「第25章」は、「スターリンの戦後ヨーロッパ構想」から始まっています。
まず、次の不破さんの指摘を紹介します。
「結局、反体制派絶滅の起点となったぺトコフ裁判なるものは、1946年の『静粛』活動のなかで、モスクワから持ち込まれ、軍隊からのべェルチェフ派追放の根拠とした『軍事連合』事件のシナリオを、今度はぺトコフら農民連盟(反政府派)と強引に結びつけた、NKVD仕込みの”デッチ上げ裁判”でした。 いま見てきたディミトロフのモスクワ発の一連の発言は、そのことのあからさまな実証だといってよいでしょう」(「前衛」誌2月号頁220)
「こういう虚構の『反体制派犯罪』にもとづいて、ディミトロフは、スターリンの指示のもとに反体制派絶滅作戦を強行し、44年9月9日の祖国戦線による権力掌握からわずか3年の短期間で、事実上の共産党1党専制の政治体制への大転換をなしとげたのでした」(同前)
そして、不破さんは、「他の東ヨーロッパ諸国で」のスターリンの「統一的な戦略」を「注書き」しています。
「1947年は、東ヨーロッパの多くの国ぐにで、戦後成立した多党連合政府から共産党1党支配の体制への転換の年となりました。 そのさい、他の党による『国家的犯罪』とその告発が、反政府党や有力な非共産政党の消滅へのもっとも強力な手段となったのは、ブルガリアと同様でした。 そこ現れ方には国によって多少の違いがありましたが、手法の本質は共通しており、この時期の各国の政変の背景に、東ヨーロッパ全域の急速な制圧を狙うスターリンの統一的な戦略があったことは、明瞭でした」(同前)
続けて、不破さんは、「ルーマニア」「ハンガリー」「チュコスロヴァキア」の例を紹介しています。(同220~221頁)
「戦後ヨーロッパの政治体制についてスターリンが構想していたのは、ソ連と米英軍の占領地域におおよそ対応する形で、ヨーロッパ全域をそれぞれの『勢力圏』に分割することでした。 各国の戦後の政治体制は、開放j後に『自由な選挙』を通じて民主主義的に決定するとうことは、建前としてヤルタ協定でも確認されたことでしたが、(第19章参照)、この点で多少の意見の違いが生まれても、ポーランド問題の交渉経過などにすでにあらわれたように、3大国首脳の話し合いや暗黙の了解で解決できるはずでした」(同184頁)
しかし、この「構想の前提」が大きく狂ってきたのです」として、不破さんは、次の2点を指摘しています。
「第1に、米英ソの『大連合』は、なによりも、ヒトラー・ドイツ打倒の戦争で、ソ連の軍事力が決定的な役割を果たしている、とう事実を、なによりの基盤にしていました。 アメリカにとってもイギリスにとってもヒトラーに勝利するためには、ソ連との『大連合』は絶対に壊すことのできない絶対的な条件だったのです」
「第2に、この『大連合』は、スターリン、ルーズヴェルトとチャーチルという3首脳の個人的な信頼関係によっても、強く支えられていました。 この3者は、その根本的な立場に大きな違いがあることをたがいに十分承知しあいながらも、ヒトラーとの戦争のもっとも苦しい時期を共同して切り抜け、互いに援助しあい、戦争にともなう複雑な政治問題を解決してきた仲でした」(同186頁)
しかし、こうした前提が、「45年4月にルーズヴェルトが急死、続いて7月、ポツダム会談中にイギリス総選挙でチャーチルが敗北して、米英の首脳がトルーマン、アトリーに代わったことで、3国首脳間の”戦友”的関係にも終止符がうたれました。 戦時中の『大連合』が3つの大国の利害が裸でぶつかり合うむき出しの国家関係に変わってゆく条件が、人物構成の面からも準備されることになったのです」(同186~187頁)
「国際的条件のこの変化のもとでも、スターリンは、ソ連軍が占領した東ヨーロッパ諸国の全域にわたって、既定方針通り、この地域をソ連の『勢力圏』に組み込む”制圧作戦”を展開」(同187頁)したのでした。