醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1404号   白井一道

2020-05-09 10:14:41 | 随筆・小説



   
 徒然草第228段 千本の釈迦念仏は



原文
 千本の釈迦念仏は、文永の比、如輪上人(によりんしやうにん)、これを始められけり。

現代語訳
 千本の釈迦念仏は文永のころ、如輪上人(によりんしやうにん)が始めたものである。

 釈迦念仏とは     白井一道
釈迦念仏とは称名念仏(しょうみょうねんぶつ)のことである。千本釈迦堂とは瑞応山(ずいおうざん)大報恩寺をいう。
称名念仏(しょうみょうねんぶつ)とは、仏の名号、特に浄土教においては「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏(口称念仏)をいう。「称名」とは、仏・菩薩の名を称えること。また諸仏が阿弥陀仏を称讃することもさす。宗旨により、「称名念仏」を行として捉える場合と、非行として捉える場合がある。
初期の仏教では、六隨念や十隨念の第一である「仏隨念」を「念仏」と呼ぶ。
原始経典の「南無仏」のように口称念仏として仏の名を呼ぶことによって、仏を具体的に感得しようとする信者たちの願いが生じる。常に信者たちの実践と結びついていたのは「阿弥陀仏への念仏」であった。
『般舟三昧経』では、諸仏現前三昧の代表として阿弥陀仏の念仏が説かれ、これが天台宗の常行三昧のよりどころとなる。
中国では、念仏の流れとして慧遠の白蓮社の観想念仏、善導による称名念仏、慧日による慈愍流の禅観的念仏の三流が盛んになる。このように阿弥陀仏の念仏については、おおむね3つの形態がある。
日本においては、「称名念仏」が平安時代末期には主流を占め、名号を称える道を歩めば、末法の濁世でも世尊の教えを理解できると説かれ、浄土教の根幹をなす。また名号の中でも「南無阿弥陀仏」と称える称名念仏が中心となる。そのような動き中で鎌倉時代中期には一遍などにより、より具体的に歓喜のこころを身振りや動作の上に表そうと「踊り念仏」が派生する。
この「称名念仏」を純粋な形で人間生存の根底にすえ生きる力を求めたのは、良忍の融通念仏であり、さらに法然や親鸞の教えであった。
『佛説無量寿経』には、阿弥陀仏に現世で救われて「南無阿弥陀仏」と念仏を称える(称名)身になれば、阿弥陀仏の浄土(極楽浄土)へ往って、阿弥陀仏の元で諸仏として生まれることができると説かれている。
その故は、法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行時の名)が、48の誓願「四十八願」を建立する。その「第十八願」
「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法」
意訳 「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。」と誓う。そしてすべての願が成就し、阿弥陀仏に成ったと説かれていることによる。
法然平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、「南無阿弥陀仏」をひたすら称える「専修念仏」の教えを説いた。後に法然は、浄土宗の開祖と定められる。法然の説く念仏は、阿弥陀仏の本願(第十八願『念仏往生の願』)を信じて「南無阿弥陀仏」と仏の御名を称えれば、善人、悪人、老若男女、貧富の別なく、すべての衆生を救うと誓われた阿弥陀仏によって、臨終には阿弥陀仏をはじめ観音菩薩、勢至菩薩や極楽の聖衆が来迎(らいこう)し、極楽浄土へ迎え入れ、彼の地に往生することが出来ると説いた。
また、この阿弥陀仏の選択本願の念仏は、臨終間際の悪人が善知識の勧めによってただの一遍称えただけでも救われると説く一方で、念仏の教えを信じる人は平生(普段から)より一生涯念仏を称え続けることが、阿弥陀仏の本願に順ずる事であると説き、法然は自らも日に六万遍、七万遍の念仏を称えたと伝えられている。 また、門弟の中に、一念義等の邪義を説くものが出たおりには浅ましき僻事(いつわり)であると、その間違いを世に示した。自らが著した『選択本願念仏集』で阿弥陀仏の選択本願念仏を詳しく説き示し、親鸞などの限られた弟子達にそれを授け、正しい念仏の教えを説いた。
                                             ウィキペディアより

醸楽庵だより   1403号   白井一道

2020-05-08 10:46:24 | 随筆・小説


   
 徒然草第227段 六時礼讃は



原文
 六時礼讃(ろくじらいさん)は、法然上人の弟子、安楽といひける僧、経文を集めて作りて、勤めにしけり。その後、太秦善観房(うずまさのぜんくわんぼう)といふ僧、節博士(ふしはかせ)を定めて、声明(しやうみやう)になせり。一念の念仏の最初なり。御嵯峨院の御代より始まれり。法事讃(ほうじさん)も、同じく、善観房始めたるなり。

現代語訳
 六時礼讃(ろくじらいさん)は、法然上人の弟子の安楽という僧が経文を集めて作り、勤行にしたものである。その後、太秦善観房(うずまさのぜんくわんぼう)という僧が調節を定めて声明(しやうみやう)にしたものである。御嵯峨院の時代から始まったものである。法事讃(ほうじさん)も同じように善観房が始めたものである。

