長尾景虎の戯言

読んだり聞いたりして面白かった物語やお噺等についてや感じたこと等を、その折々の気分で口調を変えて語っています。

【朝日神明社】

2010-10-30 12:49:53 | 日記・エッセイ・コラム

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此花区には朝日という所があるのだが、そこではなく、春日出中という所に朝日神明社は遷宮されている。
明治四十年に、浪速三神明(朝日・日中・夕日)の一つとして有名であった「朝日神明宮」と、 此花区川岸町に在った「皇太神社」を合祀したものである。
川岸町はかつて南新田といわれたが、伊勢神宮の御分霊を乞い受け神祠を造って、新田の鎮守の社として奉斎していた。
この川岸町一帯が工場地として発展した為、昭和六年現在地に遷宮された。
その後戦火によって焼失したのを再建され現在に至る。
そんなことが由緒書きにあるが、社殿の老朽化により御造営が予定されている。
御祭神は天照皇大神、倭比賣命(倭姫命)、春日大神、菅原道眞公。
倭姫命(やまとひめのみこと)は、伊勢に皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされている。
伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女となり、これが制度化されて後の斎宮(斎王の御所)となったそうだ。
斎王とは巫女として奉仕した、未婚の内親王または女王(親王の娘)のことである。
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御神燈にある左三巴紋は八幡宮や八坂神社に多いと聞くが、ここでは伊勢神宮との関りを示しているように思える。
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春日大神は、春日出の地名の由来(奈良の春日から生駒の山を越えて、牡鹿がこの地やってきた)にもなっているのだが、これも戦火で焼失した。
御社再建にあたり、本社である春日大社の造替に伴い、その旧御社を下げ受けて、ここに移しているのだそうだ。
また初日稲荷神社も、朝日神明宮が元あった場所付近(中央区神埼町)に建っていたのが、戦火により焼失した為、ここに再建されている。
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戦火で焼失した神社仏閣を、近隣の住民等の尽力で再興する話は、日本中いたるところにある。
信仰の力というか、象徴を大切にする精神は、やはり根強いものである。
さて、此花警察署から向って、北港通を挟んでほぼ南に位置する筋がふたつある。
東側の松井クリニック横の筋を入れば、春日出小学校を過ぎて、春日出の市営住宅手前の路地を右手→に入ると、すぐに正面鳥居がある。
西側の春日出商店街の真正面にある筋に入ると、そこは朝日ゆめ咲ストリートという、店が点在する商店会の筋になる。
この筋を歩いても、春日出の市営住宅手前の路地を左手←へと入れば、結局朝日神明社の正面鳥居の前にまで辿り着く。
この辺りは馴染みの場所というわけでもないのだが、知人が春日出北に住んでいるので少しは知っている。
春日出北には、区役所と警察署と郵便局がある。
千鳥橋駅は四貫島という所にあり、この駅の北側には正蓮寺川に架かる千鳥橋がある。
正蓮寺川は陸地化工事で、もう川ではなくなっているのだが・・・。
駅北東に位置するのが朝日である。
駅南西へと歩いていけば、四貫島本通り・中央通・グッディー此花の各商店街があり、そこそこ界隈は賑っている。

