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今は昔(今昔物語かい!)、倭秋津島は幾つもの国に分かれ、群雄が割拠し、互いに戦に明け暮れる日々を送っていた。
そんな戦乱の世にあって、とある国で代々奉行職として仕える家の、嫡男として生まれた武将の噺である。
国主と血族関係にある家系で、この国では代々何某と続くような、名門の家柄の嫡男ともなれば、幼少期の一時期を、今で言うところの全寮制の学校に預けられる。
恐らくは、上杉景勝や直江兼継が幼少期に学んだと伝えられる、雲洞庵のような学問所だと思われる。
そこでひと角の武将への道が説かれるといった、英才教育がなされるのだ。
その武将の名は、輝鷹(てるたか)としておこうか。
輝鷹がそこで修行に励んでいたころ、とある日の夕餉にて、大の好物である芋の煮物が供された。
輝鷹は芋を後の楽しみと、残しながら食事をしていた。
ところが食事中に師範から、使った硯をちゃんとしまっていないことを叱責され、途中で席を立つはめになった。
実は硯を丁寧に洗って、乾かしておいたのだが、うっかり忘れてしまっていたのだ。
ちゃんと硯をしまって席に戻ってみると、残しておいた芋がない。
隣の席の久親(ひさちか)が食べてしまっていた。
久親は「嫌いなようなので、食ってやったわ」と嘯いた。
久親の家は輝鷹の家より少し下級になるが、ここでは家格に関係なく、皆同等の一学徒として扱われる。
それ故遠慮がないと言うか、久親は図体が大きい割りによく機転がきき、なかなか口が達者なこともあり、輝鷹他の同門達を常日頃からやり込めては、ひとりほくそ笑んでいた。
しかし輝鷹は怒りに任せて問答無用と、あっさり久親を殴り倒してしまった。
久親は武術の方はそう得意ではないのだが、身体は輝鷹よりふた回りも大きい。
輝鷹が強過ぎるのである。
武術の稽古の折、師範をたじろがすほどに、身体能力が抜群であった。
泳ぎも巧みで、走りも実に速いが、殊に馬を乗りこなす技に優れていた。
学問の方でも秀でたところがあるのだが、久親のように要領よくはない。
輝鷹は私恨で私闘をしたとされ、師範から厳しく叱責された上、暫く水汲みの労役を、ひとりでやる罰が科せられた。
久親の方はと言うと、一切お構いなしであった。
久親の要領のよいところであろうが、教育としては疑問が残る沙汰であろう。
武士ほどの者であらば、喧嘩両成敗が常道。
いささか偏った裁定と言えよう。
だが輝鷹は久親に対して含むところはあるにしろ、それ以上にいじましく芋を残した自分に対し、情けなく腹も立てていた。
師範にもそこのところを、「武士にあるまじき、浅ましいふるまい」と、強く糾弾されたのである。
それなら盗み食いをすることに、キムタクではないが、武士としてどう一分が立つのであろうか?