 声明(しようみょう)とは     白井一道
 754年(天平勝宝4年)に東大寺大仏開眼法要のときに声明を用いた記録があり、奈良時代には声明が盛んにおこなわれていたと考えられる。
平安時代初期に最澄・空海がそれぞれ声明を伝えて、天台声明・真言声明の基となった。天台宗・真言宗以外の仏教宗派にも、各宗独自の声明があり、現在も継承されている。源氏物語の中に度々出てくる法要の場でも、比叡山の僧たちによって天台声明が演奏されていた。
平安時代に中国から入ってきた実践的な仏教声楽は梵唄と呼ばれていた。また、インドの声明にあたる悉曇学という梵字の文法や音韻を研究する学問が盛んとなった。やがて、悉曇学と経典の読謡を合わせたものを声明と呼ぶようになり、中世以後には経典の読謡の部分のみを指して声明と称するようになった。
声明は口伝(くでん)で伝えるため、現在の音楽理論でいうところの楽譜に相当するものが当初はなかった。そのため、伝授は困難を極めた。後世になってから楽譜にあたる墨譜(ぼくふ)、博士(はかせ)が考案された。なお、各流派により博士などの専門用語には違いがある。
しかし博士はあくまでも唱えるための参考であり、声明を正式に習得しようとすれば、口伝(「ロイ」とも言う。指導者による面授。)が必要不可欠であり、面授によらなければ、師から弟子への流派の維持・継承は出来ない。そのために指導者・後継者の育成が必須であった。
中世以前の声明は一般の日本人のみならず、僧侶にとってもその内容は理解し難いものだった。そのため、日本語の歌詞によるわかり易い声明が求められるようになり、講式という形式の声明が成立した。講式は既存の声明の約束事とは逸脱した音組織で成り立っていたため、新たな記譜方式を考案するに至った。講式は平曲・謡曲など邦楽の発展に大きな影響を及ぼした。
天台声明は最澄が伝えたものが基礎となり、独自の展開をした。最澄以後は、円仁・安然が興隆させた。後に融通念仏の祖となる良忍が中興の祖として知られる。1109年(天仁2年)に、良忍は、京都・大原に来迎院を建立した。大原の来迎院の山号を、中国の声明発祥の地・魚山(ぎょさん)に擬して、魚山と呼称された。やがて、来迎院・勝林院の2ヶ寺を大原流魚山声明の道場として知られるようになった。また、後に寂源が一派をなして、大原には2派の系統の声明があった。のちに宗快が大原声明を再興するに至った。
湛智が新しい音楽理論に基づいた流れを構築した。以降、天台声明の中枢をなし、現在の天台声明に継承されている。融通念仏宗、浄土宗、浄土真宗の声明は、天台声明の系統である。
 真言声明は空海が伝えたものが基礎となり、現在に至っている。声明が体系化されてきたのは真雅以降である。寛朝はなかでも中興の祖ともいえる。声明の作曲・整備につとめた。
 鎌倉時代までは多くの流派があったが、覚性法親王により、本相応院流・新相応院流・醍醐流・中川大進流の4派にまとめられた。このうち中川大進流は、奈良・中川寺の大進が流祖。
 南山進流(古義真言宗系声明) :中川大進流がもとになった。貞永年間(1232~1233)に高野山蓮華谷・三宝院の勝心が本拠地を高野山に移した。後に高野山の別名、南山を冠して、南山進流と称した。進流・野山進流とも称する。
         ウィキペディアより

醸楽庵だより   1402号   白井一道

2020-05-07 16:23:44 | 随筆・小説



   
 徒然草第226段 後鳥羽院の御時



原文
 後鳥羽院(ごとばのゐん)の御時(おんとき)、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)、稽古の誉ありけるが、楽府(がふ)の御論議(みろんぎ)の番に召されて、七徳の舞を二つ忘れたりければ、五徳の冠者(くわんじや)と異名(いみやう)を附きにけるを、心憂き事にして、学問を捨てて遁世したりけるを、慈鎮和尚(じちんくわしやう)、一芸ある者をば、下部(しもべ)までも召し置きて、不便にせさせ給ひければ、この信濃入道を扶持(ふち)し給ひけり。
 この行長入道、平家物語を作りて、生仏(しやうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり。さて、山門の事を殊(こと)にゆゝしく書けり。九郎判官(くらうはうがん)の事は委(くわ)しく知りて書き載せたり。蒲冠者(かばのくわんじや)の事はよく知らざりけるにや、多くの事どもを記し洩らせり。武士の事、弓馬の業(わざ)は、生仏、東国の者にて、武士に問ひ聞きて書かせけり。かの生仏が生れつきの声を、今の琵琶法師は学びたるなり。

