醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1357号   白井一道

2020-03-18 10:27:48 | 随筆・小説



   
 徒然草第181段降れ降れ粉雪、たんばの粉雪



原文
 「『降れ降れ粉雪(こゆき)、たんばの粉雪』といふ事、米搗(よねつ)き篩(ふる)ひたるに似たれば、粉雪といふ。『たンまれ粉雪』と言ふべきを、誤りて『たんばの』とは言ふなり。『垣(かき)や木の股に』と謡〈うた〉ふべし」と、或物知り申しき。
 昔より言ひける事にや。鳥羽院幼くおはしまして、雪の降るにかく仰せられける由、讃岐典侍(さぬきのすけ)が日記(にき)に書きたり。

現代語訳
 「『降れ振れ粉雪、たんばの粉雪』と言う事は、米搗き、篩うことに似ているから粉雪゜という。『たンまれ粉雪』と言うべきなのを間違って『たんばの』と言うようになった。『垣根や木の股に』と謡うべきだ」と、或る物知りが申していた。
 昔から言われていたことだ。鳥羽天皇が幼かったころ雪が降るのを見ておっしゃられたという。讃岐典侍(さぬきのすけ)が日記に書かれている。

 わが闘病記11 白井一道
 中年の女性医師が若い男の研修医を二人連れて私のベッド脇に来た。家内の都合をあらかじめ聞いていた私は医者の来るのを待っていた。女性の医師が言った。「いつ退院する。週が明ける前でも、後でもいいよ」。私は日曜日でもいいですか。と聞いた。「朝ごはんを食べて退院するの」と医者は言った。「昼ご飯を食べて退院してもいいですか」と言った。「それでもいい」と女性医師は言った。研修医がノートしていた。医師たちが部屋から出て行った。それ以後、医師が私のベッド脇に来ることはなかった。明くる日、トイレに行った際、ナースセンターの脇のパソコンコーナーに主治医がいるのを見た。私はその医師に問いかけた。「先生、退院後のことについて
お聞きしたいんですが」と言うとその医師は私をパソコンの脇に私を呼び、私の脳内の写真を映し出し、この部分が死んでしまった部分だ。だから視野欠損したところだ。退院後は罹りつけ医の先生の指導に従って、薬をきちんと飲む。自動車の運転はできないよ。自転車も無理だな。まぁーね歩くことだな。「先生、私は身体障碍者になったということですかね」と言うと、「片方は見えるわけだよね。そんなものじゃ、身体障碍者だと言えないね。右側が見え難いのは分かるがね。国の決まりで視野欠損だけでは、身体障碍者の申請はできないんだ。法律でそのように決まっているんだ。もし疑問があるなら、眼科で聞いてみるがいい」と実に素っ気ない話だった。この医師からは何も聞くことがないと私は思い、頭を下げて、医師から離れた。医師は私が離れると同時にパソコンから離れ、いそいそと出て行った。二週間入院し、主治医と直接このような会話を交わしたのは初めてであった。
 血圧測定に来た看護師さんに退院の日が決まったと話した。「そうなの。良かったじゃない」と言ってくれた。「入院費用はどのくらいになるのか。教えてもらえないかな」と言うと「分かった。事務に連絡しておくわ」と。事務員だとすぐわかる服装をした女性が二人、私のベッド脇に来た。11万円弱だと教えに来てくれた。付き添っている付属品のような女性職員は何も言わず、むっつり黙ったままだ。
 退院の日を迎えた。私は携帯電話で家内に連絡した。退院の準備はできていると言うと家内の若い友人が車を運転し、迎えに来てくれるということになった。私は看護師さんに退院の手続きのようなものがあるのかと聞いてみた。何もないということであった。忘れ物のないようしてもらうことだけよと、看護師さんは言った。脇にいた男の看護師さんが白井さんの担当は私ですから、ベッド周りの確認は私がします。エレベーターまでですけれども、見送りさせていただきますとのことだった。実にあっさりしたものだった。
 入院中、仲良くしていただいた新井さんに挨拶した。「良かったね。私も退院したら、連絡するよ。白井さんの家は私の家から街中にいく際に通る道際にあるみたいだから、寄らせてもらうよ」とニコニコしながら言ってくれた。新井さんは私が入院する前から既に入院していた。私が退院してもまだ新井さんは入院したままであった。私が退院の準備をしているとき、リハビリ室に付き添われて行った。
 私は妻がやって来るのを待っていた。私は入院した時に身に着けていたものを着て、大きな紙袋に着替えのものやタオルや歯ブラシ、石鹸など忘れ物のないことを確認し、妻の来るのを待った。

醸楽庵だより   1356号   白井一道   

2020-03-17 10:09:55 | 随筆・小説



   
 徒然草第180段 さぎちやうは



原文
  さぎちやうは、正月(むつき)に打ちたる毬杖(ぎちやう)を、真言院より神泉苑(しんぜんゑん)へ出して、焼き上ぐるなり。「法成就(ほふじやうじゆ)の池にこそ」とはやすは、神泉苑の池をいふなり。

現代語訳
 さぎちやうは、正月に毬(まり)打ちをして遊んだ杖を真言院より神泉苑(しんぜんゑん)へ持ち出し、焼き上げることをいう。「法成就(ほふじやうじゆ)の池にこそ」と囃すのは、神泉苑の池のことを言っているのである。

 我が闘病記10   白井一道
 退院の日が決まると病院内のリハビリ室に通うようになった。介護士さんが病室まで迎えに来た。病室備え付けの車椅子に乗せられて二階フロアまでエレベーターに乗り、向かう。充分一人で歩いて行ける所であっても来るの椅子に乗せられて行った。30分ほど、リハビリを受ける。リハビリといっても小学生低学年の生徒が受けるような内容の事の記憶力を確かめるようなものであった。並べてある積木をぐちゃぐちゃにして、また元通りに並べることができるかどうかを確認するようなものであった。この指導をしてくれた人は作業療法士という資格を持った女性であった。このような作業療法を受ける前に血圧を測られる。終わるとまた血圧を測られる。作業療法が終わると今度は真っすぐ歩く訓練である。真っすぐ歩けることが確認できると片足立ちができるかどうかを確認し、何秒間できるかを調べられた。階段の上り降りができるかどうかを確認された。このリハビリ室で小学生の男の子がジグザク歩きをしている姿を見た。その姿を見て、私は女性の理学療法士に「あの子は何の訓練をしているの」と聞くと「一切他人が何をしているのかについてはお答えできません」と、ぴしゃりと断られてしまった。それ以来、私は自分のリハビリ以外の時間は目を閉じることにした。私が目を閉じていると療法士の女性が「何か具合が悪いのですか」と尋ねられた。「否、目に入るものに興味を持ってはいけないかと思って目をとじているんです」と、言うと「そうなんです。私たち、他の療法を受けている人については何も話すことができないんです」と弁明していた。
 リハビリ室に通い始めて三日目の事だ。およそ30分間に4回、血圧を測られた。その度に強く腕を締め付けられる。こんなに何回も腕を強く締め付けられることに抵抗を感じた私は血圧を測るのを止めてくれと頼んだ。すると「これは決められていることです」と、厳しく言われた。「そうですか。それでは医師に辞めさせるよう言っておきましょう」と私は言った。険しい顔つきになった理学療法士は、それ以来笑顔を見せることはなかった。医者にこの事を話すと医者は療法士と話して解決してくださいと言われた。強く腕を締め付ける血圧測定は以後も最後まで続いた。
 リハビリが終わると療法士が介護士に連絡してくれ、介護士が車椅子に私を乗せて病室まで運んでくれる。車椅子に乗る快適さを感じる一瞬であった。充分歩いて行けるところを車椅子に乗せていただき、後ろから押して安全に運ばれていく。なんとなく、豊かな気分を味わったものだ。
 総合病院にはいろいろな職種の人が働いている。それぞれ職種によって服装が違う。リハビリ室にいる療法士は皆、男も女も同じ服装をしている。それは看護師の同様だ。男の看護師も女の看護師も同じ服装だ。昔の看護婦さんは皆白いストッキングに白い服を着ていたが市立医療センターの看護師さんたちは皆、ズボンを穿き、色付きのシャツを着ていた。特に男女の違いはなかった。病院内にあっては、男女の別より職種の違いが優先された服装になっていた。服装によって薬剤師、技師、看護師、介護士、療法士などいろいろな職種の人が服装によって識別されていた。更に、一週間に一度、シーツ、上掛けの布団のカバーを変えに来る。二人の中年女性がやって来る。その方々の服装も決まっている。患者の服装も一週間に一度、変えてもらえる。シャツとズボン、患者は皆同じ服装をしている。服装によって何をしている人なのかが可視化されているところが病院という所だった。
ただ医師だけは服装が自由のようだった。日曜日に出勤してきた女性の医師はジーパンを穿き、ピンクのシャツを着ていた。その姿でパソコンを見て、仕事をしていた。誰からも指示されることなく、働いているのが医師であった。