グッディー此花を南に抜けると梅香住吉神社がある。知人の実家は四貫島にあると聞く。
四貫島と春日出北とは、国道43号線で隔てられている。
余談になるが、この知人は梅香という所にある梅香幼稚園の出身で、朝日神明社近くの春日出小学校の卒業生ではなく、四貫島小学校の卒業生にて、梅香中学校の卒業生である。
ややこしいのだが、梅香中学といっても梅香にはなく春日出北にあり、知人宅はこの中学の近くにある。
子供の頃の初詣とかは、梅香の住吉神社だったのだが、今はなにかと朝日神明社に参るようになったとか話していた。
安産祈願、お宮参り、七五三、受験祈願、家内安全、商売繁盛、厄災払いといったところであろうか・・・。
元々住吉神社は千鳥橋の側にあったそうだが、大正年間に市電敷設のため今の場所に遷宮されたそうで、四貫島住吉神社とも呼ばれているらしい。
此花の花は梅だと聞くが、梅香という地名はそこから由来しているのだろうか?はたまた天神様となにか関連があるであろうか?
四貫島の住吉さんがどうなのかはよく知らないのだが、前記の通り朝日神明社には、御祭神として菅原道真公も祀られている。
此花に遷宮される以前、中央区神埼町辺りにあった頃の噺、朝日神明社にはかの源義経が、平家追討の戦勝祈願に立ち寄ったそうだ。
「一の谷」の合戦後軍議の席上で、梶原景時が〈船の舳に、艫に向って櫓を立て、逆櫓にすることで、船を前後自在に動けるようにしては〉と言上した。
形勢が不利なときは舳の方の櫓で押戻し、有利なときは本来の艫の櫓をもって押し出してゆくと、このような作戦を義経に進言したのである。
だが義経は〈軍が逃支度していては、敵に勝てはしない〉と退けた。
景時は〈前後をかえりみない捨て身の戦は、若気の至りである〉と苦言を呈した。
義経はこれに憤慨、〈自分を猪かのようにいうは心外、軍は家を出た日から敵と組んで死ぬ覚悟が必要。命を惜んで逃げることは考えられない〉と一蹴し、景時を軍議より引っ立てさせた。
神明宮に祈願をこめているのて、戦勝疑いなしと義経は軍の士気を大いに高めた。
これが「逆櫓の論」である。
この故事により、朝日神明社は別名逆櫓社とも呼ばれている。
「逆櫓の論」があったとされるのが、福島区の福島2丁目辺りで、「逆櫓の松址」の碑が建っている。
大きな松の下で「逆櫓の論」が交わされたとされるが、その松はもう現存しない。
この後渡辺津から義経は、僅か5艘150騎で暴風雨をついて出航し、屋島(香川県高松市)を急襲する。
世に言うところの「屋島の戦い」である。
渡辺津は旧淀川にかかる、天満橋から天神橋の間くらいの位置にあったとされる。
空堀の話で触れた熊野古道は、この渡辺津が起点だったわけである。
ところで、先程の此花警察署前の筋、いずれもそのまま南東へと歩を進めれば、JRゆめ咲線(旧桜島線)の線路にいき当たる。
大阪湾の方に西へと向かっていけば、かのUSJがあるというわけなのだ。
朝日神明社は、阪神なんば線の千鳥橋駅と、JRゆめ咲線の安治川口駅との、ほぼ中間に位置しているともいえる。
ゆめ咲線の線路沿いを、春日出の市営住宅の前から、西の方角に少し歩いていくと、以前大和田街道行の折、西淀川区の神埼川堤防沿いとか左門殿川堤防沿い界隈から、南西方向にちらちらと垣間見えていた煙突によく似た煙突とご対面。
大和田街道行の直後、此花区の住民である知人に訊いてみたら、もしかしたら住友化学の煙突ではといっていた
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【空堀通り】