さてそれから十年ほどの月日が流れた。
なんと輝鷹はまだ家に戻ることは許されず、修行三昧の日々を送っていたのである。
後から次々と入学してくるので、自ずと輝鷹は一番の年嵩となった。
もう少年ではなく、すっかり青年期に入り、髭も生えてきた。
年頃となりこの地で元服の儀を行う者も少なくはない、輝鷹も済ませていたが、それにしても在籍期間は長過ぎた。
同時期に入った者は、皆とうにここを巣立って行った。
久親などは三年足らずでここを去り、その後小姓として国主お側近くに仕えているとのこと・・・。
輝鷹は自分より後から入った者が、先に巣立って行く姿を見送りながら、ここで朽ち果てることを既に覚悟していた。
水汲みの仕事は、もう輝鷹の差配に任されていた。
輝鷹は己が修業する合間、年下の者達の面倒を見たりし、幼き者達は兄とも慕うようになっていた。
武術の稽古では、時に師範の代わりを務めたりもしていたのだ。
しかし暫くして後、輝鷹の父親が重い病に倒れたのを潮に、漸うここより出ることを許されたのだ。
筆頭師範から立派な太刀が授けられ、武将として生きて行くことがようやく許された。
ここを巣立つ折は、その学徒の名が彫られた、筆及び硯が餞に与えられる。
それと路銀として幾ばくかの銭と、師範達手作りにて心づくしの弁当を、持たせてくれるのが恒例であった。
有難くそれを頂き巣立って行く輝鷹は、身体もすっかり大きくなっており、どこからも文句のつけようもない、屈強なる美しき若武者に成長していた。
旅立ちの朝一番鶏が鳴くと、学徒だけではなく師範までもが門前に皆整列して、巣立って行く輝鷹を見送ったのだ。
これはまったく異例のことで、見送りは師範の内ひとりと学徒の代表者数名が、これまでの慣例であった。
輝鷹を見送る師範達も学徒達も、皆いつまでも手を振りながら、涙を流していたと言う。
輝鷹はそれに幾度も幾度も応え、なかなか先に進めなかったほどだ。
と言うわけで、留年しながらもなんとか、武将養成学校の卒業に漕ぎ着けた輝鷹であった。
腰には拝領の太刀を差し、もう片方には水の入った竹筒をぶら下げていた。
弁当等の荷は、袱紗に包み袈裟掛けに結わえていた。
良家の大事な嫡男ではあるが供とていない、これこそが卒業試験なのである。
しかし大概道中で、こっそり迎えがきているのが常。
付かず離れずしながら、御曹司の帰途を見守るのである。
実は輝鷹にも母方の叔父邦泰(くにやす)の差配で、迎えを遣わしてあったのだ。
だが輝鷹の脚があまりに速く、従者は不覚にも途中で見失ってしまったのだ。
従者がつけてきているなどとはつゆ知らず、父親の容態が気掛かりで、輝鷹は気が急いていた、馬さえあれば・・・。
輝鷹は体力に任せて、殆ど休みなくふた時(4時間)余りを歩いた。
すると小高い丘に差し掛かった。
上って行くと天辺には、楠木の大木が聳え立っていた。
あまりに雄雄しきその姿に、暫し見とれるほど立派な楠木であった。
輝鷹はこの楠木に負けぬほどの、立派な武将となることを誓い、手を合わせて頭を垂れた。
その時ふと楠木の根元付近に、人影があることに気づいた。
目を凝らすと、みすぼらしい身なりの老婆がひとり、切り株に腰を下ろしていた。
その痩せ細った老婆は、痛めたものか足をさすっていた。
「婆(ばば)さま如何した」と、輝鷹は優しく声を掛けた。
奉行の倅で怪しい者ではない、修業を終えて屋敷に戻るところだと。
父親が病の床に臥せって、急ぎの旅であることは、口にはしなかった。
老婆は山菜を摘みにきたのだが、うっかり躓いて転び、足を挫いてしまったとのことだった。
それは難儀なこと、聞けば住いは丘の麓にある村だと言う。
輝鷹は背負っていた荷を下し、老婆が脇に置いていた、山菜用の薄汚れた籠に入れた。
そして老婆に背を向けしゃがみこみ、「どうせ通り道じゃ、婆さまの村まで背負って行こう」と言った。