醸楽庵だより   1355号   白井一道

2020-03-16 10:30:06 | 随筆・小説



   
徒然草第179段入宋の沙門



原文
  入宋の沙門、道眼上人、一切経を持来して、六波羅のあたり、やけ野といふ所に安置して、殊に首楞厳経(しゆれうごんきやう)を講じて、那蘭陀寺〈ならんだじ〉と号す。
 その聖の申されしは、那蘭陀寺は、大門北向きなりと、江帥(がうぞっ)の説として言ひ伝えたれど、西域伝・法顕伝などにも見えず、更に所見なし。江帥は如何なる才学にてか申されけん、おぼつかなし。唐土の西明寺は、北向き勿論なり」と申しき。

現代語訳
 中国留学帰りの僧侶、道眼上人は一切経を持ち帰り、京都、六波羅の辺りのやけ野というところに安置し、殊に首楞厳経(しゆれうごんきやう)を講じて那蘭陀寺〈ならんだじ〉と号した。
 その僧侶が申されたことによると、「那蘭陀寺は、大門が北向きに造られていると大江匡房(おおえのまさふさ)卿太宰権帥(だざいのごんそつ)の説として言い伝えられているが、西域伝・法顕伝などにも見えず、それ以上の所見はない。大江匡房(おおえのまさふさ)卿太宰権帥(だざいのごんそつ)は如何なる事を学び、このような事を申されたのか、考えられないことだ。中国の西明寺は北向きに造られていることは当然なことである」とおっしゃっている。
  我が闘病記9  白井一道
 私が入院した病棟には「ホスピタリティー」とガラス窓に書かれたところがあった。その部屋から出入る医師や看護師、入院患者を二週間の間、一度も見かけることがなかった。ガラス窓から中を覗き見ることができたが人のいる気配を感じたことはなかった。いつも施錠されたままであった。中にはピアノが置いてあった。部屋の中はまるでクリスマスのような飾りつけがされていた。
 終末期の医療は精神的な緩和ケアが中心になっているのかなと勝手に想像していた。ある時、懇意になることのできた看護師さんに常時入院されている患者さんはいるのかなと聞いてみた。「いますよ。退院していく方もいますよ」との答えだった。退院していく人はすべて亡くなった患者さんなのかなと想像していたがそうではなかった。緩和ケアが中心だということなのかもしれない。それ以上聞くことが憚られた。
 毎日夕方になると夕食前に私は五階の病棟を一周した。一周、およそ200歩、三周するのを日課にしていた。私と同じように歩き回る患者がいた。話したことはないが、私と同じ気持ちが歩いているのかと勝手に想像していた。三回、ホスピタリティーと書かれたガラス窓の前を歩いた。その度になんとなく中を覗いてみても一度もその中に人がいるのを見かけたことがない。終末期医療を施す施設が整っているのだなぁと思って通り過ぎて行くだけである。私もいつかこのような場所に入ることがあるのかなと想像すると嫌な気持ちになった。
 死が身近なものだと感じるようになって数年が立っている。定年退職後、親しくしていただいたKさんは自宅のソファーに座ったまま、亡くなった。娘さんが使いから家に帰ると亡くなっていたという話だった。彼のお奥さんは癌で数年前に亡くなっていた。やはり定年退職後、数年間日本酒を楽しむ会を一緒にしていたмさんは奥さんと翌日には日光へのハイキングを予定していた朝、奥さんが目覚めてみるとмさんは亡くなっていたという。初めて奥さんから電話をいただき、知った。美味しい日本酒を一緒に楽しんだ仲間が何人も亡くなっていった。私と幾つも年の違わない友人たちが亡くなっていった。そのようなことがあっても死が自分の事として自覚することはなかった。しかし脳梗塞を患ってみて初めて死が間近なものであることを感じ始めている自分がいることを知った。
 私たち夫婦には子供がいない。他人様のお世話にならざるを得ない。迷惑をかけざるを得ない。最小限度の迷惑にしたい。そんな気持ちである以上、私の葬式はできる限り質素にしたい。墓石など必要ない。院号居士など必要ない。遺骨は海に散骨してもいいし、樹木葬などでもいい。そんなことを漠然と考えていると夜中に目が覚めて、いつまでも眠れなくなってくる。死が近づくということはこのようなことなのかもしれない。私の父はどんな気持ちが亡くなって行ったのか、今まで考えたこともないような事を思ったりするようになった。ああ、それもこれも脳梗塞を患った結果なのかもしれない。しかし不思議なことに恐怖心はないのだ。

醸楽庵だより   1354号   白井一道

2020-03-15 10:26:53 | 随筆・小説



   徒然草第178段 或所の侍ども



原文
  或所の侍(さぶらひ)ども、内侍所(ないしどころ)の御神楽(みかぐら)を見て、人に語るとて、「宝剣をばその人ぞ持ち給ひつる」など言ふを聞きて、内なる女房の中に、「別殿(べつでん)の行幸(ぎやうがう)には、昼御座(ひのござ)の御剣(ぎよけん)にてこそあれ」と忍びやかに言ひたりし、心にくかりき。その人、古き典侍(ないしのすけ)なりけるとかや。

現代語訳
 ある高貴な身分の方の邸に仕える家人どもが宮中にある三種の神器を納める内侍所(ないしどころ)の御神楽(みかぐら)を見て、人に「宝剣を或る人が持っていた」などと言うのを聞いて、宮中に仕える女房の一人が「清涼殿から別の殿舎に陛下が行かれる時は昼の御座の御剣(ぎよけん)を持っていかれる」と、小声でそっと言われたことは、心憎い発言であった。その方は、昔宮中に仕えておられた方であったとか。