2010-10-30 12:05:49 | 日記・エッセイ・コラム

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谷町四丁目といえば馴染みの場所なのだが、月曜日の午後からはもっと南の、昨今はあまり訪れる機会のない、谷町六丁目にまで出向くことになった。
谷四から徒歩でも10分とかからない所なのに、何故か長堀通を越えて南の方には、足を運ばなくなっていた。
というわけで、大して時間のかかる用事でもなく、せっかくの機会だと、空堀商店街界隈をちょと散策してみたのだ。
なんでも今週末とかには、からほりまちアートというイベントが開催されるそうで、ジャンルを問わない様々なアーティストの作品が、町のいたるところに出現するのだそうだ。
戦火から免れているので、古い家並が残り、なかなか浪花情緒豊かな佇まいなのだ。
空堀の由縁である堀の石垣跡もあったり、長屋の二階には防火用であろうか、うだつが見受けられたりもした。
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懐かしき景色とでもいうべきか、狭い路地が枝のようにあったり、祠や地蔵や井戸が点在していたりで、ごく幼い頃の原風景がそのまま甦ってきたような、なんだか不思議な感覚に陥った。
上町台地に商店街があるので、あちらこちらと坂があって、歩き難いはしんどいはだが、これが妙に楽しかったりもした。
ワンコでも連れてお散歩すれば、起伏に富んでさぞ面白いことだろう。
空堀の商店街は東から「空堀どーり商店街」、そして谷町筋を西に渡って、「はいからほり」「空堀商店街」と続く。
谷町筋を東へと「空堀どーり商店街」に入り、そのアーケードが途切れてすぐ、北へ折れる筋角に熊野街道の石碑がある。
ここから北方向に300mほど歩き、長堀通を越えてすぐ、今度は西に向かい谷町筋を渡ってずっと歩いていくと、熊野街道縁の榎木大明神へと上がる石段がある。
谷町筋西側の空堀商店街からなら、松屋町寄りの路地を北に上がっていけば、この石段に辿り着く。
石段の途中には、直木賞の直木三十五の文学碑もある。
後で聞いた話によると、ここ安堂寺町に直木三十五の生家があったそうである。
それとこれも後で聞いたのだが、榎木大明神といっても御神木は榎木ではなく、樹齢が六百五十年に及ぶ槐木だそうで、このことは結構有名な話らしい。
そこから更に北へと歩を進めれば、この辺りが坂口王子跡ではと伝わる南大江公園があり、狸坂大明神の祠が祀られている。
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この近くに狸坂という道があったのだそうだ。
狸坂(たぬきざか)とは、なかなかメルヘンチックな呼び名である。
坂口王子といっても帝の御子ではなさそうで、どうやら王子とは熊野権現の御子神を指しているようだ。
修験者達が熊野への道中に、熊野権現の分身を祀る社を次々と設けていき、その数が九十にも及び九十九王子といわれた。
坂口王子はその二番目の王子で、坂口とは文字通り、坂の口に建っていたからなのだろう。
土佐堀通を東へと向かい、天神橋の交差点を過ぎ、天満橋交差点より少し手前で、北に折れると八軒家浜船着場の方に入っていくが、南に折れると御祓筋(熊野街道)へと入っていくのだ。
確か南への筋角には、熊野街道の顕彰碑が建っていたように思う。
北大江公園、中大江公園、そして南大江公園と、大江の坂を南へとえっちら歩いてくるわけだ。
一説によると、この大江坂から大阪となったのではとのことだが、これは定かではない。
熊野街道のその先は、榎木大明神の石段を下りて長堀通沿いを歩くのではなく、南大江公園から東へと進んでから、前述の商店街の傍らにある石碑へと、南に下ってくるのが道筋らしい。
だが松屋町筋が熊野街道ではないかとの説もあり、これまた古道のこととて、正確な道筋なのかは私にはよく判らない。
歴史というものは、諸説入り乱れるのが常、私はそれを無責任に面白がっている輩なのである。
これまでこうだと信じられていた史実が、後に覆されることも少なくはない。
私は歴史の闇に葬り去られてしまった事柄を、発掘しようとする歴史家には賞賛を送る。
権力が史実を歪めて伝えることも多く、都合の悪いことは消されていくからだ。
但し、想像創作の域を脱しない説話は、小説の中の世界だけに留めておいて欲しいが・・・。
百聞は一見にしかずである、機会があれば熊野街道を巡り歩くのも、また一興であろうか{%わくわく。
南大江公園にはその昔、朝日神明宮があったそうで、顕彰碑が建てられている。
今その朝日神明社は此花区に現存する。
そんなことをしていると、無情にも携帯電話が鳴り、急用を告げた。
商店街で回転焼を買って、公園ベンチに腰かけて食べようかと思っていたのに。
なんか食わんと治まらんのか・・・。
私は大急ぎで辺りをデジ写しまくり、とっとと松屋町駅から地下鉄に乗って、某所へと急行したのであった・・・。