現代語訳
 後鳥羽院の時代、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)の学問の名声は高かったが、漢詩の問題点について、天皇の前で論議する席に招かれ、七徳の舞を二つ忘れてしまったので五徳の冠者(くわんじや)とあだ名を付けられたのを苦にして学問を辞め遁世したことを慈鎮和尚(じちんくわしやう)は一芸ある者をと思い、下僕まで抱えさせて、不便のないようにと、信濃入道行長の面倒をみられていた。
 この行長入道が平家物語を作り、生仏(しやうぶつ)という盲目の者に教えて語らせた。さて、比叡山延暦寺の事は特に素晴らしく書いた。九郎判官(くらうはうがん)義経のことは詳しく調べて書き載せた。源範頼のことはよく分からなかったので、多くの事々を書き漏らしている。武士の事や弓馬の技は生仏が東国の者であったので、武士に聞いて書いている。かの生仏の生まれつきの声を今の琵琶法師は学んでいるのだ。

 『平家物語』について     白井一道
作者について『徒然草』の作者、吉田兼好法師は、信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたと書いている。その他にも、生仏が東国出身であったので、武士のことや戦の話は生仏自身が直接武士に尋ねて記録したこと、更には生仏と後世の琵琶法師との関連まで述べているなどと記述している。
この信濃前司行長なる人物は、九条兼実に仕えていた家司で、中山(藤原氏)中納言顕時の孫である下野守藤原行長ではないかと推定されている。また、『尊卑分脈』や『醍醐雑抄』『平家物語補闕剣巻』では、やはり顕時の孫にあたる葉室時長(はむろときなが、藤原氏)が作者であるとされている。なお、藤原行長とする説では「信濃前司は下野前司の誤り」としているが、『徒然草』では同人を「信濃入道」とも記している。
そのため信濃に縁のある人物として、親鸞の高弟で法然門下の西仏という僧とする説がある。この西仏は、大谷本願寺や康楽寺(長野県篠ノ井塩崎)の縁起によると、信濃国の名族滋野氏の流れを汲む海野小太郎幸親の息子で幸長(または通広)とされており、大夫坊覚明の名で木曾義仲の軍師として、この平家物語にも登場する人物である。ただし、海野幸長・覚明・西仏を同一人物とする説は伝承のみで、史料的な裏付けはない。
現存している諸本は、次の二系統に分けられる。
盲目の僧として知られる琵琶法師(当道座に属する盲人音楽家。検校など)が日本各地を巡って口承で伝えてきた語り本(語り系、当道系とも)の系統に属するものと読み物として増補された読み本(増補系、非当道系とも)系統のものである。
 明治維新後は江戸幕府の庇護を離れた当道座が解体したため、平曲を伝承する者も激減した。昭和期には宮城県仙台市に館山甲午(1894年生~1989年没)、愛知県名古屋市に荻野検校の流れを汲む井野川幸次・三品正保・土居崎正富の3検校だけとなり、しかも全段を語れるのは晴眼者であった館山のみとなっていた。平曲は国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択されて保護の対象となっており、それぞれの弟子が師の芸を伝承している。2018年、三品検校の弟子である今井勉が生存しているだけである。      ウィキペディア参照

醸楽庵だより   1401号   白井一道

2020-05-06 10:30:27 | 随筆・小説



    徒然草第225段 多久資が申しけるは



原文
  多久資(おほのひさすけ)が申しけるは、通憲入道(みちのりにふだう)、舞の手の中に興ある事どもを選びて、磯の禅師といひける女に教へて舞はせけり。白き水干(すゐかん)に、鞘巻(さうまき)を差させ、烏帽子を引き入れたりければ、男舞とぞ言ひける。禅師が娘、静と言ひける、この芸を継げり。これ、白拍子の根元(こんげん)なり。仏神(ぶつじん)の本縁(ほんえん)を歌ふ。その後、源光行、多くの事を作れり。後鳥羽院の御作もあり、亀菊に教へさせ給ひけるとぞ。

現代語訳
 多久資(おほのひさすけ)が話していることによると通憲入道(みちのりにふだう)が舞の型の中の面白みのある事どもを選び、磯の禅師と名のる女に教えて舞わせた。白い狩衣に腰刀を差させ、烏帽子をかぶらせるなら、男舞だとおっしゃった。禅師の娘を静と言い、この芸を継承した。これが白拍子の始まりである。仏や神がこの世に現れられた縁起を歌う。その後、源光行は多くの歌を作った。後鳥羽院がお作りになったものもあり、亀菊にお教えになられたことである。