案の定老婆は、「立派なお武家様のお大切なお子に、このような不浄の者を背負わすなど、滅相もないことにございます」と固辞した。
「その足では村までの山道を歩けまい」と、輝鷹は委細構わずひょいと老婆を背負い、小汚い籠を手に提げて村へと下って行った。
「それにしても婆さまは軽いのう、ちゃんと食っておるのか」とか、「足は痛まぬか」とか、輝鷹は優しく語り掛けながら歩いた。
老婆は恐縮しているものか、それに短く返答するだけであった。
輝鷹の母方の祖母はまだ健在であり、学校からよく手紙のやり取りをしていた。
祖母の優しき面影を、頭に浮かべていたのだ。
輝鷹がまだ赤子のころ、母親は産後の肥立ちを悪うして身罷り、この祖母が母代わりとなっていた。
父輝定(てるさだ)とは元服の儀の折に会っていたが、十年を超える歳月、祖母の顔を見てはいない。
さぞ老いたであろう・・・。
丘を下りると直ぐに村が見えた。
が何故か人影がない・・・。
訝しく思いながら、もうここで結構とする老婆を遮り、輝鷹は村へと踏み入り、老婆が指す粗末な小屋へと入った。
筵を敷いた板間に下すと、老婆は何度も何度も礼を申した。
輝鷹は荷物を籠から取り、「婆さま足を大事に、それでは達者で」と去ろうとした。
すると老婆は、「このようにむさ苦しい所で何もございませぬが、せめて白湯でも飲んで、一休みしていって下され」と哀願した。
輝鷹は喉も渇いていたので一息入れることにし、太刀を鞘ごと腰から抜き取り傍らに置き、板の間に腰掛けた。
それではついでにと、弁当を使わせてもらうことにし、輝鷹は袱紗を解いた。
ほどなく老婆は木の椀に注いだ白湯だけでなく、素焼きの皿に盛った蕎麦団子も持ってきてくれた。
輝鷹は弁当の包みを手にし、お師匠様方が餞にと、まだ暗いうちからこしらえて、私に持たせてくれたのだと、晴れやかな表情で老婆に話した。
一緒に食べぬかと老婆に勧めた。
滅相もないと固辞する老婆に、「そのように痩せていてはいかん、滋養をつけねば足の治りにも障るぞ、のう婆さま」と、輝鷹は爽やかに微笑み掛けた。
すると老婆の口調が俄かに改まり、「そなたは父君に似て、春のそよ風のように、清々しいのう」と言った。
いつの間にか辺りは暗くなり、老婆だけが神々しい光りに包まれていて、輝鷹を見つめる目は、実に穏やかで慈愛に満ちていた。
「吾は楠木に宿りし精霊なり」
「屈強なる武者に馬上にて護られ、幼きそなたがこの丘を通り過ぎて行く姿を、吾は昨日のことのように覚えておる」
「そなたはもう、忘れておるようじゃがの・・」
老婆の言葉は輝鷹の心に直接語り掛け、微笑む口元は決して動いてはいなかった。
「そなたの父君が若き日に、そなたと同じようにこの丘にやってきて、同じように手を合わせた」
「あの日の父君も、それは爽やかな笑みを浮かべておったの・・」
「父君は強き慈母の心に包まれていた」
「母上さまの深き御心が、その時吾の霊に降りた」
「その日より吾は、大いなる慈母の心に目覚めたのじゃ」
「忘れるでない、そなたも常に亡くなられた母君の御霊と共にあり、母君の母上さまの慈母の心にも包まれておるのじゃ」
「月日が流れたある日、立派な武将となった父君が、馬を駆って反対の方角からやってきた」
「馬上より吾に目礼した後、父君の若き日やそなたが今日やってきた方角へと、馬を疾駆させて行った」
「その翌々日に父君は、行った方角より戻ってきた」
「今度は下馬して、手を合わせ吾に語り掛けた」
「どうか元服を果たした、不肖の我が息子の行く末を、ここよりお見守り下され」
「言われるまでもなく、吾はそなたをここより、父君の母上さまの目ともなり、ずっと見守っておったし、これからもそれは同じじゃ」
「この日がくるのを、吾は心待ちに致しておったぞ」
「じゃがそなたの父君が手を合わせ、語り掛けた楠木は、往来の邪魔と昨年無残にも切り倒され、今年新緑を着けることも花を咲かせることもなかった・・・」
