。ここは対馬と韓国を結ぶ船便を手掛ける韓国の会社が経営する施設だ。韓国人の従業員は「7月以降、宿泊客が大きく減少している。今日に関しては韓国からのお客さんは1人もいない」と話す。
 島内の店舗では環境変化に対応する動きも見られる。
 「あそこは日本人が入ると注意されるんですよ」。近所の住民らがそう話していた韓国人観光客向けの免税店。記者が身分を明かさずに「日本人ですが大丈夫ですか」と入店すると、住民の言葉に反して店員は「どうぞゆっくりご覧になってください」と丁寧な対応で迎えてくれた。
 免税店内の商品にはハングルで書かれたタグが付けられている。店内にいる客は韓国人とみられる3人だけだった。免税店の対応を先の住民らに伝えると「信じられない」と驚いていた。
 住民らは口々に「韓国バブルは弾けた」と話す。また「今さら日本人を島に呼び込もうとしてもうまくはいかない」と指摘する人もいる。韓国頼みになっていた対馬の観光ビジネスを見直す時が来ているのかもしれない

醸楽庵だより   1179号   白井一道

2019-09-07 11:39:17 | 随筆・小説
   


     「もののあはれ」を考える

 『古今集』にある紀友則の和歌「雲もなくなぎたる朝の我なれやいとはれてのみよをばへぬらむ」
をロシア出身の世界的ピアニスト、ヴァレリー・アファナシエフは、若かった頃読み、この歌には
「もののあはれ」があると実感したという。
 「雲もなくなぎたる朝の我なれやいとはれてのみよをばへぬらむ」。この歌は何を詠んでいるのだ
ろうか。空には雲一つなく、川面には風もなく浪のたつことのない朝のような私なのだ。その私は
厭われてのみこの世を過ごしているようなことだなぁー。自分はこんなに穏やかで何一つ社会に対
しても人に対しても嫌がるようなことをしない人間であるのに、なぜこんなに世間から嫌われ、迫
害されなければならないのかと詠んでいるのだとアファナシエフは理解したのではないかと私は思
う。
 ヴァレリー・アファナシエフはモスクワ音楽院の優秀な学生だった。彼は自由に憧れていた。西
側世界には自由がある。思う存分、自分の才能を開花させることができる。アファナシエフは一人
国を捨てる決心を固めた。ソヴィエト政府の下で自由を求める人々の気持ちに「もののあはれ」を
アファナシエフは発見したのではないかと思う。
 「雲もなくなぎたる朝の我なれやいとはれてのみよをばへぬらむ」。『古今集』紀友則の和歌には
ソヴィエト体制下に自由を求める人々の気持ちが込められているとアファナシエフは考えたという
ことなのかなと私は理解した。アファナシエフは誰にも相談することなく、一人で祖国ソヴィエト
を抜け出し、フランスはパリに向かった。パリやベルギーで生活して初めて西側世界にも自由がな
いことをアファナシエフは知る。西側世界では音楽が商品として売り買いされている。音楽に商品
価値がなければ売れないという現実に突き当たる。商品価値を失った音楽家は消えていく。音楽的価
値があると思われるピアニストが消えていく。ソヴィエトにあるような窮屈さはないが商業主義と
いう厳しい制約が西側世界にはあることをアファナシエフは知る。
 兼好法師は次のような歌を詠んでいる。「すめば又うき世なりけりよそながら思ひしままの山里
もがな」とね。あの山里でさえ、住んでみると憂世だと兼好法師は述べている。この世に極楽など
という所は存在しない。
 東側世界にも西側世界にも自由はない。ここに真実がある。人間世界には自由がない。ただ少し
づつ人間は自由を獲得してきているのも事実のようだ。
 本居宣長は『紫文要領』で次のように述べている。「世中にありとしある事のさまざまを、目に見
るにつけ耳に聞くにつけ、身に触れるにつけて、そのあらゆる事を心に味えて、そのあらゆるの事
の心を自分の心でありのままに知る。これが事の心を知るということである。物の心を知るをいう
ことである。物の哀(あわれ)を知るということである。そしてさらに詳しく分析していえば、あ
りのままに知るのは、物の心、事の心であり、それらを明らかに知って、その事の性質情状(ある
かたち)に動かされるままに感じられるものが、物のあはれである」と。
 この世に自由などはない。どのような自由があり、どのような自由がないということがあるだけである。なぜなら人間はいろいろなものに制約されている。制約されることによって生活が成り立っているからである。道路が安全に通ることができるのは道路交通法によって自動車の通行が制約されているからである。制約されることによって自動車もまた安全に通行が可能なのだ。自動車が勝手に自動車の流れに逆らって走ったなら事件が起きる。人間社会では制約されることによって人間は自由を獲得している。言論の自由もまた同じである。他人を傷つける言論は制約される。そのような言論が制約されることによって自由な言論が保障されるのだ。
 物の心を知る。事の心を知る。このことは真実を知るということだ。「もののあはれ」とは、真実ということのようだ。人間は真実を知ることによって自由を獲得する。真実を知ることによって制約される自由を知る。制約されることが自由の獲得になるということを人間は知り、実感するようになる。真実が「もののあはれ」として表現される社会が、時代があったと言うことか。