 白拍子について      白井一道
 白拍子(しらびょうし)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種。及びそれを演ずる芸人である。主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを指すが、男性の白拍子もいた。素拍子(しらびょうし)とも書き、この場合は無伴奏の即興の舞を指す。複数の白拍子が登場する鎌倉時代前期の軍記物語『平家物語』では、白拍子の起源について「鳥羽院の時代に島の千歳(せんさい)、和歌の前という2人が舞いだしたのが白拍子の起こりである」としている。また「初めは水干を身につけ、立烏帽子をかぶり、白鞘巻をさして舞ったので、男舞と呼んだ。途中で烏帽子、刀を除けて、水干だけを用いるようになって白拍子と名付けられた。」と解説されている。白拍子は、男女問わずに舞われたものであったが、主として女性・子供が舞う事が多かった。古く遡ると巫女による巫女舞が原点にあったとも言われている。神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、場合によっては一時的な異性への「変身」作用があると信じられていた。日本武尊が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が三韓征伐の際に男装を行ったという説話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったという。このうち、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、次第に芸能を主としていく遊女へと転化していき、そのうちに遊女が巫以来の伝統の影響を受けて男装し、男舞に長けた者を一般に白拍子とも言うようになった。
白い直垂・水干に立烏帽子、白鞘巻の刀をさす(時代が下ると色つきの衣装を着ることも多かった)という男装で歌や舞を披露した。伴奏には鼓、時には笛などを用いた。後に、猿楽などへと変貌していった。後に早歌(そうが)や曲舞(くせまい)などの起こる素地ともなった。また延年にも取り入れられ、室町時代初期まで残った。
白拍子を舞う女性たちは遊女とはいえ貴族の屋敷に出入りすることも多かったため、見識の高い者が多く、平清盛の愛妾となった祇王や仏御前、源義経の愛妾となった静御前、後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊など、貴紳に愛された白拍子も多い。また、微妙や磯禅師等、歴史に名を残す白拍子も多い。仏御前を例にとると、14歳のとき上京し、叔父の白河兵内のもとで白拍子となり、その後京都で名を挙げ、当時の権力者であった平清盛の屋敷に詰め寄る。その当時は白拍子の妓王が清盛の寵愛を集めていたので追い払われるが、妓王の誘いにより清盛の前で即興で今様を詠み、それを自分で歌いながら舞を見せ、一気に寵愛を集めた。このとき詠んだ今様は、以下のようなものである。
「君を始めて見るをりは  千代も経ぬべし姫小松  御前の池なる亀岡に  鶴こそ群れ居て遊ぶめれ」である。
 また白拍子と北野天満宮のご縁に関して、網野善彦は『中世のと遊女』の中で次のように紹介している。『民経記』寛喜元年(一二二九)六月一日条に、北野社の毎月の朔幣は「白拍子等巡役」とあるように、白拍子はこうした公的な行事に、おそらくは番を結んで順番に奉仕していたのである。鎌倉時代の北野社において、どうやら白拍子がお役目を頂戴し、禄を得ていた。ウィキペディア参照

醸楽庵だより   1400号   白井一道

2020-05-05 10:07:55 | 随筆・小説




   
 徒然草第224段 陰陽師有宗入道、



原文
 陰陽師(おんやうじ)有宗入道(ありむらにふだう)、鎌倉より上りて、尋ねまうで来(きた)りしが、先(ま)づさし入りて、「この庭のいたづらに広きこと、あさましく、あるべからぬ事なり。道を知る者は、植うる事を努む。細道一つ残して、皆、畠に作り給へ」と諌(いさ)め侍りき。
 まことに、少しの地をもいたづらに置かんことは、益なき事なり。食ふ物・薬種など植ゑ置くべし。

現代語訳
陰陽師(おんやうじ)の有宗入道(ありむらにふだう)は鎌倉から都に上り、尋ね下さった折、まず門から入って来て「この庭がやたら無駄に広いことに驚きあきれ、このようなことはあってはならない事だ。もののわきまえを知るものは何かを植えることに努めることだろう。細い道一つを残して、後は皆、畑にしなさい」と諫められた。
本当に少しの土地でも遊ばしておく事は無駄なことだ。食べるものや薬草を植えておくべきだ。