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【とある武将の噺】

2010-10-29 12:42:13 | 日記・エッセイ・コラム

Photo

http://www.ne.jp/asahi/komori/ugoku/

今は昔(今昔物語かい!)、倭秋津島は幾つもの国に分かれ、群雄が割拠し、互いに戦に明け暮れる日々を送っていた。
そんな戦乱の世にあって、とある国で代々奉行職として仕える家の、嫡男として生まれた武将の噺である。
国主と血族関係にある家系で、この国では代々何某と続くような、名門の家柄の嫡男ともなれば、幼少期の一時期を、今で言うところの全寮制の学校に預けられる。
恐らくは、上杉景勝や直江兼継が幼少期に学んだと伝えられる、雲洞庵のような学問所だと思われる。
そこでひと角の武将への道が説かれるといった、英才教育がなされるのだ。
その武将の名は、輝鷹(てるたか)としておこうか。
輝鷹がそこで修行に励んでいたころ、とある日の夕餉にて、大の好物である芋の煮物が供された。
輝鷹は芋を後の楽しみと、残しながら食事をしていた。
ところが食事中に師範から、使った硯をちゃんとしまっていないことを叱責され、途中で席を立つはめになった。
実は硯を丁寧に洗って、乾かしておいたのだが、うっかり忘れてしまっていたのだ。
ちゃんと硯をしまって席に戻ってみると、残しておいた芋がない。
隣の席の久親(ひさちか)が食べてしまっていた。
久親は「嫌いなようなので、食ってやったわ」と嘯いた。
久親の家は輝鷹の家より少し下級になるが、ここでは家格に関係なく、皆同等の一学徒として扱われる。
それ故遠慮がないと言うか、久親は図体が大きい割りによく機転がきき、なかなか口が達者なこともあり、輝鷹他の同門達を常日頃からやり込めては、ひとりほくそ笑んでいた。
しかし輝鷹は怒りに任せて問答無用と、あっさり久親を殴り倒してしまった。
久親は武術の方はそう得意ではないのだが、身体は輝鷹よりふた回りも大きい。
輝鷹が強過ぎるのである。
武術の稽古の折、師範をたじろがすほどに、身体能力が抜群であった。
泳ぎも巧みで、走りも実に速いが、殊に馬を乗りこなす技に優れていた。
学問の方でも秀でたところがあるのだが、久親のように要領よくはない。
輝鷹は私恨で私闘をしたとされ、師範から厳しく叱責された上、暫く水汲みの労役を、ひとりでやる罰が科せられた。
久親の方はと言うと、一切お構いなしであった。
久親の要領のよいところであろうが、教育としては疑問が残る沙汰であろう。
武士ほどの者であらば、喧嘩両成敗が常道。
いささか偏った裁定と言えよう。
だが輝鷹は久親に対して含むところはあるにしろ、それ以上にいじましく芋を残した自分に対し、情けなく腹も立てていた。
師範にもそこのところを、「武士にあるまじき、浅ましいふるまい」と、強く糾弾されたのである。
それなら盗み食いをすることに、キムタクではないが、武士としてどう一分が立つのであろうか?
さてそれから十年ほどの月日が流れた。
なんと輝鷹はまだ家に戻ることは許されず、修行三昧の日々を送っていたのである。
後から次々と入学してくるので、自ずと輝鷹は一番の年嵩となった。
もう少年ではなく、すっかり青年期に入り、髭も生えてきた。
年頃となりこの地で元服の儀を行う者も少なくはない、輝鷹も済ませていたが、それにしても在籍期間は長過ぎた。
同時期に入った者は、皆とうにここを巣立って行った。
久親などは三年足らずでここを去り、その後小姓として国主お側近くに仕えているとのこと・・・。
輝鷹は自分より後から入った者が、先に巣立って行く姿を見送りながら、ここで朽ち果てることを既に覚悟していた。
水汲みの仕事は、もう輝鷹の差配に任されていた。
輝鷹は己が修業する合間、年下の者達の面倒を見たりし、幼き者達は兄とも慕うようになっていた。
武術の稽古では、時に師範の代わりを務めたりもしていたのだ。
しかし暫くして後、輝鷹の父親が重い病に倒れたのを潮に、漸うここより出ることを許されたのだ。
筆頭師範から立派な太刀が授けられ、武将として生きて行くことがようやく許された。
ここを巣立つ折は、その学徒の名が彫られた、筆及び硯が餞に与えられる。
それと路銀として幾ばくかの銭と、師範達手作りにて心づくしの弁当を、持たせてくれるのが恒例であった。
有難くそれを頂き巣立って行く輝鷹は、身体もすっかり大きくなっており、どこからも文句のつけようもない、屈強なる美しき若武者に成長していた。