醸楽庵だより   1178号   白井一道

2019-09-06 14:26:33 | 随筆・小説



     徒然草第8段を読む



 「世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな」と兼好法師は第8段を書き出している。誠にこの通りだと今になってつくづく思う。私も愚かな男だったのだと実感せざるを得ない。
  夕暮れ時の新宿歌舞伎町を友人と二人で歩いていた時だ。着物を着た女性が前から歩いて来た。咄嗟に友人が小声で言った。化粧の匂いだ。「匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり」。化粧の匂いにくすぐられる気持ちが我々の心に起きたことは事実だった。私は女の顔を見た。女は我々など無きものとして涼しい顔をして通り過ぎて行った。
  「九米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通を失ひけんは 、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし」。ミニスカートの女がエスカレーターに乗って二階へ登っていく。それとなく上を眺める一階の男がいた。男は知らんぷりしたまま出口に向かって歩いて行った。
  男は実に愚かな生き物である。1980年代だった。一時期、ノーパン喫茶店が流行った。ノーパンのウェイトレスがいるだけの喫茶店だった。ノーパンしゃぶしゃぶが流行ったことがある。その店に通いつめ、首になった若い旧大蔵省キャリア官僚がいた。「世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな」である。
  異性への誘惑、セックスへの願望、セックスの快楽を人間は我慢することはできないようである。人間は苦しみには耐える。がしかし快楽を我慢することは困難であると昔、ギリシャ哲学の講義を聞いていた時、聞いた言葉だ。万学の祖、アリストテレスも性的快楽を我慢することができなかったのかもしれない。