 陰陽師と武家政権      白井一道
 平安時代末期(12世紀後半)には、院政に際して重用された北面武士に由来する平家の興隆や、それを倒した源氏などによる武家社会が台頭し、建久3年(1192年)には武家政権である鎌倉幕府が正式に成立した。源平の戦いの頃から、源平両氏とも行動規範を定めるにおいて陰陽師の存在は欠かせないものであったことから、新幕府においても陰陽道は重用される傾向にあった。幕府開祖である源頼朝が、政権奪取への転戦の過程から幕府開設初期の諸施策における行動にあたって陰陽師の占じた吉日を用い、2代将軍源頼家もこの例にならい京から陰陽師を招くなどしたが、私生活まで影響されるようなことはなく、公的行事の形式補完的な目的に限って陰陽師を活用した。
建保7年(1219年)に3代将軍源実朝が暗殺されると、北条氏による執権政治が展開されるようになり、鎌倉将軍は執権北条氏の傀儡将軍として代々摂関家や皇族から招かれるようになり、招かれた将軍たちは出自柄当然ながら陰陽師を重用した。4代将軍藤原頼経は、武蔵国(現在の東京都および埼玉県)の湿地開発が一段落したのを受けて、公共事業として多摩川水系から灌漑用水を引き飲料水確保や水田開発に利用しようとする政所の方針を上申された際、その開発対象地域が府都鎌倉の真北に位置するために、陰陽師によって大犯土(だいぼんど、おおつち)(大凶の方位)であると判じられたため、将軍の居宅をわざわざ鎌倉から吉方であるとされた秋田城介義景の別屋敷(現在の神奈川県横浜市鶴見区)にまで移転(陰陽道で言う「方違え」)してから工事の開始を命じたほか、その後代々、いちいち京から陰陽師を招聘することなく、身辺に「権門陰陽道」と称されるようになった陰陽師集団を確保するようになり、後の承久の乱の際には朝廷は陰陽寮の陰陽師たちに、将軍は権門陰陽師たちにそれぞれ祈祷を行わせるなど、特に中後期鎌倉将軍にとって陰陽師は欠かせない存在であった。
ただ、皇族・公家出身の将軍近辺のみ陰陽道に熱心なのであって、実権を持っていた執権の北条一族は必ずしも陰陽道にこだわりを持っておらず、配下の東国武士から全国の地域地盤に由来する後に国人と呼ばれるようになった武士層に至るまで、朝廷代々の格式を意識し、陰陽師に行動規範を諮る習慣はなかったため、総じて陰陽師は武家社会全般を蹂躙するような精神的影響力を持つことはなく、もっぱら傀儡である皇族・公家出身将軍と、実権を失った朝廷や公卿・公家世界においてのみ、その存在感を示すにとどまった。鎌倉時代初期においては、国衙領や荘園に守護人奉行(のちの守護)や地頭の影響力はそれほど及んでいなかったが、鎌倉中期以降、国衙領・荘園の税収入効率または領地そのものがこれらに急激に侵食されはじめると、陰陽師の保護基盤である朝廷・公家勢力は経済的にも苦境を迎えるようになっていった。
後醍醐天皇の勅令によって鎌倉幕府が倒され、足利尊氏が後醍醐天皇から離反して室町幕府を開いて南北朝時代が到来すると、京に幕府を開いて北朝を支持する足利将軍家は次第に公家風の志向をもつようになり、3代将軍足利義満のころからは陰陽師が再び重用されるようになった(義満は、天皇家の権威を私せんと画策しており、彼の陰陽師重用は宮廷における祭祀権を奪取するためのものでもあった。ウィキペディア参照

醸楽庵だより   1399号   白井一道

2020-05-04 10:45:14 | 随筆・小説



   
 徒然草第223段 鶴の大臣殿は



原文
 鶴(たづ)の大臣殿(おほいとの)は、童名(わらはな)、たづ君(きみ)なり。鶴を飼ひ給ひける故にと申すは、僻事(ひがこと)なり。

現代語訳
 九条基家(くじやうもといえ)、鶴(たづ)の大臣殿(おほいとの)の童名(わらはな)はたづ君である。鶴を飼われていたのでというのは、間違いである。

 名前について      白井一道

平安時代から江戸時代までの身分制社会にあっては、武士や貴族の子が幼児である間の名前があった。元服して諱(いみな)をつけるまでの名前である。江戸期、多くの慈善活動をした豪商が、その活動を認められ、公での苗字帯刀を許された場合、その商人の子も幼名を持つ例がある。農民の名前は終生変わることは無い。
諱という漢字は、日本語では「いむ」と訓ぜられるように、本来は口に出すことがはばかられることを意味する動詞である。この漢字は、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことから、転じて人の本名(名)のことを指すようになった。本来、名前の表記について生前は「名」、死後は「諱」と呼んで区別するが、のちには生前にさかのぼって諱と表現するなど、混同が見られるようになった。諱に対して普段人を呼ぶときに使う名称のことを、字といい、時代が下ると多くの人々が諱と字を持つようになった。
日本の場合、人間に限らず、成長の段階に応じて名称を変える文化がある。例えば出世魚と知られるブリの場合、モジャコ(ワカナゴ)・ワカシ ・イナダ ・ワラサ ・ブリ。昆虫で言えば、姿形が異なるヤゴとトンボ、陸獣では、ウリ坊とイノシシがある。また、幼名・元服名に限らず、地位に応じて名を改める文化が日本にはあったようだ。そのためか氏姓が多いのかもしれない。
また武家では幼名を代々継承する家が多く存在した。たとえば徳川将軍家の竹千代、尾張徳川家の五郎太、紀州徳川家の長福丸、水戸徳川家の鶴千代、加賀前田氏の犬千代などがあり、事例に枚挙の暇が無い。これらはそれぞれの家の初代当主の幼名であり、(たとえば竹千代は江戸幕府初代将軍徳川家康の、五郎太は尾張藩祖徳川義直の、長福丸は紀州藩祖徳川頼宣の、鶴千代は水戸藩祖徳川頼房の、犬千代は加賀藩祖前田利家の幼名である)これらは子孫のうち後を継ぐべき嫡男の幼名にもなり、代々受け継がれていった。
名前と人間の関わりは古く、名の使用は有史以前に遡るとされる。姓などの氏族集団名や家族名の使用も西方ではすでに古代ギリシアなどにその形跡があるとされ、東方では周代から後世につながる姓や氏の制度が確立されていることが確認できる。
ある社会においては様々な理由で幼児に名前を付けない慣習が見られる地域もあるが、1989年に国連総会で採択された児童の権利に関する条約7条1項は、「児童は、出生の後直ちに登録される」「ただの出生児から1つの名となる権利を有すべきである 」と定めている。
日本の場合は民法により氏+名という体系をもつ。呼称される場合は、氏のみ・名のみやあだ名、敬称・職名などとの組み合わせ、同一の人名の世襲などがある。氏名は他に、姓名や名字(苗字)と名前ともいう。縦書きにしたとき、氏は上部、名は下部になるため、氏を上の名前、名を下の名前と呼ぶこともある。
氏+名という構成は日本の文化に基づいた体系である。人名は、共同体の慣習により異なる名付けの体系を持ち、また、呼称する場合も慣習によって独特の方法を持つことが多い。漢字文化圏において姓と氏、さらには日本における苗字は互いに異なる概念だが、今日では同一視されている。日本でも、明治維新以前は氏(ウヂ:本姓)と苗字に代表される家名は区別されていた。名は名前とも呼ばれる。
人名は、呼ぶ側と呼ばれる側が互いに相手を認識し、意思の疎通をとる際に使われる。多くの場合、戸籍など公的機関に登録される名前を本名として持つ。呼び名としては、戸籍名のままや、「さん」、「君」、「ちゃん」等の敬称が付け加えられたり、名前を元にした呼び方、あだ名との組み合わせなどとなることが多い。 また、人名そのものが、自己、自我、アイデンティティに大きく関係している。