旅立ちの朝一番鶏が鳴くと、学徒だけではなく師範までもが門前に皆整列して、巣立って行く輝鷹を見送ったのだ。
これはまったく異例のことで、見送りは師範の内ひとりと学徒の代表者数名が、これまでの慣例であった。
輝鷹を見送る師範達も学徒達も、皆いつまでも手を振りながら、涙を流していたと言う。
輝鷹はそれに幾度も幾度も応え、なかなか先に進めなかったほどだ。
と言うわけで、留年しながらもなんとか、武将養成学校の卒業に漕ぎ着けた輝鷹であった。
腰には拝領の太刀を差し、もう片方には水の入った竹筒をぶら下げていた。
弁当等の荷は、袱紗に包み袈裟掛けに結わえていた。
良家の大事な嫡男ではあるが供とていない、これこそが卒業試験なのである。
しかし大概道中で、こっそり迎えがきているのが常。
付かず離れずしながら、御曹司の帰途を見守るのである。
実は輝鷹にも母方の叔父邦泰(くにやす)の差配で、迎えを遣わしてあったのだ。
だが輝鷹の脚があまりに速く、従者は不覚にも途中で見失ってしまったのだ。
従者がつけてきているなどとはつゆ知らず、父親の容態が気掛かりで、輝鷹は気が急いていた、馬さえあれば・・・。
輝鷹は体力に任せて、殆ど休みなくふた時(4時間)余りを歩いた。
すると小高い丘に差し掛かった。
上って行くと天辺には、楠木の大木が聳え立っていた。
あまりに雄雄しきその姿に、暫し見とれるほど立派な楠木であった。
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輝鷹はこの楠木に負けぬほどの、立派な武将となることを誓い、手を合わせて頭を垂れた。
その時ふと楠木の根元付近に、人影があることに気づいた。
目を凝らすと、みすぼらしい身なりの老婆がひとり、切り株に腰を下ろしていた。
その痩せ細った老婆は、痛めたものか足をさすっていた。
「婆(ばば)さま如何した」と、輝鷹は優しく声を掛けた。
奉行の倅で怪しい者ではない、修業を終えて屋敷に戻るところだと。
父親が病の床に臥せって、急ぎの旅であることは、口にはしなかった。
老婆は山菜を摘みにきたのだが、うっかり躓いて転び、足を挫いてしまったとのことだった。
それは難儀なこと、聞けば住いは丘の麓にある村だと言う。
輝鷹は背負っていた荷を下し、老婆が脇に置いていた、山菜用の薄汚れた籠に入れた。
そして老婆に背を向けしゃがみこみ、「どうせ通り道じゃ、婆さまの村まで背負って行こう」と言った。
案の定老婆は、「立派なお武家様のお大切なお子に、このような不浄の者を背負わすなど、滅相もないことにございます」と固辞した。
「その足では村までの山道を歩けまい」と、輝鷹は委細構わずひょいと老婆を背負い、小汚い籠を手に提げて村へと下って行った。
「それにしても婆さまは軽いのう、ちゃんと食っておるのか」とか、「足は痛まぬか」とか、輝鷹は優しく語り掛けながら歩いた。
老婆は恐縮しているものか、それに短く返答するだけであった。
輝鷹の母方の祖母はまだ健在であり、学校からよく手紙のやり取りをしていた。
祖母の優しき面影を、頭に浮かべていたのだ。
輝鷹がまだ赤子のころ、母親は産後の肥立ちを悪うして身罷り、この祖母が母代わりとなっていた。
父輝定(てるさだ)とは元服の儀の折に会っていたが、十年を超える歳月、祖母の顔を見てはいない。
さぞ老いたであろう・・・。
丘を下りると直ぐに村が見えた。
が何故か人影がない・・・。
訝しく思いながら、もうここで結構とする老婆を遮り、輝鷹は村へと踏み入り、老婆が指す粗末な小屋へと入った。
筵を敷いた板間に下すと、老婆は何度も何度も礼を申した。
輝鷹は荷物を籠から取り、「婆さま足を大事に、それでは達者で」と去ろうとした。
すると老婆は、「このようにむさ苦しい所で何もございませぬが、せめて白湯でも飲んで、一休みしていって下され」と哀願した。
輝鷹は喉も渇いていたので一息入れることにし、太刀を鞘ごと腰から抜き取り傍らに置き、板の間に腰掛けた。
それではついでにと、弁当を使わせてもらうことにし、輝鷹は袱紗を解いた。
ほどなく老婆は木の椀に注いだ白湯だけでなく、素焼きの皿に盛った蕎麦団子も持ってきてくれた。
輝鷹は弁当の包みを手にし、お師匠様方が餞にと、まだ暗いうちからこしらえて、私に持たせてくれたのだと、晴れやかな表情で老婆に話した。
一緒に食べぬかと老婆に勧めた。
滅相もないと固辞する老婆に、「そのように痩せていてはいかん、滋養をつけねば足の治りにも障るぞ、のう婆さま」と、輝鷹は爽やかに微笑み掛けた。