醸楽庵だより   1177号   白井一道

2019-09-05 11:31:47 | 随筆・小説



     最近のマスコミは政府広報であるかのようだ


 
  在日韓国人が安倍政権に抗議する集会をyou tubeで見た。その集会に参加し、マイクを握って話し始めた青年がいた。その青年は日本共産党参議院議員山添拓氏だった。リュックを背負っていた彼はリュックを傍らに置き、話し始めた。私は彼の話を聞き、感動した。日本の青年と在日韓国人とが心を一つにして安倍政権に抗議する姿に感動したのだ。山添氏は前もって演説が予定されていたものではなかったようだ。たまたま通りかかった在日韓国人たちの集会に飛び入りで参加し、演説をしたようだ。日本の市民と韓国の市民が協力し、日本政府と韓国政府が仲良くするよう働きかける。日本の主権者と韓国の主権者とが協力し、国際社会を作っていく。これが21世紀の世界だと実感した一瞬だった。
 安倍総理は韓国と仲良くしたくないようだ。口を開けば、1965年の日韓請求権協定で解決済みと言う。この安倍総理の主張は正しいのだろうか。次のような質問を衆議院議員初鹿明博氏はしている。
「大韓民国大法院で元徴用工に対する賠償を日本企業に命じる判決が確定したことに対する受け止めを問われた安倍総理は「一九六五年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決している。今回の判決は国際法に照らしてあり得ない判断だ。」と答えています。
 また、河野外務大臣も「日韓請求権協定は日韓の国交樹立以来、両国の法的基盤となってきた。今日の判決は法的基盤を韓国側が一方的かつ、かなり根本的に毀損するものだ。法の支配が貫徹されている国際社会の中で常識では考えられない。」とのコメントを出しました。
 日韓請求権協定について、政府は「両国間の請求権の問題は最終的かつ完全に解決した」とし、「日韓両国が国家として有している外交保護権を相互に放棄したことを確認する」ものではあるが、「いわゆる個人の財産・請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない」との見解を明らかにしてきました。
 この立場は国会審議の中でも明確にしており、一九九一年八月二十七日参院予算委員会での清水澄子議員、同年十二月十三日参院予算委員会での上田耕一郎議員の質問に対し、柳井俊二条約局長(当時)が、「日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできない、こういう意味でございます」「昭和四十年の日韓請求権・経済協力協定の二条一項におきましては、日韓両国及び両国国民間の財産・請求権の問題が完全かつ最終的に解決したことを確認しておりまして、またその第三項におきましては、いわゆる請求権放棄についても規定しているわけでございます。これらの規定は、両国国民間の財産・請求権問題につきましては、日韓両国が国家として有している外交保護権を相互に放棄したことを確認するものでございまして、いわゆる個人の財産・請求権そのものを国内法的な意味で消滅させるものではないということは今までも御答弁申し上げたとおりでございます。」と答弁しています。
 この答弁を踏まえて、以下質問します。
一 この度の安倍総理並びに河野外相の発言は一九九一年の柳井俊二条約局長の答弁を変えるものであるのか、政府の見解を伺います。
二 それとも、日韓請求権協定は、いわゆる個人の財産・請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではないという見解は変わりないのか、政府の見解を伺います。

 右質問する。

衆議院議員初鹿明博君提出日韓請求権協定における個人の請求権に関する質問に対する答弁書
一及び二について
 大韓民国(以下「韓国」という。)との間においては、財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定(昭和四十年条約第二十七号。以下「日韓請求権協定」という。)第二条1において、両締約国及びその国民(法人を含む。)の間の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認し、また、同条3において、一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対する全ての請求権であって日韓請求権協定の署名の日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとしている。
 御指摘の平成三年八月二十七日及び同年十二月十三日の参議院予算委員会における柳井俊二外務省条約局長(当時)の答弁は、日韓請求権協定による我が国及び韓国並びにその国民の間の財産、権利及び利益並びに請求権の問題の解決について、国際法上の概念である外交的保護権の観点から説明したものであり、また、韓国との間の個人の請求権の問題については、先に述べた日韓請求権協定の規定がそれぞれの締約国内で適用されることにより、一方の締約国の国民の請求権に基づく請求に応ずべき他方の締約国及びその国民の法律上の義務が消滅し、その結果救済が拒否されることから、法的に解決済みとなっている。このような政府の見解は、一貫したものである」。
 これが政府の主張である。この主張に基づいて安倍総理や河野外相の主張を擁護している。しかし韓国国民の請求権が消滅していると日本政府は言っていない。外交的保護権の観点からの説明だと言っているに過ぎない。過去の日本人が韓国国内に所有した権利を日本政府は保護しないと韓国政府に約束する一方韓国政府は過去の韓国人が日本国内に所有する権利を保護しないと約束した。このことを外交的保護権と日本政府は説明している。外交保護権とは、政府が国民からの請求権を拒否する権利だ。政府は無責任だという論理を創りだしたものが外交保護権のようだ。
 安倍総理も河野外相も国民のための政治はしない。政治家として行ったことはすべて無責任だという勝手な法理の上に胡坐をかく人間たちのようだ。