「吾は傍らの楠木に移りて、辛うじて難を逃れることは出来たが、鉞が幹に食い込む痛みは、いまだ霊から抜け去らぬ」
「残された切り株を見るがよい、こちらの木よりも幹がまだ太く、そして高く聳えておったのじゃ」
「そなたの父君は病に臥し、楠木が切られたことを知らされてはいないが、最早知らせるには及ばぬ」
「父君は国の礎として見事に役目を果たした、もう静かに逝かせるがよい、このように立派な跡継ぎがおるではないか」
「そなたは日輪のように輝き、月のように静かじゃ」
「恐ろしき魔王が、この国に襲い掛からんとしておる」
「よいか父君に替わりてそなたが、この国をこれからは護って行くのじゃぞ」
「そなたに吾からの餞として、駿馬を一頭授けようぞ、父君の元へ早よう参じるのじゃ・・・」
その言葉と伴に老婆の姿はかき消え、辺りは一転明るくなった。
気づけば輝鷹は出会った時の老婆のように、楠木の切り株に腰掛けていた。
脇に太刀を置いて、手には師範手作りの弁当の包みを、持ったままの間抜けた姿だった。
暫しポカンとしていた輝鷹であったが、ここよりの眺めの見事なことに気づいた。
「この切り株となった楠木は、気の遠くなるような歳月、ここより四季の移ろいを、見つめ続けていたのであろうな・・・」
やがて輝鷹は涼やかな笑みを浮かべ、切り株から腰を上げた。
切り株の側には、粗末な式台が置かれており、その上には素焼きの皿に盛られた蕎麦団子と、水が注がれた木の椀と、籠に活けられた野の花が置かれていた。
麓の民が供えた物か・・・。
切り株の脇に落ちていた袱紗を拾い、地べたに敷きその上に弁当を置いた。
弁当の包みをふと見ると、何やら書状が添えられていた。
書状を懐に入れ、それから包みを解き、握り飯をひとつ取ると、「婆さまもひとつ食べろや」と、切り株の上に供えて手を合わせた。
輝鷹は師範達のいる方角にも合掌して一礼し、「頂戴つかまつります」と弁当を手に取り、袱紗に腰を下ろし食べ始めた。
好物の芋の煮物も添えられてあり、輝鷹は思わず苦笑いしてしまった。
芋も少し取って切り株に供えた。
弁当を食べ終えると、ご馳走さまと手を合わせてから、腰に下げていた竹筒の水を飲み、ふっと息をつく。
それから先ほどの書状を、懐から取り出し広げて見た。
果するかなそれは、筆頭師範から輝鷹に宛てた文であった。
その文の内容とは、概ね以下のような事柄であった。
長い間あなたをここに留め置いたのは、あなたの父上様、輝定殿からのご依頼であったからなのです。
「家督を継ぐに足る者に育つまで、絶対に家に帰さないで欲しい」
しかしながら実のところ、私があなたに教えられることは、もうとっくになくなっていたのです。
年々老いて行く私にとって、幼き者を導くことが、近ごろ頓に億劫となってきておりました。
輝定殿のお言葉に甘え、私はあなたを便利に使っていただけとも言えます。
輝定殿が重い病に倒れられたと聞き、私はとても慌てました、もっと早くあなたを家に帰しておけばよかったと。
あなたは家督を継がれる身なのです。
道を説くべき私が、道を外したことをしてしまった。
如何に謝罪したとても、取り返しのつかないことを致してしまった。
言い訳ではありませんが、ここより早く出ることは、決して優秀者としての証しではないのです。
輝定殿も若き日、あなたとは違う理由で、長くこの学問所に留まっておられました。
輝定殿は幼き者を、よく導いてくれた。
それ故あなたにも同じように求め、他の門徒達よりも厳しく扱ってしまいました。
あなたはしかし、それによく耐えた。
あなたはただここにいるだけで、幼き者の鑑となっていた。
私はそのことに、甘えてしまっていたのでしょう。
私の信念として、言って分からぬ者は、教えるに値しないと切り捨てます。
意見を聞いているふりだけをして、改めない者には見込みなしと、早めにここより追い払うのです。