すると老婆の口調が俄かに改まり、「そなたは父君に似て、春のそよ風のように、清々しいのう」と言った。
いつの間にか辺りは暗くなり、老婆だけが神々しい光りに包まれていて、輝鷹を見つめる目は、実に穏やかで慈愛に満ちていた。
「吾は楠木に宿りし精霊なり」
「屈強なる武者に馬上にて護られ、幼きそなたがこの丘を通り過ぎて行く姿を、吾は昨日のことのように覚えておる」
「そなたはもう、忘れておるようじゃがの・・」
老婆の言葉は輝鷹の心に直接語り掛け、微笑む口元は決して動いてはいなかった。
「そなたの父君が若き日に、そなたと同じようにこの丘にやってきて、同じように手を合わせた」
「あの日の父君も、それは爽やかな笑みを浮かべておったの・・」
「父君は強き慈母の心に包まれていた」
「母上さまの深き御心が、その時吾の霊に降りた」
「その日より吾は、大いなる慈母の心に目覚めたのじゃ」
「忘れるでない、そなたも常に亡くなられた母君の御霊と共にあり、母君の母上さまの慈母の心にも包まれておるのじゃ」
「月日が流れたある日、立派な武将となった父君が、馬を駆って反対の方角からやってきた」
「馬上より吾に目礼した後、父君の若き日やそなたが今日やってきた方角へと、馬を疾駆させて行った」
「その翌々日に父君は、行った方角より戻ってきた」
「今度は下馬して、手を合わせ吾に語り掛けた」
「どうか元服を果たした、不肖の我が息子の行く末を、ここよりお見守り下され」
「言われるまでもなく、吾はそなたをここより、父君の母上さまの目ともなり、ずっと見守っておったし、これからもそれは同じじゃ」
「この日がくるのを、吾は心待ちに致しておったぞ」
「じゃがそなたの父君が手を合わせ、語り掛けた楠木は、往来の邪魔と昨年無残にも切り倒され、今年新緑を着けることも花を咲かせることもなかった・・・」
「吾は傍らの楠木に移りて、辛うじて難を逃れることは出来たが、鉞が幹に食い込む痛みは、いまだ霊から抜け去らぬ」
「残された切り株を見るがよい、こちらの木よりも幹がまだ太く、そして高く聳えておったのじゃ」
「そなたの父君は病に臥し、楠木が切られたことを知らされてはいないが、最早知らせるには及ばぬ」
「父君は国の礎として見事に役目を果たした、もう静かに逝かせるがよい、このように立派な跡継ぎがおるではないか」
「そなたは日輪のように輝き、月のように静かじゃ」
「恐ろしき魔王が、この国に襲い掛からんとしておる」
「よいか父君に替わりてそなたが、この国をこれからは護って行くのじゃぞ」
「そなたに吾からの餞として、駿馬を一頭授けようぞ、父君の元へ早よう参じるのじゃ・・・」
その言葉と伴に老婆の姿はかき消え、辺りは一転明るくなった。