醸楽庵だより   1419号   白井一道

2020-05-03 10:10:30 | 随筆・小説



  安倍政権の新型コロナウイルス対策は自粛?


 
 「医師が必要と判断した場合および、濃厚接触者を中心にやってきたため、我々は感染の実態の一部しか把握していないのは当然だ」。尾身副座長は日本の検査の現状についての検討する専門家会議後、このように説明し、PCR検査を絞っているにも関わらず新規感染者が減少していると解説しているテレビ映像を見た。
 国会で野党がPCR検査を重症化する可能性が濃厚な患者にしか行わないことでは、新型コロナウイルスに感染する人を救うことはできない。ぜひPCR検査を実施すべきではないかと政府を追及する国会中継を見た。その追求に対して安倍総理は新型コロナウイルスの感染拡大への対応策として2月28日の衆院予算委員会で二万件のPCR検査をすると答弁した。しかし二か月が過ぎてもPCR検査は遅々として進むことはなかった。野党から追求されると安倍首相は、2カ月前と同様の答弁を繰り返している。
 PCR検査法は40年も前に活溌されたものであると聞いた。検査できる機関は日本各地の大学病院でも日本各地の公立病院でも可能であるという話も聞く。問題はやる気の問題のようだ。検査をしなければならないのは帰国者、接触者のみに特化して行うことが医療崩壊を防ぐという主張だ。厚労省管轄の行政検査として保健所の承認のもとでなければPCR検査はできないという縛りがあるからのようだ。PCR検査を大量に実施すると医療崩壊するという人々の主張を安倍政権は尊重しているようだ。
 しかし新型コロナウイルス感染者は増大していく。新型コロナウイルスに感染しても8割の感染者は軽症のまま全快している。にもかかわらず軽症者であっても他人への感染力はある。また感染していても他人へ感染させる力のある人は少数で、多数の感染者は他人への感染力がないようだ。このことをクラスターと言っているようだ。尾身さんは山中伸弥さんとの対談でこのように説明していた。クラスター対策をするなら、新型コロナウイルスを封じ込めることができると考えていたのかもしれない。このような新型コロナウイルス対策は間違っていた。新型コロナウイルスはしつこい。悪さをするウイルスだ。血液を固め、脳梗塞や脳血栓を引き起こしたりする悪さをするウイルスである。30代や40代の感染者が脳梗塞、脳血栓を引き起こしている。無症状の感染者が急激に重症化し死に至る。このような事情が明らかになるに従って今までのようなPCR検査を一部の者に限定する方法では新型コロナウイルスを撲滅する事は出来ない。このような認識が全国民的なものになるに及んで安倍総理もやむなくPCR検査をせざるを得なくなったにもかかわらず、口先ではPCR検査をすると言うが実際は遅々として進まない。
「専門家会議とは一体何の専門家なのか、ウイルス研究や数理処理の専門家以上に、治療の現場から臨床的に何が起きているのかを把握して感染拡大を止める人材が必要。自分達の主張する検査方式に固執し、次いで8割制限に固執、発熱前から感染力のある事実への対処も後手、医療や介護現場の感染者も多数。」このように医師でもある阿部知子衆議院議員はツイートしている。
 国民へは外出自粛を要請し、8割の国民が外出を自粛するなら、感染爆発を抑えることができるという宣伝を懸命にしているがそれで本当に感染爆発を抑えることができるのだろうか。先日、デモクラシータイムスに出ていた児玉龍彦さんの主張を聞いて、落涙してしまった。児玉さんは訴えていた。ライフラインを守る事ですと言っていた。スーパーで食品の販売に従事する人、日常生活に必要な物品の生産や流通に従事する人々、郵便局に勤めている人々を新型コロナウイルスから守るということが大事だと説明していた。もちろん病院で働く人すべてが安全に働ける環境を守ることが大事だと力説していた。東大先端医療研究のリーダーを務める児玉さんがこのような現場で働く人々への優しい眼差しに真実があるように思う。自粛一本やり対策では新型コロナウイルスとの長期戦を戦い抜くことは出ないと。それにはPCR検査をもっともっとやりやすくして、ウイルス感染者、ウイルス抗体を得ている人、非感染者とを区分することによってこそ長期戦が戦えると述べていた。それにはまず院内感染を引き起こした病院をすべて公表し、これらの病院の正常化を一日も早く実現する。病院に通院する患者にはすべて検査をし、感染しているか、どうかが確認できるようにしなければならないとも述べていた。