 我が闘病記8  白井一道
 深夜、トイレに起き、用を済ませて病室に戻ろうとしたとき、何の気もなしに振り替えると看護師のSさんがナースセンターで一人、ツクネンとしている。私は何となくナースセンターに向かって歩き出した。Sさんは私を見つけると「寝られないんですか」と聞いて来た。「否、今トイレに起きたんです。Sさんがつまらなそうにしているから、なんとなくSさんに吸い寄せられてきてしまったんですよ」。「白井さんのデータが見られますよ」とSさんが言う。「ナースセンターに入ってもいいですか」。Sは黙って頭を振り、頷いた。「これが今、私が胸に付けている心電図を測るデータなんですか」。「そうですよ」とSさんは言った。同じような波形を次々と描いては消えていく動きが心臓の動きなのかとSさんと一緒に眺めていた。
 「夜勤の時はこのフロアにSさん一人きりになるの」。「そうよ。東は私一人よ」。「西側にも一人、看護師さんがいるけどね」。「三人で交代して仮眠を取るのよ。三時間づつね。私はいつも最初なのよ。だからいつも寝られず、起きてしまうのよ」と愚痴った。午後9から三時間が最初に仮眠する人。次の人が午前0時から3時まで、最後の人が午前3時から午前5時までのようだ。私はいつも最初だから寝不足なのよと愚痴っていた。
 看護師さんの勤務は激務だ。私の入院期間にゴールデンウィークが挟まっていた。去年のゴールデンウィークは10連休が評判だったが、市立病院であるにもかかわらず、立派な市立病院の看護師さんでありながら、10連休とは無関係であった。10連休のゴールデンウィークだと浮き浮きしている若い看護師さんは一人もいなかった。私たちはシフト制だから無関係だわと冷ややかであった。医者は全員出勤日が1日あったようだ。だから医者は5連休と4連休のゴールデンウィークだった。勿論、病院には入院患者がいる以上、当然給食の配膳は滞ることなく行われた。給食は外注だった。車に乗せ、保温した手押し車に乗せ、一人一人病人が違えば、給食内容が一人一人違ったものを配膳してくれた。市立医療センターに給食を配膳する会社に勤める従業員には10連休のゴールデンウィークは無関係なことであった。病院の給食は患者の病状によって一人一人違っている。私の給食には脂質異常症という札の付いた給食であった。他人の給食の配膳されたものを見る機会はなかったが、一度だけ見たことがある。そこには脂質異常、糖尿とあった。その札を見て、内心安心する自分がいることを自覚した。このさもしさに自己嫌悪を覚えながら、どうにもならない自分と向き合っていた。ゴールデンウィーク中の病院は静かだった。ナースセンターにいつもいる医者が一人もいなかった。医者たちがいつもパソコンを向かい合っているコーナーが閑散としていた。看護師も一人、忙しく動き回っていた。そんな時だった、看護師のSさんが言った。「白井さん、お風呂に入る?」と聞いて来たのだ。「もちろん、入りたい」と言うと「午後2時からどうかしら」と言った。私は直ちに了承した。時計を見るとまだ一時間ほど時間がある。私は午後1時半になると30分ほどまだ間があったが、風呂場に誰も入っていないのを確認すると看護師さんに断ることなく、自主判断し、入浴した。湯舟があるわけではない。ただ体を洗うだけのシャワーに過ぎないが、体がさっぱりした。これが私にとっての入院中のゴールデンな日となった。

醸楽庵だより   1353号   白井一道   

2020-03-14 10:21:37 | 随筆・小説



   徒然草177段 鎌倉中書王にて



原文 
 鎌倉中書王(かのくらのちゆうしよわう)にて御鞠(おんまり)ありけるに、雨降りて後、未(いま)だ庭の乾かざりければ、いかゞせんと沙汰ありけるに、佐々木隠岐入道(ささきのおきのにふだう)、鋸(のこぎり)の屑を車に積みて、多く奉りたりければ、一庭(ひとには)に敷かれて、泥土(でいと)の煩ひなかりけり。「取り溜(ため)めけん用意、有難し」と、人感じ合へりけり。
この事を或者の語り出でたりしに、吉田中納言の、「乾き砂子(すなご)の用意やはなかりける」とのたまひたりしかば、恥かしかりき。いみじと思ひける鋸の屑、賤しく、異様の事なり。庭の儀を奉行する人、乾き砂子を設くるは、故実なりとぞ。

現代語訳
 鎌倉中書王(かのくらのちゆうしよわう)、宗尊親王〈むねたかしんのう〉の邸で蹴鞠の会が催された際、雨あがりの後、未だ蹴鞠場が乾いていなかったので、どうしたものかと思案していると、佐々木隠岐入道(ささきのおきのにふだう)が鋸(のこぎり)で木材を切ったおが屑を車に積み、たくさん持ってきてくれたので、そのおが屑を蹴鞠場にまき敷きて、泥土の災いを防ぐことができた。「おが屑を取り置き、災いへの用意、有難いことだ」と、参加者は感謝した。
 この事を或る者が話し始めたところ、吉田中納言は、「乾いた砂の用意がなかった」ということなのかとおっしゃっると恥ずかしいことだという。有難いと思った鋸の屑は賤しいものであり、それをまいたとは、異様なことだ。蹴鞠場を管理する人は乾いた砂を用意しておくことが昔からの慣例なのだ。

 我が闘病記7 白井一道
 入院し、私は一人の友人を得た。私の病室は5階東の端にあった。外に出ることはできなかったが、緊急時には外に出られるように戸が付いていた。戸の上半分が素通しのガラスになっていた。私が入院したのは四月後半であった。晴れた日には朝日が戸に上のガラスが眩しい光が射している。その日向ほ求めて二、三人の患者たちがたむろしていた。私もその中に入れていただき、「いい季節になりましたね」とその中の一人に話かけた。彼はこんないい季節に病院暮らしじゃ詰まりませんねと、言って話し始めた。「私は脳梗塞の視野欠損で入院しています」と言うと彼は「私はラリルレロの言葉が上手に話すことができなくなってしまいました」と脳梗塞の言語障害だと言われていますと自分の病状を説明した。「あぁー、それで市立病院に検診にきたのですか」と私が聞くと、「私は一人で決断し、救急車を呼びました。その結果、救急車がこの病院に私を運んでくれました」と市立医療センターに入院した事情を説明してくれた。「私は白井と言います。私は定年退職後、名刺を持っていませんので」と言うと、彼は懐から財部を取り出し、その中から一枚の名刺を取り出し、私てくれた。名刺には新井健治とあった。
「新井さん、お早うございます」と朝食後、廊下に出ている新井さんに挨拶をする。「今日の具合はどうですか」と尋ねてくれる。「まぁーまぁーですね」と。「らりるれろ、言えるようになりましたか」。「らーりーるーろ」などと言う。「脳梗塞は脳梗塞でも最も軽そうな脳梗塞ですね」。何回も、何回も、新井さんは「らりるれろ」と、練習する。年齢は80を超えていると言っていた。会話が途切れるとベッドに戻っていく。私も自分の病室のベッドに戻っていると血圧を測る時間だ。看護師さんが車に乗せたパソコンを押し、ベッドを回り、血圧を測っていく。私の血圧は上がいつも140代であった。新井さんの血圧がどのくらいなのか、聞いた事はなかった。ただ一度だけ、看護師さんが一緒にいた時、新井さんが入院してきたとき、血圧が180代だったわよねと看護師さんは言った。何かのはずみで普段なら、決して口にしない患者の情報を口にしてしまったようだ。
気さくな新井さんは誰とも親しく話をしていた。同室の患者さんとも仲良くいつも話していた。その方は毎日、病室で自分の名前と住所を書く練習をしているということであった。その方は自分の名前を書くことはできるが、住所を書くことが難しいというような事を言っていた。アパートに一人暮らしをしていたところ、おかしくなり、友人に助けられて市立医療センターに入院してきたという話であった。もうとっくに定年退職し、年金のみで生活しているという話であった。そういう点では私と同じ境遇の人であった。
 