醸楽庵だより   1176号   白井一道

2019-09-04 11:55:15 | 随筆・小説



    『徒然草第7段』を読む(その2)

 
 
 「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ」と第6段を兼好法師は書き出している。「あだし野の露消ゆる時」とは、人が亡くなる時ということだ。「鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひ」とは、火葬場の煙が出ることがなくなり、いつまでも人が生きていることができるようななったらと、いうことだ。そのようなことになったら「もののあはれ」というものがなくなってしまうじゃないか。世は無常であるからこそ良いのだ。人は死ぬ。だから良いと兼好法師は述べている。
 中世社会は死が身近なものであった。死が可視化されていた社会であった。
平安時代、京都では死者を洛外へ運び野ざらしにしする風葬(遺体を埋葬せずに風にさらし風化を待つ)鳥葬が一般である。平安時代は仏教が影響し身分の高い人物は火葬を行うようになっていく。火葬には木材を必要とする。庶民の死者は最も経済的な風葬、鳥葬であった。その風葬の地として有名だったのが嵐山の北にある化野、東山の鳥部山、船岡山の北西一帯の蓮台野(紫野)という地区である。京都嵐山の清滝道を上っていくと竹林がある。平安時代、嵯峨鳥居本という地区は旧名「化野」と呼ばれていた。この場所が風葬、鳥葬の地である。化野(あだしの)の「あだし」は古語で「悲しい」「はかない」という意味があり、「あだしなる野辺」と呼ばれていたものが後に化野と呼ばれるようになった。平安初期の真言宗の開祖・三筆の一人である空海が疫病が流行っていた都を訪れた際人々に土葬を教えた。化野にある無数にある野ざらしにされた遺体を哀れに思い、また疫病の発生を抑える為に遺体、遺骨を埋葬しその上に1.000体の石仏と堂を建て、五智如来寺と称したのが化野念仏寺の始まりのようだ。
今では京都観光の名所の一つ、清水寺もその鳥辺山という風葬・鳥葬の地にあたる。清水寺は宝亀9年(778)それらの霊を供養する為に音羽の滝の近くに社を建てたのが始まりという説がある。本殿が高い所にあるのは、死者の匂いがあまりにも強い為であったという。また「清水の舞台」が突き出しているのは死体を投げ捨てるためだったという。
 人間ほど命の長いものはない。蜉蝣(かげろう) は水中で幼虫を2~3年過ごすが、羽化すると口器が働かなくなって食物が摂取できなくなる。食をとらず自らの遺伝子を伝えるためだけに羽化して交尾して死んでいく。早いものでは羽化して数時間で死んでいくという。普通は数日から1週間くらいには死んでいく。
蝉の成虫は短命で「1週間しか生きられない」という説が広く知られている。
確かに人間は他の動物と比べてみると長生きだ。仮に命を惜しみ、生きることに飽きないなら千年の寿命を得ても一晩の夢と変わることはないだろう。このように兼好法師は述べている。だから人間は生きなければならない。
『生きる』という黒澤明の映画があった。1952年に制作されたものである。市役所の市民課長・渡辺は30年間無欠勤、事なかれ主義の模範的役人である。ある日、渡辺は自分が胃癌で余命幾ばくもないと知る。絶望に陥った渡辺は、歓楽街をさまよい飲み慣れない酒を飲む。自分の人生とは一体何だったのかと。渡辺は人間が本当に生きるということの意味を考え始め、初めて真剣に役所の申請書類に目を通す。そこで彼の目に留まったのが市民から出されていた下水溜まりの埋め立てと小公園建設に関する陳情書だった。この作品は非人間的な官僚主義を痛烈に批判するとともに、人間が生きることについての哲学をも示した名作である。
君は今生きているかと、父は息子に言った。息子は黙っていた。息子は高校の軽音楽部に属し、エレキギターを鳴らしていた。大学受験が迫っているにもかかわらず、勉強するどころか、ギターに夢中になっていた。高校の成績は中位だった。中学生の頃は学校でもトップクラスの成績だった。高校に入り、軽音楽部の演奏を聞き、夢中になってしまったのである。父親は丸の内に勤める大企業の中堅社員である。父親は意を決して言った。君は今、生きていると思ったらそれでいいと。その息子はK大の経済学部に進学した。