醸楽庵だより   1397号   白井一道

2020-05-02 09:44:55 | 随筆・小説


   世界史から学ぶ 『感染症』 



 神田神保町古本屋街を通って目指す映画館「岩波ホール」へ急いでいた。ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『ルードヴィヒ・神々の黄昏』を見たい気持ちでいっぱいだった。あれはもう何年前のことだろう。1980年代の初めごろのことであるからもう40年近く前のことになる。ミュンヘン、ノイスバンシュタイン城の雪景色が今も瞼に残っている。ワーグナーの音楽、「ニーベルンゲンの指輪」が奏でられている。音楽と映像が滅びゆく貴族の無常に時間を忘れ、魅入られた。
 バイエルンを中心とする南ドイツ諸邦はプロテスタントが中心のドイツにあってカトリック勢力が強い地域であった。普仏戦争に勝利したプロイセンはフランスのカトリック勢力下にあったバイエルンを中心とする南ドイツ諸邦を併合し、1871年にドイツ帝国が成立する。
 バイエルンの中心都市ミュンヘンはビールの街でもある。世界最大のビール祭りオクトーバーフェスト2020は開催中止になったという。コロナウィリスの世界的蔓延がミュンヘンのビール祭りを中止に追い込んだ。ドイツ人がお茶代わりに普段に楽しむ飲み物がビールになったのにはそれなりの歴史がある。14世紀、ペストの大流行があった。このペストの大流行がドイツ人にビールという飲み物を授けてくれた。ペストの大流行は当時のヨーロッパの人々の命をおよそ2500万人奪ったと言われている。恐ろしい疫病である。ヨーロッパで猛威をふるったペストは、放置すると肺炎などの合併症によりほぼ全員が死亡し、たとえ治療を試みたとしても、当時の未熟な医療技術では十分な効果は得られず、致命率は30%から60%に及ぶ。イングランドやイタリアでは人口の8割が死亡し、全滅した街や村もあったという。
 不思議なことにビールを醸造し、ビールを飲んでいる村々ではペストで亡くなる人が少ないことに気付く。ビールはペスト菌を防ぐ魔法の飲み物だと当時のドイツ人たちは考えるようになっていった。当時のドイツの人々にとってビールはペストに打ち勝つ飲み物になった。こうしてドイツ人はビールを日本人にとってのお茶のような飲み物になっていった。
 また14世紀は封建反動と言われている時代である。自給自足経済社会であったと言われている中世ヨーロッパ世界で三圃式農法が普及すると余剰生産物が増え、商業が復活してくる。聖地巡礼の熱情が高まると共に地中海交易が始まり、十字軍戦争に勝利するようになると縮こまっていたヨーロッパ中世世界が膨張し、今まだ圧倒されていたイスラム世界を押し返すような形勢になった。これは同時にヨーロッパ中世世界の覇者であった荘園領主たちが貧困化していく過程でもあった。貧困化していく荘園領主ちは農民に対する徴税の強化することによって貧困化を防ごうとした。そのような時代を封建反動の時代と言われている。このような時にペストが猖獗を極めたのである。農民たちは領主による厳しい徴税のために体力が奪われていた。商業の復活はアジアからやって来る帆船に乗って感染症もまたヨーロッパにやって来た。そうした感染症の一つが鼠が媒介するというペストであった。ペストに罹患すると感染者の皮膚が内出血によって紫黒色になるため黒死病と言われた。
 中世ヨーロッパが自給自足経済から商業が復活し、貨幣経済が普及する。アジアとの交流が隆盛すると感染症としてのペストもまた全ヨーロッパ世界で流行した。その結果、数千万人の人々が命を失った。アメリカを中心にした資本主義世界が全盛を極め、新自由主義経済が全世界に大きな影響を与え、グローバル経済が中国、ロシアを含め、世界の一体化が進んだ結果、感染症もまた全世界的な規模なものになった。その一つがコロナウイルスなのかもしれない。新自由主義経済は社会インフラとしての医療を削減した。福祉は無駄遣いだと小さな政府の実現を図った。その結果、コロナウイルスとの戦いに先進資本主義国と言われる国々では苦戦を強いられているようだ。中国やロシアを含んだグローバル経済であるが故に中国,武漢で発症した新型コロナウイルスは瞬く間に全世界に蔓延することになった。
 ペストの流行がまず貧しい国々、貧しい人々の命を奪って行ったように、21世紀の世界的感染症としての新型コロナウイルスもまた貧しい国々、貧しい人々を犠牲にしていくことだろう。世界で最も豊かな国だと言われているアメリカにあってはニューヨークの貧しい地域に住む人々の命が次々と奪われているとニュースは伝えている。社会のライフラインを支える人々の命が奪われることは危険だ。