醸楽庵だより   1352号   白井一道   

2020-03-13 10:15:56 | 随筆・小説



   徒然草176段 黒戸は



原文 
 黒戸(くろど)は、小松御門(こまつのみかど)、位(くらゐ)に即(つ)かせ給ひて、昔、たゞ人にておはしましし時、まさな事せさせ給ひしを忘れ給はで、常に営ませ給ひける間なり。御薪(みかまぎ)に煤(すす)けたれば、黒戸(くろど)と言ふとぞ。

現代語訳
 黒戸(くろど)は小松御門(こまつのみかど)が光孝天皇として即位なされて、昔、ただの人であった時のこと、戯れ事としてなされていたことをお忘れにならずに常にされていた部屋である。薪をくべた煤で黒くなった部屋を黒戸(くろど)というのだ。

 我が闘病記6 白井一道
 市立医療センターに入院し、私は退屈する時間を持て余すことが一度もなかった。「脳梗塞」という病名を今になっては誰に教えられたのかが分からない。私の主治医が誰なのかが分からない。二週間入院し、主治医から直接診断されたことは一度もない。退院間際に一度、退院後についての話を聞いただけだった。入院して間もないころ、若い男の人が白衣を着て、やって来た。医者なのか、薬剤師なのか、看護師なのか、それとも何をしている人なのかが分からない。私は聞いた。「あなたは何者ですか」と問うた。「私は医者です」と、答えた。名前は名乗らなかった。私は聞いた。「私は床屋が終わり、自転車に乗り、帰ろうとしてから、おかしくなった。それからどうにか自宅に帰り着き、しなければならないことを済ませ、翌日、市立医療センターに来ました。私が聞きたいことは、体調に異変が起きたとき、すぐこの病院に来ることができれば、私の脳梗塞は無事元通りの体なることができましたか」と。「現在、脳梗塞が起き、4時間以内なら、緊急治療により、後遺症を残さないことができます。4時間以内ならと、言われています。しかし患者さんはあなただけではありませんから、順番がありますから、無理ですね」と。病人の希望を打ち砕くような若い医者は淡々と厳しい現実を述べた。一度破壊された脳細胞は再生されることはありません。見えなくなった視野が見えるようになることはありません。これが現在の医療の現状です。「IPS細胞は再生医療に道を開くといわれているのじゃないですか」と私か問うと若い医者はまだまだ脳梗塞に関しては始まったばかりで、いつのことになるのか皆目見当もつかない状況ですよと、にべもない回答だった。それにしては手にしたカルテを見て、私の視野欠損の状況、血圧のデータ、眼科検診の状況などを詳しく知っているようだった。主治医を中心に五人の医者がチームを作り、に入院中のすべての脳梗塞、認知症患者を診ているようだった。医者が患者のベットを回り、診て回るようなことは一度もなかった。患者のベッドを診て回るのは看護師さんであり、薬剤師だった。
 私に初めて優しい言葉を掛けてくれたのは年端も行かない若い男の薬剤師だった。私のベッドに来て、薬の説明をしてくれた。今、点滴している薬は何であるのかを説明してくれた。しかし、私にはその薬が脳梗塞にどのような働きをするのか、そのメカニズムを理解することはできなかった。医者より薬剤師との交流の方が多い位だった。この若い薬剤師が一緒に脳梗塞と戦いましょうと、私の手を握った時には、恥ずかしながら落涙してしまった。情に脆くなっている自分に気が付く一方、どうにもならないくらい弱くなっている自分を知った。
 看護師は日に三回、朝、昼、晩とベッドを回って血圧を測っていく。血圧を測ると車に乗せたパソコンに入力する。薬があると看護師さんが血圧を測る際に渡してくれる。水は自分でコップに注ぎ、飲む。ミネラルウォーターを注文したいと看護師さんにお願いすると「介護士さん」に言っておいてあげるねと、言う。しばらく待っていると老年にさしかかった女性がベッド脇に来て何を買ってきたらいいのかしらと、言って来た。一階の売店に行き、ミネラルウォーターをお願いしますと、依頼する。釣銭と水を買ってきてくれる。「この2リットル入りのペットボトルが百円で売っていましたよ。私、これが100円で帰るとは思いませんでしたよ」と、日常会話が飛び出してくる。
 病院には医者を頂点とするヒエラルヒーができている。医者と患者との間にはほとんど日常的な会話はない。薬剤師、医療検査技師、看護師、介護士、洗濯婦、掃除婦などである。下に行くに従って日常的な会話が増え、上に行くにしたがって日常的な会話が無くなっていく。特に掃除に回って来る婦人のの中には優しい言葉を掛けてくれる人がいた。

醸楽庵だより   1351号   白井一道   

2020-03-12 10:23:14 | 随筆・小説



   徒然草第175段 世には、心得ぬ事の多きなり



原文
 世には、心得ぬ事の多きなり。ともある毎には、まづ、酒を勧めて、強ひ飲ませたるを興とする事、如何なる故とも心得ず。飲む人の、顔いと堪へ難げに眉を顰め、人目を測りて捨てんとし、逃げんとするを、捉へて引き止めて、すゞろに飲ませつれば、うるはしき人も、忽ちに狂人となりてをこがましく、息災なる人も、目の前に大事の病者となりて、前後も知らず倒れ伏す。祝ふべき日などは、あさましかりぬべし。明くる日まで頭痛く、物食はず、によひ臥し、生を隔てたるやうにして、昨日の事覚えず、公・私の大事を欠きて、煩ひとなる。人をしてかゝる目を見する事、慈悲もなく、礼儀にも背けり。かく辛き目に逢ひたらん人、ねたく、口惜しと思はざらんや。人の国にかゝる習ひあンなりと、これらになき人事(ひとごと)にて伝へ聞きたらんは、あやしく、不思議に覚えぬべし。

現代語訳
 世の中には納得できないことが数多くある。何かというとすぐ、酒を勧め、強いて飲ませて面白がること、なぜこのような事をするのか分からない。酒を飲む人の顔がとても堪え難そうに眉を顰め、人の目を盗んで捨てようとし、逃げようとするのを捕らえ引き留めて、むやみに飲ませようとすれば、きちんとしていた人もたちまち狂人のようになり、見っともなく、元気だった人も、目の前で大病患者になり、前後不覚に倒れ伏す。祝うべき日などにあっては情けないことになろう。翌日まで頭が痛く、物も食べられず、呻き寝て、生きた心地もせず、昨日何があったのかもわからず、公私の大事も出来ないような患いとなる。人間としてこのような事を目にすることは、仏の教えにも反し、礼儀にも反する。このような辛い思いをした人は嫉ましく、悔しいと思わないのだろうか。他国にこのような風習があると自分の国にはないよそ事して伝え聞いたら、こんなことは怪しく、不思議に思うことだろう。

原文
 人の上にて見たるだに、心憂し。思ひ入りたるさまに、心にくしと見し人も、思ふ所なく笑ひのゝしり、詞多く、烏帽子(えぼし)歪(ゆが)み、紐外し、脛(はぎ)高く掲げて、用意なき気色(けしき)、日来(ひごろ)の人とも覚えず。女は、額髪晴れらかに掻きやり、まばゆからず、顔うちさゝげてうち笑ひ、盃持てる手に取り付き、よからぬ人は、肴取りて、口にさし当て、自らも食ひたる、様あし。声の限り出して、おのおの歌ひ舞ひ、年老いたる法師召し出されて、黒く穢(きたな)き身を肩抜ぎて、目も当てられずすぢりたるを、興じ見る人さへうとましく、憎し。或はまた、我が身いみじき事ども、かたはらいたく言ひ聞かせ、或は酔ひ泣きし、下ざまの人は、罵り合ひ、争ひて、あさましく、恐ろし。恥ぢがましく、心憂き事のみありて、果は、許さぬ物ども押し取りて、縁より落ち、馬・車より落ちて、過しつ。物にも乗らぬ際は、大路をよろぼひ行きて、築泥(ついひじ)・門の下などに向きて、えも言はぬ事どもし散らし、年老い、袈裟(けさ)掛けたる法師の、小童の肩を押へて、聞えぬ事ども言ひつゝよろめきたる、いとかはゆし。