醸楽庵だより   1175号   白井一道

2019-09-03 13:06:39 | 随筆・小説



    『徒然草第7段』を読む

 
 
 「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ」と第6段を兼好法師は書き出している。「あだし野の露消ゆる時」とは、 人が亡くなる時ということだ。「鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひ」とは、火葬場の煙が出ることがなくなり、いつまでも人が生きていることができるようななったらと、いうことだ。そのようなことになったら「もののあはれ」というものがなくなってしまうじゃないか。世は無常であるからこそ良いのだ。人は死ぬ。だから良いと兼好法師は述べている。
 不老不死を願うことは世の定めに逆らう愚か者ということになるのだろう。しかし毎日毎日死と向き合いながら生きている人がいる。いや我々も毎日毎日死と向き合って生きているのかもしれないが、毎日毎日死と向き合うことが強制されているわけではない。毎日、毎日死と向き合うことが強制されている人々がいる。それらの人々が死刑囚と言われる人々である。
 連続射殺魔、死刑囚永山則夫は人生の大半を囚人として生存した。永山則夫は囚われ人になって初めて生きた。刑務所に入って初めて生を受けた。
 人間は人間に保護され、養育され、教育されることによってはじめて生きることができる。永山則夫は大人の人間に保護され、養育され、教育されることなく、社会に放り出された。
子供は親の子であると同時に社会の子である。子供の保護、養育、教育は社会の義務である。子供は保護され、養育され、教育されることによって人間に成長する。子供には保護され、養育され、教育を受ける権利がある。社会には子供の保護、養育、教育を提供する義務がある。
子供は近代社会になって初めて発見された。前近代社会には子供の存在は認められなかった。子供は社会の子供だという認識が社会のものになったことによって近代学校制度というものが整った。子供が発見されたことによってはじめて近代教育制度が成立した。国民がお金を出し合い、学校をつくった。公立小学校ができた時、国民は血税として反対した。働き手を奪われたとして国に対して国民は抗議した。子供が社会的存在だという認識が国民のものになっていなかったからである。しかし子供は社会的存在であり、保護される権利、養育される権利、教育を受ける権利が十分保障されているかというとまだまだ不十分である。永山則夫の犯罪は子供が社会的存在として国民に十分認識されていないが故に起きた事故である。私はそのように考えている。
永山則夫には子供の権利が保障されていなかったが故に拘置所の中で再生したが死を強制された。永山則夫は最後まで死を受け入れることがなかった。死を強制されたのである。
 一方死を受け入れた死刑囚がいる。以下の歌を詠んだ歌人は死刑囚である。
握手さへはばむ金網(あみ)目に師が妻の手のひら添へばわれも押し添ふ
 うす赤き夕日が壁をはふ死刑に耐へて一日生きたり
 ふきあがるさびしさありて許されぬクレヨン欲しき死刑囚のわれ
 助からぬ生命(いのち)と思へば一日のちひさなよろこび大切にせむ
 たまはりし処刑日までのいのちなり心素直に生きねばならぬ
にくまるる死刑囚われが夜の冴えにほめられし思ひ出を指折り数ふ
 絞められて声をあげ得ぬわがあがき夢を覚ましてまた眠りたり
最高裁の確定判決を前にして、
つつしみて受けむと思ふ人生の岐点とならむその判決を
三十七年六月一日、最高裁で死刑が確定、
 上告もまかりならずしてしみじみといのちあるものみな親しかり 
歌で名を知られるようになっていた島秋人の死刑確定は、その日の夕刊で報道されました。それを見た前坂和子(現姓:福田)さんはその夜、島秋人に初めて手紙を書きました。高校三年の時です。前坂さんは、以前から新聞歌壇で彼の歌をよく読み、心打たれるものがあったからです。それを整理して、自分で島秋人の歌集を作り、「いあいしゅう」と名付けていました。折り返し返事がきました。「自分の歌をよく読み、深く理解してくれていることを感謝する」という率直な手紙でした。そして二人は文通を始めます。三週間経った頃、島秋人は、「一度会いたい」と言ってきました。そして前坂さんもこれに応じます。その時、「いあいしゅう」を持っていきました。