気づけば輝鷹は出会った時の老婆のように、楠木の切り株に腰掛けていた。
脇に太刀を置いて、手には師範手作りの弁当の包みを、持ったままの間抜けた姿だった。
暫しポカンとしていた輝鷹であったが、ここよりの眺めの見事なことに気づいた。
「この切り株となった楠木は、気の遠くなるような歳月、ここより四季の移ろいを、見つめ続けていたのであろうな・・・」
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やがて輝鷹は涼やかな笑みを浮かべ、切り株から腰を上げた。
切り株の側には、粗末な式台が置かれており、その上には素焼きの皿に盛られた蕎麦団子と、水が注がれた木の椀と、籠に活けられた野の花が置かれていた。
麓の民が供えた物か・・・。
切り株の脇に落ちていた袱紗を拾い、地べたに敷きその上に弁当を置いた。
弁当の包みをふと見ると、何やら書状が添えられていた。
書状を懐に入れ、それから包みを解き、握り飯をひとつ取ると、「婆さまもひとつ食べろや」と、切り株の上に供えて手を合わせた。
輝鷹は師範達のいる方角にも合掌して一礼し、「頂戴つかまつります」と弁当を手に取り、袱紗に腰を下ろし食べ始めた。
好物の芋の煮物も添えられてあり、輝鷹は思わず苦笑いしてしまった。
芋も少し取って切り株に供えた。
弁当を食べ終えると、ご馳走さまと手を合わせてから、腰に下げていた竹筒の水を飲み、ふっと息をつく。
それから先ほどの書状を、懐から取り出し広げて見た。
果するかなそれは、筆頭師範から輝鷹に宛てた文であった。
その文の内容とは、概ね以下のような事柄であった。
長い間あなたをここに留め置いたのは、あなたの父上様、輝定殿からのご依頼であったからなのです。
「家督を継ぐに足る者に育つまで、絶対に家に帰さないで欲しい」
しかしながら実のところ、私があなたに教えられることは、もうとっくになくなっていたのです。
年々老いて行く私にとって、幼き者を導くことが、近ごろ頓に億劫となってきておりました。
輝定殿のお言葉に甘え、私はあなたを便利に使っていただけとも言えます。
輝定殿が重い病に倒れられたと聞き、私はとても慌てました、もっと早くあなたを家に帰しておけばよかったと。
あなたは家督を継がれる身なのです。
道を説くべき私が、道を外したことをしてしまった。
如何に謝罪したとても、取り返しのつかないことを致してしまった。
言い訳ではありませんが、ここより早く出ることは、決して優秀者としての証しではないのです。
輝定殿も若き日、あなたとは違う理由で、長くこの学問所に留まっておられました。
輝定殿は幼き者を、よく導いてくれた。
それ故あなたにも同じように求め、他の門徒達よりも厳しく扱ってしまいました。
あなたはしかし、それによく耐えた。
あなたはただここにいるだけで、幼き者の鑑となっていた。
私はそのことに、甘えてしまっていたのでしょう。
私の信念として、言って分からぬ者は、教えるに値しないと切り捨てます。
意見を聞いているふりだけをして、改めない者には見込みなしと、早めにここより追い払うのです。
こう申せば利発なあなたのこと、もうお分かりでしょうが、ここを早く出ることは、それ即ち落伍者の証しなのです。
それは御国主様(おんこくしゅさま)始め、この国を司る重鎮の方々には周知のこと。
しかしながら門徒の親の中には、愚かにもそのことを知らぬ輩がおり、なるべく早く自分の倅を家に戻すようにと、願い出る者も少なくはないのです。
早くここより出れば、早く出世の道が開けると信じて。
そのような輩がこの難しき世に、国の政を司る任になど就くのは、ただ本人の重荷となるだけでしょう。
あなたの父上様は立派な武将で、そのような愚かな者どもとは、一線を画するお方です。
なるほど今は戦乱が続く世、槍働き次第では、伸し上がって行くことも出来ましょう。
けれでも私は、力だけではこの乱れた世を平定することは、とても叶わないと考えております。
兵法、政いずれにおいても然り、時には知恵を巡らせることも、肝要かと心得ております。
されどその場凌ぎで小手先だけの、小賢しいことをやっていても、何も成せはしないでしょう。
そのことをここで、あなたは十分に学ばれたのです。
あなたは人の話すことに、いつも真摯な態度で耳を傾けていた。
あなたにお渡しした太刀は、私が先の御国主様よりご拝領賜った品。
年老いた私には、もう太刀など必要はありません。
予てからあなたへ太刀を引き継ぐことは、今の御国主様よりご了承賜っておりました。
これよりこの国を背負って行く定めのあなたへ、私からのせめてもの餞です。
馬術に巧みなあなたへ、馬も進呈したいところなのですが、ご承知の通りここの馬は、私と同じく既に年老いております。
ただあなたの足手まといとなるだけでしょう。
重ね重ねあなたに、お詫び申し上げる外ございません。
この上は、あなたが輝定殿の元に一刻も早く戻られること、輝定殿が無事本復されますことを、ただただお祈り申し上げるだけでございます。
輝定殿、輝鷹殿父子に、巡り会えましたことは、私の生涯の宝と致します。