こう申せば利発なあなたのこと、もうお分かりでしょうが、ここを早く出ることは、それ即ち落伍者の証しなのです。
それは御国主様(おんこくしゅさま)始め、この国を司る重鎮の方々には周知のこと。
しかしながら門徒の親の中には、愚かにもそのことを知らぬ輩がおり、なるべく早く自分の倅を家に戻すようにと、願い出る者も少なくはないのです。
早くここより出れば、早く出世の道が開けると信じて。
そのような輩がこの難しき世に、国の政を司る任になど就くのは、ただ本人の重荷となるだけでしょう。
あなたの父上様は立派な武将で、そのような愚かな者どもとは、一線を画するお方です。
なるほど今は戦乱が続く世、槍働き次第では、伸し上がって行くことも出来ましょう。
けれでも私は、力だけではこの乱れた世を平定することは、とても叶わないと考えております。
兵法、政いずれにおいても然り、時には知恵を巡らせることも、肝要かと心得ております。
されどその場凌ぎで小手先だけの、小賢しいことをやっていても、何も成せはしないでしょう。
そのことをここで、あなたは十分に学ばれたのです。
あなたは人の話すことに、いつも真摯な態度で耳を傾けていた。
あなたにお渡しした太刀は、私が先の御国主様よりご拝領賜った品。
年老いた私には、もう太刀など必要はありません。
予てからあなたへ太刀を引き継ぐことは、今の御国主様よりご了承賜っておりました。
これよりこの国を背負って行く定めのあなたへ、私からのせめてもの餞です。
馬術に巧みなあなたへ、馬も進呈したいところなのですが、ご承知の通りここの馬は、私と同じく既に年老いております。
ただあなたの足手まといとなるだけでしょう。
重ね重ねあなたに、お詫び申し上げる外ございません。
この上は、あなたが輝定殿の元に一刻も早く戻られること、輝定殿が無事本復されますことを、ただただお祈り申し上げるだけでございます。
輝定殿、輝鷹殿父子に、巡り会えましたことは、私の生涯の宝と致します。
馬の嘶きに、輝鷹はふと文より目を上げた。
楠木の大木の傍らから、一頭の見事な黒鹿毛の馬が現れた。
馬は輝鷹に乗れとばかりに、幾度も頭で自分の背を示した。
「婆さま、有難く頂戴致しまする」
急ぎ荷をまとめ、袱紗に収め袈裟懸けに括り、切り株の上の太刀を両手で捧げ持ち、一礼して腰に差した。
楠木の大木に感謝をこめ、手を合わせ一礼した後、馬に跨り輝鷹は屋敷へと疾駆して行った。
鞍も手綱もない裸馬ではあったが、輝鷹は意に介さず豪快に乗りこなした。
丘の麓の村ではお百姓衆が、田植えの準備に忙しく立ち働いていた。
その姿を見て、輝鷹はまた涼やかな笑みを浮かべた。
輝鷹は夕刻を前にして、屋敷に辿り着いた。
はぐれてしまっていた従者が、なんとか馬を都合つけ、屋敷に戻ってきたころには、もう日がとっぷりと暮れていたとか。
叔父も従者も輝鷹の幼きころの姿しか知らず、これほどまでに成長しているとは、思いもしなかったのである。
輝鷹は旅装束のまま、すぐさま父輝定の枕元に参じ、「ただいま戻りました」と、爽やかに帰参の挨拶をした。
病床にある輝定は、暫し息子を見つめた後、その衰弱した顔に微かな笑みを浮かべ、殆ど唇だけで「ゆっくりであったの、だがよう戻った、随分と立派になりおったものだ、後は頼んだぞ」と言った。
哀しい話だが、輝鷹が父親と言葉を交わせたのは、これが最後となった。
翌日輝定はほっとしたものか、眠るようにして身罷ったのである。
叔父邦泰が後見人となり、輝鷹は家督を継いだ。
その折邦泰より聞かされた話によると、輝鷹の父輝定が家督を継ぐにあたって、親族間で紛争が起こったようだ。
輝定が学問所に長く留め置かれたのには、そんな事情が絡んでいた。
輝鷹の父方の祖母は、息子輝定が学問所に入って間もなく、目を患い失明してしまった。