現代語訳
 酔った人の顔を見ているだけでも嫌なものだ。思慮深い人の酔った顔も、憎らしいと思っていた人の顔も、何の考えもなく笑いののしり、言葉が多く、烏帽子が歪み、紐をはずし、脛をあらわにし、だらしない姿をして、常日頃見かけるような人とも思えない。女は額髪をかき上げてしまい、度が過ぎて正視できないほどになり、顔をうち向けてはふと笑い、盃を持っている人の手を取り、マナーに欠けた人は酒の肴を取り人の口に差し入れ、自らも食べ、実にみっともない。声の限りを出して各々歌い舞い、年老いた法師も召し出され、薄黒く汚れた体をもろ肌脱ぎ、目も当てられず身をくねらせて、面白がって見る人でさえ嫌味で憎らしい。あるいは又、我が身が悲しいことどもである一方強く言い聞かせ、或いは酔い泣きし、下々の人はののしり合い、争い、浅ましく恐ろしい。恥さらしをしたうえ、嫌なことばかりが重なり、果ては持ち出し禁止のものを取り出し、縁側から落ちたり、馬や牛車からも落ちたりすることがある。物に乗らない場合には大路をよろよろ歩き、土塀や門の下などに向かって、下品な言葉を発し、年老い、袈裟(けさ)を掛けた法師が供の小僧の肩に手を掛けて、わけの分からないことをぶつぶつ言いながらよろよろしているのは見るに忍びない。
原文
 かゝる事をしても、この世も後の世も益(やく)あるべきわざならば、いかゞはせん、この世には過ち多く、財を失ひ、病をまうく。百薬の長とはいへど、万の病は酒よりこそ起れ。憂忘るといへど、酔ひたる人ぞ、過ぎにし憂さをも思ひ出でて泣くめる。後の世は、人の智恵を失ひ、善根を焼くこと火の如くして、悪を増し、万の戒を破りて、地獄に堕つべし。「酒をとりて人に飲ませたる人、五百生が間、手なき者に生る」とこそ、仏は説き給ふなれ。

現代語訳
 このような事をしても、この世にもあの世にもご利益があるということなら、どうしたらいいのだろう、この世には過ちが多く、財産を失い、病を得る。酒は百薬の長と言われているが、万病は酒より起きて来る。酒を飲めば憂いを忘れることができると言うが、酔っ払う人は特に過去の憂いを思い出しては泣きはじめる。後のあの世で人は知恵を失い、善なる魂を焼き消すこと火のように明らかで悪が心にはびこり万の戒めを破り、地獄に落ちることだろう。「酒を取り上げ人に飲ませた人は五百度生きる間、手のない者として生きる」と仏さまは教え諭されておられる。

原文
かくうとましと思ふものなれど、おのづから、捨て難き折もあるべし。月の夜、雪の朝、花の本にても、心長閑に物語して、盃出したる、万の興を添ふるわざなり。つれづれなる日、思ひの外に友の入り来て、とり行ひたるも、心慰む。馴れ馴れしからぬあたりの御簾の中より、御果物・御酒など、よきやうなる気はひしてさし出されたる、いとよし。冬、狭き所にて、火にて物煎りなどして、隔てなきどちさし向ひて、多く飲みたる、いとをかし。旅の仮屋、野山などにて、「御肴何がな」など言ひて、芝の上にて飲みたるも、をかし。いたう痛む人の、強ひられて少し飲みたるも、いとよし。よき人の、とり分きて、「今ひとつ。上少し」などのたまはせたるも、うれし。近づかまほしき人の、上戸にて、ひしひしと馴れぬる、またうれし。

現代語訳
 このようにお酒と言うものは、嫌なものだけれども、どういうわけか捨て難きものでもあるようだ。月の夜、雪の朝、桜の花の下で、心長閑にして話が弾み、盃を出し、万の楽しみを添うものでもある。することもなく漫然としている日、思いもしない友人が訪ねて来て、お酒を楽しむことは心慰むものである。一つも慣れ親しむことのない御簾の中から果物やお酒などをよきよう配慮していただくことはとても良いことだ。冬、狭い場所で火を囲み物を煎り、何の隔てもなく差し向いお酒を楽しむことはとてもいいものだ。旅の仮屋の野山などで、「酒の肴は何かないかな」などと言って芝の上でお酒を楽しむことにも趣きがある。強くお酒を拒む人が強いられて少し飲むのもいいものだ。お酒の好きな人に特に「今少し、もう少し」などと言わせるのも楽しいものだ。近付になりたい人がお酒の好きな人ですっかり慣れ親しめることもまた嬉しいことだ。

原文
 さは言へど、上戸は、をかしく、罪許さるゝ者なり。酔ひくたびれて朝寝したる所を、主の引き開けたるに、惑ひて、惚れたる顔ながら、細き髻(もとどり)差し出し、物も着あへず抱き持ち、ひきしろひて逃ぐる、掻取姿(かいとりすがた)の後手、毛生ひたる細脛(ほそはぎ)のほど、をかしく、つきづきし。

現代語訳
 そうは言っても、お酒の好きな人には趣きがあり、その罪は許容されている。酔いくたびれて朝寝しているところを主に戸を引き開けられ、惑いて、呆けた顔をして細い髻(もとどり)を差し出し、着物も着ずに抱え持ち、引きずりながら逃げていく、裾をたくし上げ、毛の生えた細い脛など、ほほえましく、罪のないものだ。

 
ある特攻隊員の最期の言葉より
畏友服部武司さん
「愈々出撃も明日と決定せる今、全てを打ち明けます。約半年前振武隊桜花隊特別攻撃隊の命を拝受して遂々明日こそその大任を果す事と成りました。喜んで下さい。勝又は漸く服ちやん達の期待と応援に報ゆることの出来るうれしさで一杯です。昨晩父母、兄たちと訣別し小生の元気なハリキリ飛行も存分見て貰ひました。書き度い事が一杯で何と書き申して良いのか解りません。只勝又が君達と別れて日本の必勝を信じて突入して往く事を喜んで下さい」            