醸楽庵だより   1174号   白井一道

2019-09-02 12:13:26 | 随筆・小説



    『徒然草第6段』を読む

 
 
 「わが身のやんごとなからんにも、まして、数ならざらんにも、子といふものなくてありなん」と第6段を兼好法師は書き出している。それほど身分が高くなくとも、まして数にも入らないような者にとっては、子というものはいない方がいい。このように兼好法師は述べている。
 子を持ったことを悔いた父親がいる。父親の行動に心が沁みた。1972年2月に起きた浅間山荘事件である。今から47年前にこの事件は起きた。この事件はまた連合赤軍事件とも言われている。この事件の首謀者たちの中に京都大学を中途退学した坂東國男がいた。彼の父親はあさま山荘事件で人質を取って籠城する息子の犯行に悲観して、息子が逮捕される直前に自殺している。横浜国立大学を中途退学した吉野雅邦の父親は大企業の重役に就いていた。息子が連合赤軍事件に関わり反社会的事件を起こし社会を騒がせ、社会に与えた重大な責任を自覚し辞職している。当時未成年だった2人の少年の父親は教職従事者であった。事件が起きると自分の子どもの教育も満足にできない親が、他人様を教育することなどできないと言って、教職を辞している。2人の少年の兄はリンチによって遺体で発見された。
 「寺岡恒一の父親の一郎氏は、息子が約1ヶ月前に無残にも命を絶たれていることも知らずに、息子があさま山荘に籠城しているものと信じて必死で呼掛けを続けた。 “君たちの評価は今後の君たちの行動にかかっている”と、人質を解放して潔く投降するように説得した。 11月19日は寺岡恒一さんの父親の一郎氏の命日である。 恒一さんのお母様によると、お父様は子煩悩で教育熱心な方で、学校の授業参観や学校行事に出席することが多かったそうだ。 現役引退後は自宅で学習塾を開いて、恒一さんが使っていた部屋で近所の子供たちに勉強を教えていたそうだ。 部屋の壁に掛かっているあの魚拓も、恒一さんが出て行った当時のままの状態で残されて今に至っているのだそうだ。 恒一さんのお父様は、息子が意気揚々と釣り上げた魚を魚拓にした当時の面影をいつも感じていたかったのではないかと思われるし、恒一さんもその場にいるような思いを感じて、偲ばれることもあったのではないかと思う。 1998年のこの日、87歳の生涯を閉じた。 恒一さんは連合赤軍事件で命を奪われ、その弟さんは成田闘争に加わった」。悠閑アンダンテ氏より
 子を持ったことによって得た父親の悲劇である。しかし母親は父親と異なり息子に理解を示し懸命に生きた人がいる。
 「毎日新聞 2009年2月20日 東京朝刊
 ◇「月に一度の面会」36年
 房総半島の自宅から約2時間半。月に一度、東京・小菅の東京拘置所に足を運び、息子と向かい合った。
 連合赤軍事件の坂口弘死刑囚(62)の母菊枝さんが、昨年9月17日に他界した。93歳。72年の夏、長野刑務所に拘置中の息子を訪ね、世話をすると伝えた。以来、36年間にわたって約束を果たす。
    ◇