世を儚んだ祖母は、止める祖父を振り切り、髪を下し仏門に入ってしまったのだ。
祖父はその後、重鎮達の勧めもあって後妻を娶った。
この後妻がなさぬ仲の嫡男を廃して、我が腹を痛めた子に家督を継がせようとしたのだ。
輝定には盲の血が流れていると・・・。
後妻の父親は、この国の重臣のひとりであったことから、思いの外事態は拗れ、哀れ輝定は廃嫡されそうになっていた。
だが重鎮達が割って入り、一気に形勢は逆転した。
国主より輝定こそが○○家嫡子なりとの下知が下り、かの重臣は国内を乱した廉で隠居させられた。
後妻は所業不届きと、その子と共に出家させられたのだ。
祖父も優れた武将ではあったが、いささか病がちとなり、それをよいことに後妻が暴走したようだ。
後に家督を継いだ輝定は、屋敷内に庵を設け、晴れて実母を迎え入れた。
が、哀しくも数年後母親は身罷り、庵は西方に旅立ちし人々の菩提を弔う、仏堂となった。
そんなこともあり、輝定は妻が身罷っても、後添いを入れはしなかった。
それと長く学問所に留まったことで、健やかに育ち、後の己の肥しともなったことから、息子の輝鷹も長く預けたのだった。
家督を継いだ輝鷹は忽ち頭角を現し、初陣では勇猛で名の通る敵将を、激闘の末討ち果たす武勲を挙げた。
その後武門にも政にも秀でた武将へと成長し、国にとって欠くことの出来ない、重臣ともなって行った。
国主より「父上殿はこの国随一の武者であったが、されどそれをも凌ぐ器量である」と、手厚く扱われたのだった。
かの武将養成学校は輝鷹が去って間もなく、筆頭師範が隠居し、後継者もおらず閉校となった。
しかし後に輝鷹他の重臣らの尽力により、再び開校される運びとなった。
さっそく輝鷹の孫が、そこで学ぶこととなったのである。
この学校は今も名門の進学校として、全寮制ではなくなったものの、その歴史が脈々と続いていると聞く。ところで輝鷹の同期同門であった久親は、一体どうなったのであろうか?
久親の父家久(いえひさ)は、なかなか交渉事に優れた才覚を持っていた。
輝鷹の父輝定が推し進めていた、国内での河川や街道等の土木改修工事における、現場監督のような任に就いていた。
輝定が体調を崩し、別の任に就いたため、家久が後の仕事を引き継いだ。
そんな家久が、国内を視察巡回していた、ある日のこと。
とある丘に上って見晴らしもよく、ここで一息つこうとしたが、配下の者がうっかり床几を持ってきていなかった。
腰掛ける所もなく、家久は大層怒ったようだ。
配下の者を厳しく叱責した上、腹立ち紛れに目に付いた楠木の大木を、往来の邪魔と切り倒すように命じた。
そして楠木の切り株に腰を下ろし、見事な景色を肴に、揚々と酒を飲んだのである。
輝鷹のように地べたに何ぞ敷いて、そこにでも落ち着けばよかろうものだが、それでは配下を前にして示しがつかなかったのであろう。
されど家久の中に、驕り高ぶりがなかったとは言えまい。その夜、家久は突然足の激痛に襲われ、そして三日三晩のた打ち苦しんだ挙句息絶えた。
しかし家の者達は他聞をはばかり、ことを内々に収拾し、家久は急病で死んだことにした。
楠木を切り倒した者たちも、同じように頓死したのだが、闇に葬り去ってしまった。
久親は父家久の巧みな根回しにて、小姓として国主お側に仕えていたのだが、これで家督を継ぐことになった。
しかし家督を継いだ久親は、あろうことか合戦の最中、ひとり逃げ去ってしまったのだ。
小姓時代に既に初陣を済ませており、その折手柄も立てていた。
輝鷹の場合とは違い、これは配下の者が立てた手柄を、父家久の命で久親の手柄としたものであった。
それは初陣祝いの儀式として、よくあることなので左程問題ではないが、その先の奮闘次第となろう。
その後久親は、幾度かの合戦に加わっていたものの、大概小競り合い程度で場を凌いでいた。
久親は図体が大きいので、ただ馬上で構えているだけで、敵兵が襲い掛かるのを躊躇したようだ。