これは特別操縦見習士官二期生として知覧の飛行場で教育を受けていた勝又勝雄少尉が特攻隊として出撃する前日に親友に宛てた手紙です。

勝又少尉は昭和20(1945)年5月4日に知覧飛行場より出撃し、沖縄周辺で戦死されました。享年22歳でした。
この勝又さんは知覧の町で誰もが知る有名人でした。というのも、まだ空襲もなかった昭和18(1943)年、町で行われた運動会に飛行学校の生徒として参加した勝又さんは獅子奮迅の大活躍をしたのです。とくに最後に行われた騎馬戦では相手を次々に倒して、見事、勝ち残りました。豪快で明るい性格の勝又さんの行くところ、笑顔の花が咲きました。
飛行学校を卒業してから1年後、勝又さんが久しぶりに富屋食堂に姿を現しました。すでに少尉となっていた勝又さんは、富屋食堂の女将であり、飛行学校の生徒の頃に可愛がってもらった鳥濵トメに会いに来たのです。しかし、勝又さんの挨拶を聞いて、トメは胸を痛めました。
「おばちゃん、久しぶり。でも、今度は短いよ。何しろ特攻だからね。だから今日は飲みおさめというわけで、思い切り飲んで、飲み足りないことのないようにしてからドーンと行こうと思うんだ」
富屋食堂は軍の指定食堂であったため、特別にお酒の割り当てがありました。とはいえ、在庫は限られており、トメは隊員さんたちにさびしい思いをさせないようにと、四方に手を尽くしてお酒を調達していました。
勝又さんはトメが苦心して調達した焼酎を一杯つがれるごとに「おばちゃん、ありがとう」とお礼を言って飲み干しました。
トメはたくさんの命を犠牲にしながら全く見通しの立たない戦争への不安を口に出し、「日本の行く末が心配だよ」と沈んだ口調で言いました。そんなトメの不安を振り払おうとするかのように勝又さんは言いました。
「俺は勝又の勝雄だよ。勝つ、勝つ、こんないい名前はないだろう。このめでたい名前の勝又勝雄が出撃するんだから、日本は勝つに決まってるよ」
おどけた調子でそう話すのを見て、トメはつい笑ってしまいました。
「そうだよ、おばちゃん、笑ってくれよ。くよくよ心配なんかしちゃだめだよ。あんまり心配すると、頭の毛が抜けてハゲになっちゃうよ。ハハハ」 そして「おばちゃん、笑ったところですまんがもう一杯」と杯をトメの前に差し出しました。好きな酒を心ゆくまで飲み尽くした勝又さんは、帰り際、トメに最後の別れを告げました。
「おばちゃん、元気で長生きしてくれよ。人生50年と言うけれど、俺なんかその半分にもならない20年であの世に行っちゃうんだからな。あとの30年は使ってないわけだ。だから俺の余した30年分の寿命はおばちゃんにあげる。おばちゃんは人より30年余計に生きてくれよ。きっとだよ」
それから「じゃあ、さようなら」と手を振って勝又さんは去って行きました。その後ろ姿をトメはいつまでも忘れることができませんでした。
太平洋戦争末期、日本は戦局を打開するために、飛行機ごと敵艦に突撃する特攻攻撃を採用しました。鹿児島にある知覧飛行場からは、連日、沖縄に向けて数多くの若者たちが飛び立ち、自らの命を捧げました。
戦後、特攻隊は軍国主義の悪しき象徴のように言われ、隊員の死は「犠牲」「犬死に」とされました。
しかし、「特攻の母」と呼ばれた鳥濱トメは、彼らの傍らにいて、その最期の日々をともに生きてきた者として、若者たちの尊い命が「犠牲」や「犬死に」という言葉でひとくくりにされることに我慢できませんでした。そして、トメは決意をするのです。
隊員さんたちの真実を伝える語り部として、彼らがどのように生き、なんのために死んだのかを語り続けていこう、と。鳥濵トメはもうこの世にいません。しかし、トメの言葉は私の記憶の中にしっかり刻みこまれています。私はその思いを引き継ぎ、次の世代にしっかり受け渡していきたいと考えています。
本書は、そのための一つの試みでもあります。私のような者が表に出るのは烏滸がましいという思いもありますが、私が語ることによって、特攻隊員さんたちの、そしてトメの思いが一人でも多くの方たちに伝わるとすれば、天国のトメにも「初ちゃん、よくやった」と喜んでもらえるのではないかと思っています。
心で結ばれたトメと特攻隊員たち
昭和16年に福岡の大刀洗陸軍飛行学校の分教所として知覧飛行場が完成しました。富屋食堂は軍の指定食堂になり、訓練が休みの日になると多くの少年飛行兵が訪れるようになりました。町には映画館があるわけでもないし、優しいおばさんのいる富屋食堂は少年兵たちの憩いの場所になったようです。
誰に対しても分け隔てなく温かく接するトメの人柄は若い兵隊さんたちの心を和ませました。富屋食堂は大変な賑わいとなり、トメはみんなから最初は「おばさん」そのうちに「お母さん」と呼ばれるようになりました。
一方、戦争は悪化の一途をたどり、昭和20年、沖縄戦が激化するようになると、ついに特攻作戦が導入されることが決定されました。そして、悲しいことに本土から沖縄に最も近い場所にある知覧飛行場がその出撃基地として選ばれてしまいました。
分教所で学んだあと各地の航空基地に散っていた少年兵たちが、成長した姿で続々と知覧に戻ってきました。懐かしい顔との再会にトメは喜びましたが、やがて彼らが特攻作戦に従事することを知ると、心は悲しみで沈みました。
しかし、トメはつらい気持ちを胸の奥に隠して、最後まで彼らの「お母さん」として振る舞おうと決めました。そして隊員さんたちがゆっくりする場所がないと困るだろうと、食堂裏の民家を借り受け、そこを「離れ」と称して開放しました。トメは卵焼き、サツマイモの天ぷら、ジャガイモの煮付けなどを作って供し、それを肴に彼らはよく飲み、高唱しました。
ただ、お金をもらう以上にもてなすので、食材を買うお金が底を突きそうになったこともあったようです。そういうときは自分の着物や家財道具を売って工面をし、材料を調達していたといいます。
明日の身がない子たちに心ゆくまで居させてあげたいとの思いだったのでしょう。当時は軍の統制下で営業時間が午後9時までと厳しく定められていましたが、トメはその時間を守らず、夜が更けるまで営業を続けました。トメには命が限られている特攻隊の人たちに対して時間を切ってもてなすようなことはできなかったのです。
あるとき、それが憲兵隊に見つかってしまいました。「営業時間を守ってない、風紀を乱す」という理由でトメは警察に連行されました。軍の規定違反をとがめられたトメは、「9時以後はお金ももらっていないし、商売で飲み食いさせているわけではない。それに、いい気分で寝てしまった子たちを起こすわけにはいかない。兵隊さんたちは自分の子供みたいなものなのだ」と素直な気持ちで話しました。そして「それくらいしてもいいじゃありませんか! あの子たちは2、3日したら体当たりするのだから」と思いの丈を吐き出しました。それが憲兵たちの怒りに油を注ぎました。「貴様、女の分際で理屈を言うか!」と4、5人に囲まれて殴る蹴るの暴行を受けてしまいました。
その頃、富屋食堂にやって来た隊員さんたちは、いつも笑顔で迎えてくれるトメがいないのを気にとめ、店員に「お母さんの姿がないけど、どうしたんだ?」と聞きました。そして憲兵隊がしょっぴいて行ったことを知ると、代表者が警察署に向かい「僕たちの身はどうなっても構わないが、釈放しないのなら力づくでも奪い返す。どうせ明日には死ぬ身だから」と直談判してトメを救い出したのです。
トメは殴られ蹴られて傷つき腫れ上がった顔のまま隊員さんに担がれて富屋に帰って来ました。こんな仕打ちを受けながらも、トメは決して怯むことなく、それからあとも隊員さんたちに尽くし続けました。これらの話を聞くにつけ、トメは覚悟の人、無私の人だったと感じます。トメは左手首の付け根より少し内側に「トメ」という字を刃物で刻んでいました。字といっても私が見たときはもう傷のようになっていたのですが、あるとき「おばあちゃん、これ、なんなの?」と聞くと、トメはこう答えました。
「このトメがどこでどうなってもこれを見ればトメだってわかるから、人に迷惑をかけんから」 憲兵隊に暴行を受けてもしものことがあったときに、ここにトメとあるのを見れば自分だとわかるだろうというのです。たえと野垂れ死にしようと、トメだとわかるようにしておけば人に迷惑をかけることもない、と。この話を聞いたときは鳥肌が立ちました。神がかっていると感じました。すごい生き方だと思いました。特攻隊の隊員さんたちが国の将来や愛する家族を守るために自らの身を捧げたように、トメもまた自らのすべてを隊員さんたちに捧げようとしていたのです。
鳥濵初代(とりはま・はつよ)
昭和35年鹿児島県生まれ。55年鹿児島女子短期大学卒業後、老人ホーム「寿楽園」に勤務。58年鳥濵トメの孫・義清氏と結婚する。平成7年富屋旅館三代目女将に就任。旅館業の傍ら、祖母・鳥濵トメの託した思いを来館者に日々語り続けている。
鳥濵トメ(とりはま・とめ)
明治35(1902)年~平成4(1992)年。鹿児島県出身。貧しい漁民の子として生まれ、8歳で奉公に出される。18歳で鳥濵義勇と結婚。昭和4年27歳の時、知覧に富屋食堂を開業。20年特攻作戦が始まると知覧から出撃する特攻隊員の面倒を見るようになる。憲兵の検閲を避け、隊員が家族などに宛てた手紙を代理で投函した他、隊員の出撃の様子を自ら手紙に綴り、全国の家族のもとへと送り続けた。21年飛行場の一角に棒杭を立て、隊員の墓標として供養を始める。27年富屋旅館開業。30年特攻平和観音堂が建立され、その観音堂参りが以後ライフワークとなる。平成4年4月22日逝去。享年89。