 4人兄弟の末っ子は、65年に東京水産大(現東京海洋大)に入学すると、学生運動に突き進んだ。2年後に中退。銃砲店に押し入り散弾銃などを奪って逃走し、最後にあさま山荘事件を引き起こした。東京地裁が死刑を言い渡した翌日の82年6月19日。菊枝さんは東京拘置所を訪れた。息子が、普段の「おふくろ」ではなく「お母さん」と呼びかけると、「そんな言葉使うな」とはね付けた。 控訴審が始まると、菊枝さんは長野や東京まで被害者や遺族に謝罪して回った。だが、93年3月に死刑が確定。その月、後藤田正晴法相(当時)が、3年4カ月ぶりに死刑執行を再開する。翌日、菊枝さんは不安をのぞかせ拘置所を訪れた。
 坂口死刑囚が師事する歌人の佐佐木幸綱さん(70)に短歌を届け、歌作を支えたのも菊枝さんだった。「自分の責任を感じておられたんじゃないか」。息子に献身する母の姿を、佐佐木さんは振り返る。仕事、家庭。兄3人は、それぞれの生活を抱えている。「ほかの子(兄)はできないので、私がやってやらなくちゃ」とも言っていたという。
 坂口死刑囚は支援者を通じ、毎日新聞に母の死去について「所感」を寄せた。
 《無私の恩愛に、私は在り来りの言葉では言い尽くせぬ深い感謝の気持ちを抱いています。母の存在抜きにして今の自分があることは考えられません》
    ◇
 奥深く拒まれ いまも実家にて吾の名禁句と 母は嘆けり
 坂口死刑囚が詠んだ歌である。
 「犠牲者の方に何とおわびして良いか分からず、私も妻も死ぬ気でおりました」。千葉県の実家で母親と暮らしていた長兄(76)は、86年1月に東京高裁で、そう証言した。当時小学生だった2人の子供を守るため、自殺を思いとどまる。「子供が将来も犯罪者の家族だと言われては。親として、防波堤にと思って必死でした」
 父親は54歳で他界。坂口死刑囚が子供のころは、長兄が面倒を見ていたという。ただ、記者に先月届いた手紙には、母親との「温度差」ものぞかせた。
 (罪を犯した子供の為に生涯を尽くした母はそれなりに本望だったと思いますが(略)私は、40年来取材の度に世間の人に好奇の目で見られ話題にされて過ごして参りました)
  明日21日は、菊枝さんがあさま山荘前で息子に銃を捨てるよう呼びかけて37年に当たる。        【武本光政】より

醸楽庵だより   1173号   白井一道

2019-09-01 12:38:46 | 随筆・小説



    雪間より薄紫の芽独活(めうど)哉   芭蕉  元禄間年



句郎 「雪間より薄紫の芽独活哉」。元禄間年。『俳諧翁草』。
華女 早春の雪がつもった野山から山菜を取る。このことって手垢のついた発想なんじゃないのかしら。
句郎 古くは『枕草子第二段』にあるからな。「七日、雪間の若菜摘み、青やかにて、例はさしもさるもの、目近からぬところに、持て騒ぎたるこそ、をかしけれ」と書いている。
華女 雪間の若菜摘みを芽独活にしたところに俳諧があるということなのかしら。
句郎 独活は春先の山菜であるが万葉集にも古今集にも詠まれていないようだ。
華女 香りが強いので好き嫌いのある山菜なんじゃないのかしらね。
句郎 山独活の天ぷらはとても美味しいと思うけど。
華女 天ぷらにするとアクが抜けるのかしらね。
句郎 私はアクを抜いた独活のぬたも美味しい酒のつまみになると思うな。
華女 芭蕉は早春の生命力を芽独活に見つけたということね。
句郎 その言葉に尽きるな。その後、何も言うことがない。