ところがかの折の合戦はあまりに激しく、悠長に構えていることなど、到底許されはしなかった。
敵味方双方に、大勢の死傷者を出したのだ。
その凄惨な様が恐ろしくて、久親にとっては耐え難かった。
それに久親の図体が大きいことが、逆に敵兵の的となり、雲霞のごとく押し寄せてきたのだ。
久親はもう必死で逃げ惑い、ついにはそのまま戦そのものから、ひとり逃避してしまったのであった。
大柄だけに目立つ、久親のこの無様な姿を、幾人もの味方重臣達が目にしていた。
主が戦に恐れをなし出奔したとあっては言語道断、久親の家は当然廃絶となった。
<a 当の久親はその後商人となり、持って生まれた手腕を大いに発揮した。
がしかしである、取り分を誤魔化していると仲間から疑われ、その挙句には嬲殺しにされたとのことである。
輝鷹の噺に戻そう。
輝鷹が父親の奉行職を、引き継いで間もなくのことである。
家久が命じて切り倒させた楠木が、櫓の一部として組み込まれているのを知り、急ぎ取り外させた。
どうして知ったかって?精霊のお婆さまが、夢枕に立って告げたのである。
取り外させた楠木の木片で、腕のよい仏師に観音像を彫らせ、屋敷内の仏堂に収めた。
残る木材でこれまた凄腕の宮大工に、かの楠木の大木が聳え立つ、丘の天辺に祠を建てさせた。
国主から許可を得て、私費を投じて楠木の精霊を祀る、大楠神社として建立したのである。
その守を丘の麓の村人に委ね、必要な費えは輝鷹の家の負担とした。
当然ながら輝鷹も、折に触れてはこの神社に詣でるようになった。
長命だった祖母が身罷ってからは、楠木の大木に「お婆さま・・・」と、親愛の情をこめ語り掛ける時間が長くなっていた。
楠木の大木は「お婆さまの楠木」と、麓の村では親しまれ、幾久しく大切にされたそうな。
輝鷹は楠木の精霊より授かった黒鹿毛の馬を、「疾風(はやて)」と命名した。
名の通り疾風のように、どの馬よりも速く駆ける馬であった。
輝鷹は単騎にて疾風のごとく敵陣深く突き進み、果敢に戦い幾人もの敵将をなぎ倒し、疾風のごとく去って行った。
敵方の馬では疾風の動きに、とてもついてはいけなかった。
速い動きで敵陣を攪乱翻弄し、忽ちその陣形を崩してしまうのだ。
そこへ味方の兵が、一斉に襲い掛かる。
或いは疾風に追い縋らんとする敵兵を、自陣に誘いこみ一網打尽としたのだ。
先鋒隊を常に率いるようになってから、輝鷹と黒鹿毛馬の疾風は、勢い他国の名立たる武将達に列して、その名を馳せる存在となって行った。
ところが長く続いた戦乱の世が、ようやく平らかに治まろうとするころ、黒鹿毛馬の疾風は、あの丘へと勝手に帰って行ってしまった。
疾風を見掛けて後を追った、麓の村人の話によると、、楠木の前でふっと消えてしまったそうだ。
楠木の精霊の加護を受け、勇猛に戦ってきた輝鷹であったが、その時戦乱の世の終焉を悟った。
その昔、坂東の地に共和国を打ち建てんとした、かの将門に強く傾倒していた輝鷹だが、討ち死にすることもなく、喜寿まで生き抜いたと言う。
この国は信長、秀吉、家康と、目まぐるしく変わる世を巧みに渡った。
長い徳川政権下にあっても根強く生き残り、明治維新では官軍方として貢献したのだそうだ。
輝鷹の家も、今尚連綿と続いていると聞く。
木戸孝允等を輩出した、毛利家からの流れを汲む、和田家ではないかとの説もあるが、伝承噺のこととて定かではない。
かの楠木の神社は、今でも残っているらしい。
丘の麓の村の長が、世襲にて代々神職を務めていたので、家名を大楠としたとかしないとか・・・?
楠木の大木も健在で、今では「老女(おうな)の楠木」と呼ばれているそうな・・・。了
注記、歴史的に著名な人物以外は、総て筆者が思いつきでつけた名前である{。
実は楠木の精霊については、この噺とは別の解釈もあるのだが、またの機会に譲るとする。