醸楽庵だより   1350号   白井一道

2020-03-11 14:37:29 | 随筆・小説



    徒然草174段 小鷹によき犬



原文
 小鷹によき犬、大鷹に使ひぬれば、小鷹にわろくなるといふ。大に附き小を捨つる理、まことにしかなり。人事(にんじ)多かる中に、道を楽しぶより気味深きはなし。これ、実の大事なり。一度(ひとたび)、道を聞きて、これに志さん人、いづれのわざか廃れざらん、何事をか営まん。愚かなる人といふとも、賢き犬の心に劣らんや。

現代語訳
 小鷹狩りに良い犬を大鷹狩りに使うと小鷹狩りには悪くなるという。大きなものを大事にして小さいものをおろそかにする理屈、まことにそのとおりだ。多くの人の営みの中で、仏道を楽しむことほど味わい深いものはない。この事はまことに大事なことだ。一度(ひとたび)、仏道の話を聞き、この道を志す人は、どういうわけは分からないが、仏道以外のことに関心をなくし、何事かを始める。愚かな人であっても、賢い犬の心に劣ることはない。

 我が闘病記5  白井一道
 新しい「市立医療センター」に入院し、初めて目にし、経験したことがある。それは若い男の看護師がいたことである。看護職に男性が採用されるということをニュースでは知っていたが、直に接したのは新しい市立病院に入院した時が初めてだった。
 女性の看護師さんに交じって男性の看護師さんがいることに違和感を覚えることはなかった。入院患者にとって医療関係者と接する時間は圧倒的に看護師さんとの方が長いし、回数も多い。男女の隔てもなく、対等に接している看護師さんたちを見ていて、ごく当たり前なものとして私は受け入れることができた。しかし、女性の看護師さんと男性の看護師さんとでは、患者として接し方が違ってくるということを感じた。深夜、男性の看護師さんがベッド脇に来て、身に着けている心電図を測る器具を直されるときなど、女性の看護師さんの方がいいなぁーと感じたことがあった。女性の看護師さんであっても男性の看護師さんであっても人によるのかもしれない。
 男性の看護師さんと女性の看護師さんとでは会話が大きく違ってくることがある。当たり前のことである。女性の看護師さんには話せないようなことを男性の看護師さんと話したことがある。看護師さんは実に忙しい。その合間を縫って私はある男性の看護師さんに話しかけた。私の話を聞いてもらえるかと。時間の余裕がありそうな時に尋ねてみた。彼はいいですよと、言った。
 私は脳梗塞になった時に自分がどこにいるのかが分からなくなった。私は今どこにいるのかが分からなくなった。周りに見える街はすべてが全く知らない場所であった。初めて見る景色であった。自転車の乗っているのを危険だと思い、自転車を引き、歩き出した。どこを歩いているのかが分からない。この世界に私は一人っきりだという思いが胸いっぱいになる。この孤独感が耐えられない。この孤独に耐えてただひたすら歩く。この経験から人間とは記憶に支えられている。記憶を失うと自分が人間であるという認識がなくなる。人間は記憶に支えられている。記憶が自分は人間だと認識を支えている。人間にとって記憶と言うものが決定的に大事なものだということを脳梗塞という病を得て私が実感したことなんだということを男の若い看護師に聞いてもらった。「なんか、白井さんの話は哲学的ですね。話していることは分かりますが、申し訳ありませんが、ただそれだけですね」と男の若い看護師は言った。「まだ、この続きがあるんだ。聞いてもらえるかな、時間のある時でいいから」と私が言いうと、「いいですよ」とは言ったが二度と私の話を聞いてもらう機会はなかった。一度、話しかけてはみたが、時間がないと断られた。女性の看護師は私のどうでもいいような話など、耳を傾けて聞いてくれそうな看護師はいなかった。
 私は気が付いたことがあった。徘徊をする老人のことだ。記憶が薄れていくと今自分のいるところが自分のいるところではないと感じてしまう。自分のいる場所はここではない。どこにあるのか探し始めてしまう。見るところ、初めて見る景色だ。私がいた場所はどこなのか、探し始めて、歩き出す。行けども行けども私が知っている場所に行く着くことができない。不安と恐怖に恐れながら、ただ歩き続けることに安心感を感じて歩き続ける。日暮れて来る。夜が怖い。早く自宅に帰りたい。自宅はどこにある。探し求めてもどこにもない。記憶を失うと自宅を自宅だと認識できない。このことが徘徊を生む。

醸楽庵だより   1349号   白井一道

2020-03-09 10:43:44 | 随筆・小説



   
 徒然草173段 小野小町が事



原文
  小野小町が事、極めて定かならず。衰へたる様は、「玉造」と言ふ文に見えたり。この文、清行が書けりといふ説あれど、高野大師の御作の目録に入れり。大師は承和の初めにかくれ給へり。小町が盛りなる事、その後の事にや。なほおぼつかなし。

現代語訳
 小野小町の事は、はっきりわかっていることがない。老いてからのことが「玉造」という文書に書いてある。この文書は三善清行が書いたものだという説があるが、高野大師の御作の目録に入っている。大師は承和の初めに亡くなられている。小町が生きていたのはその後の事である。だからはっきりしたことではない。