醸楽庵だより   1396号   白井一道

2020-05-01 10:30:30 | 随筆・小説



   
 徒然草第222段 竹谷乗願房



原文
  竹谷乗願房(たけだにのじようがんぼう)、東二乗院(とうにでうのいん)へ参られたりけるに、「亡者(もうじや)の追善には、何事か勝利多き」と尋ねさせ給ひければ、「光明真言(くわうみやうしんごん)・宝篋印陀羅尼(ほうけういんだらに)」と申されたりけるを、弟子ども、「いかにかくは申し給ひけるぞ。念仏に勝る事候ふまじとは、など申し給はぬぞ」と申しければ、「我が宗なれば、さこそ申さまほしかりつれども、正しく、称名を追福(ついぶく)に修して巨益(こやく)あるべしと説ける経文を見及ばねば、何に見えたるぞと重ねて問はせ給はば、いかゞ申さんと思ひて、本経の確かなるにつきて、この真言・陀羅尼をば申しつるなり」とぞ申されける。

現代語訳
 竹谷乗願房(たけだにのじようがんぼう)が東二乗院(とうにでうのいん)に参られた折、「故人の冥福を祈ることはどのようなご利益があるのか」と尋ねられたので「光明真言(くわうみやうしんごん)と宝篋印陀羅尼(ほうけういんだらに)です」とおっしゃると弟子どもが「なぜこのようにいわれたのですか。念仏に勝ることはないということなどをなぜおっしゃられなかったのですか」というと「我が宗であれば、そのように申し上げたかったけれども、阿弥陀仏の名号を唱えて故人の追善にご利益があると説明している経文が見当たらないので、どの経文にあるのかと重ねて聞かれることがあったら、どのように申したものかと思い、典拠の確かな本経である光明真言(くわうみやうしんごん)と宝篋印陀羅尼(ほうけういんだらに)を申し上げた」とおっしゃられた。

 念仏とは   白井一道
称名念仏(しょうみょうねんぶつ)とは、仏の名号、特に浄土教においては「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏(口称念仏)をいう。「称名」とは、仏・菩薩の名を称えること。また諸仏が阿弥陀仏を称讃することもさす。宗旨により、「称名念仏」を行として捉える場合と、非行として捉える場合がある。
 日本においては、「称名念仏」が平安時代末期には主流を占め、名号を称える道を歩めば、末法の濁世でも世尊の教えを理解できると説かれ、浄土教の根幹をなす。また名号の中でも「南無阿弥陀仏」と称える称名念仏が中心となる。そのような動き中で鎌倉時代中期には一遍などにより、より具体的に歓喜のこころを身振りや動作の上に表そうと「踊り念仏」が派生する。
この「称名念仏」を純粋な形で人間生存の根底にすえ生きる力を求めたのは、良忍の融通念仏であり、さらに法然や親鸞の教えであった。
『佛説無量寿経』には、阿弥陀仏に現世で救われて「南無阿弥陀仏」と念仏を称える(称名)身になれば、阿弥陀仏の浄土(極楽浄土)へ往って、阿弥陀仏の元で諸仏として生まれることができると説かれている。その故は、法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行時の名)が、48の誓願「四十八願」を建立する。その「第十八願」(=本願)に 「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法」とある。意訳 「わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます」 と誓う。そしてすべての願が成就し、阿弥陀仏に成ったと説かれていることによる。
法然は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、「南無阿弥陀仏」をひたすら称える「専修念仏」の教えを説いた。後に法然は、浄土宗の開祖と定められる。法然の説く念仏は、阿弥陀仏の本願(第十八願『念仏往生の願』)を信じて「南無阿弥陀仏」と仏の御名を称えれば、善人、悪人、老若男女、貧富の別なく、すべての衆生を救うと誓われた阿弥陀仏によって、臨終には阿弥陀仏をはじめ観音菩薩、勢至菩薩や極楽の聖衆が来迎(らいこう)し、極楽浄土へ迎え入れ、彼の地に往生することが出来ると説いた。また、この阿弥陀仏の選択本願の念仏は、臨終間際の悪人が善知識の勧めによってただの一遍称えただけでも救われると説く一方で、念仏の教えを信じる人は平生(普段から)より一生涯念仏を称え続けることが、阿弥陀仏の本願であると説く。