 我が闘病記4  白井一道
 新しい場所に市立病院は名称を変え、建て替えられた。「市立医療センター」として新築された。20年ほど前、母が入院した時とは、すべてが様変わりをしていた。以前と比べて病室が幾分広いように感じられた。私が入院した病室は五階の東南の隅の病室だった。私のベッドは窓際にある。深夜遠くに聞こえる救急車のサイレンが聞こえる。このサイレンの音が徐々に小さくなり、聞こえなくなる。カーテンを捲ると救急車が静かに「市立医療センター」に入って来る。あの救急車にはどんな病人が乗せられているのかと想像してしまう。今夜はもう三台目だな。この病院はこの地域の救急指定の病院のようだ。私の入院期間は2週間だと入院する際に医者に言われたと妻から聞いた。この通り私は二週間に入院し、退院させられた。私の入った病室は四人部屋だった。一人一人ベッドがカーテンで仕切られており、ベッドに寝たまま、隣の病人と気軽に話ができるような雰囲気はない。隣のベッドの患者がどのような病なのか、全然分からない。ただ黙って静かに寝ているだけである。ただ驚いたことに一人一人にテレビが見られるような設備が整っていたことだ。ただ二千円ほどの札を入れると電源が入る仕組みになっていた。一度お金を入れると24時間ほどテレビか見られる仕組みになっているようだった。私は一度もテレビを見たいと思ったことはない。病の事、これからの事などをとりとめもなくなく、考えていると一日一日が過ぎていく。退屈することがない。私には身体的な苦痛があるわけではない。
朝、診察に行った隣のベッドの病人が身のまわりの片付けを始めた。午後になると五十代後半の女性がやって来た。「これはどうするの。処分してしまっていいの。持って帰るの」と聞いている。母親のようだ。独身の男が入院していたようだ。一週間近く、隣のベッドに寝ていたが、一度も話をしたことはない。慌ただしく入院していた時の荷物の片付けが済むと何の挨拶もなく、病室から出て行った。翌日になると私の向かい側のベッドの病人がごそごそ荷物の片付けを始めた。この方とも入院中、一度も会話を交わしたことはなかった。忙しく、病室から出て行ったかと思うと帰って来て、片付けを初めて、昼食をとることもなく、誰も来ることもなく、一人で誰にも挨拶することなく出て行った。退院者がいなくなり、数時間すると何人もの看護師さんたちが慌ただしくベッドを取り換え、新しい入院患者を迎える準備をする。小一時間で準備が終わるとまもなく新しい患者が入って来る。どんな患者さんなのか、興味が湧く。耳を澄ましていると若者のようだ。母親の声がする。ひととき、にぎやかだったのが突然静かになり、夜の静寂が訪れる。看護師さんが回って来て、血圧を測っていく。どんな患者さんが入院してきたのか、興味があるが、聞くことはしない。聞きたいと思って聞いたところで看護師さんは何も言わない。だから私は何も聞かない。大学生のような若者は二日入院して三日目に退院していった。どのような病だったのか、私には何も分からない。その若者が退院するとまもなく一人の老人が若者の後に入院してきた。トイレに行く際、そのベッドの脇を通った際に、私は新入りの患者さんに挨拶した。「今日、外来で検診に来たんですよ。すると医者が入院だと言われましてね。私は脳梗塞でここに二カ月前、ここに入院していたんですよ。数値が悪いから調べることになりましてね。再入院ですわ」とニコニコしながら話した。この老人は二日ほど、入院していたが、すぐ退院していった。脳梗塞だと言っていたがどこがどうなっていたのか、全然わからなかった。ただ厳しいリハビリ専門の病院に通い、体を動かしていると話していた。このような会話をしたのは初めてのことであった。

醸楽庵だより   1348号   白井一道

2020-03-08 10:16:13 | 随筆・小説



    徒然草172段 若き時は



原文
 若き時は、血気内に余り、心物に動きて、情欲多し。身を危(あやぶ)めて、砕(くだ)け易(やす)き事、珠(たま)を走らしむるに似たり。美麗を好みて宝を費し、これを捨てて苔(こけ)の袂(たもと)に窶(やつ)れ、勇(いさ)める心盛(さか)りにして、物と争ひ、心に恥ぢ羨(うらや)み、好む所日々に定まらず、色に耽(ふけ)り、情にめで、行ひを潔(いさぎよ)くして、百年の身を誤り、命を失へる例(ためし)願はしくして、身の全く、久しからん事をば思はず、好ける方に心ひきて、永き世語りともなる。身を誤つ事は、若き時のしわざなり。
 老いぬる人は、精神衰へ、淡く疎(おろそ)かにして、感じ動く所なし。心自ら静かなれば、無益のわざを為さず、身を助けて愁なく、人の煩(わづら)ひなからん事を思ふ。老いて、智(ち)の、若きにまされる事、若くして、かたちの、老いたるにまされるが如し。

現代語訳
 若い時は血気が体に満ち、物の動きに心が反応し、情欲が強い。身を危険にさらし、砕けやすいことは、珠(たま)に勢いを付けて転がすことに似ている。綺麗な人に好んでお金を使い果たし、みすぼらしい姿となり、出家・遁世してみたり、はやる心が意気盛んで人とものを争い、心に恥じ羨み、好むことが日々変わり定まることがなく、好色に耽り、情愛にのめり込み、思い切りの良いことを行い、将来のある身を台無しにし、百年の身を誤り、命を失う例(ためし)に憧れ、身を全く、永らえることを考えず、好き勝手なことをしたことが、長い世間話ともなる。身を誤ることは若気の至りなのだ。
 老いてしまった人は精神が衰え、時間が薄く淡く流れ、感動することもない。心が平穏静かであるから無駄な事はしないし、身の安全を守り愁うこともないし、人も患うことがないことを思うようになる。老いて知力が若い時より勝る事は、若かった時の姿形が老いた時より勝っているかのごとくだ。

 我が闘病記3  白井一道
 脳梗塞という病を得て、私は我慢に耐える力が弱くなった。私のベッドの向かい側に新しい入院患者が入って来た。一日中、ベッドの中にいる。一日の大半を寝ている。年のころは80前後かなと私は感じていた。病院の夕食時間は早い。午後5時には配膳され、5時半には看護師さんが膳の回収にくる。私が入院していた病棟は五階、血液の病を持った患者たちが入院していた。脳梗塞は血液の病だとこの病院では区分していた。この区分が普遍的なものなのかどうかを私は知らない。私のベッドの反対側の患者さんが私と同様脳梗塞の患者さんなのかどうかを私は知らない。確かに私と同様に点滴はしている。この点滴薬が血液をサラサラにするものなのかどうかを私は知らない。自らの力でベッドから起き上がる事をしない患者さんであった。夕食が済み、夕日が沈み、窓から見える景色が暗くなってきた。私たちのベッドは窓際にあった。私はカーテンを閉めた。その時私は私のベットの反対側のベット際の窓にかかるカーテンも閉めた。その時だった。寝たままの患者さんが「ありがとうございます」と発言した。「これから病院の夜は長いですからね」と私が言うと「そうですね」と、弱々しい声で言った。「私は今まで一人部屋にいたんですよ。いろいろ事情がありましてね。こちらが空いたものですから、移してもらったんですよ」と私が聞きもしないことを話し始めた。「そうですか」と私が返事をすると長々と話し始める。この寝たきりの患者さんの話を聞くことの辛さが耐え難くなってきた。このような経験は初めてのことであった。
 脳梗塞を患うと人の話を聞く能力が低下するのかなと思い始めていた。脳内の血液の循環が低下し、体に異常が起きてくるのが脳梗塞や心筋梗塞という病のようだ。脂肪の塊に妨害されて脳内の血液の循環が滞る病が脳梗塞というもののようだ。
 四十代の女性の医者が私のベッド際に来て、カルテを見て話し始めた。「あなたはコレステロール値が高いわね。今までどのような食事をしていたの。脂っこいものを長い間食べているとこのような結果になるのよ。まず体重を減らすことね。退院したら、まず歩くことね。今までのような乱れた食事をしていると大変なことになるわよ」とにべもない言葉である。私の娘世代の医者にボロン糞に言われてしまった。この医者には老人に対する優しさが微塵もない。可愛い顔をしているだけ私には憎らしかった。