馬の嘶きに、輝鷹はふと文より目を上げた。
楠木の大木の傍らから、一頭の見事な黒鹿毛の馬が現れた。
馬は輝鷹に乗れとばかりに、幾度も頭で自分の背を示した。
「婆さま、有難く頂戴致しまする」
急ぎ荷をまとめ、袱紗に収め袈裟懸けに括り、切り株の上の太刀を両手で捧げ持ち、一礼して腰に差した。
楠木の大木に感謝をこめ、手を合わせ一礼した後、馬に跨り輝鷹は屋敷へと疾駆して行った。
鞍も手綱もない裸馬ではあったが、輝鷹は意に介さず豪快に乗りこなした。
丘の麓の村ではお百姓衆が、田植えの準備に忙しく立ち働いていた。
その姿を見て、輝鷹はまた涼やかな笑みを浮かべた。
輝鷹は夕刻を前にして、屋敷に辿り着いた。
はぐれてしまっていた従者が、なんとか馬を都合つけ、屋敷に戻ってきたころには、もう日がとっぷりと暮れていたとか。
叔父も従者も輝鷹の幼きころの姿しか知らず、これほどまでに成長しているとは、思いもしなかったのである。
輝鷹は旅装束のまま、すぐさま父輝定の枕元に参じ、「ただいま戻りました」と、爽やかに帰参の挨拶をした。
病床にある輝定は、暫し息子を見つめた後、その衰弱した顔に微かな笑みを浮かべ、殆ど唇だけで「ゆっくりであったの、だがよう戻った、随分と立派になりおったものだ、後は頼んだぞ」と言った。
哀しい話だが、輝鷹が父親と言葉を交わせたのは、これが最後となった。
翌日輝定はほっとしたものか、眠るようにして身罷ったのである。
叔父邦泰が後見人となり、輝鷹は家督を継いだ。
その折邦泰より聞かされた話によると、輝鷹の父輝定が家督を継ぐにあたって、親族間で紛争が起こったようだ。
輝定が学問所に長く留め置かれたのには、そんな事情が絡んでいた。
輝鷹の父方の祖母は、息子輝定が学問所に入って間もなく、目を患い失明してしまった。
世を儚んだ祖母は、止める祖父を振り切り、髪を下し仏門に入ってしまったのだ。
祖父はその後、重鎮達の勧めもあって後妻を娶った。
この後妻がなさぬ仲の嫡男を廃して、我が腹を痛めた子に家督を継がせようとしたのだ。
輝定には盲の血が流れていると・・・。
後妻の父親は、この国の重臣のひとりであったことから、思いの外事態は拗れ、哀れ輝定は廃嫡されそうになっていた。
だが重鎮達が割って入り、一気に形勢は逆転した。
国主より輝定こそが○○家嫡子なりとの下知が下り、かの重臣は国内を乱した廉で隠居させられた。
後妻は所業不届きと、その子と共に出家させられたのだ。
祖父も優れた武将ではあったが、いささか病がちとなり、それをよいことに後妻が暴走したようだ。
後に家督を継いだ輝定は、屋敷内に庵を設け、晴れて実母を迎え入れた。
が、哀しくも数年後母親は身罷り、庵は西方に旅立ちし人々の菩提を弔う、仏堂となった。

そんなこともあり、輝定は妻が身罷っても、後添いを入れはしなかった。
それと長く学問所に留まったことで、健やかに育ち、後の己の肥しともなったことから、息子の輝鷹も長く預けたのだった。
家督を継いだ輝鷹は忽ち頭角を現し、初陣では勇猛で名の通る敵将を、激闘の末討ち果たす武勲を挙げた。
その後武門にも政にも秀でた武将へと成長し、国にとって欠くことの出来ない、重臣ともなって行った。
国主より「父上殿はこの国随一の武者であったが、されどそれをも凌ぐ器量である」と、手厚く扱われたのだった。
かの武将養成学校は輝鷹が去って間もなく、筆頭師範が隠居し、後継者もおらず閉校となった。
しかし後に輝鷹他の重臣らの尽力により、再び開校される運びとなった。
さっそく輝鷹の孫が、そこで学ぶこととなったのである。
この学校は今も名門の進学校として、全寮制ではなくなったものの、その歴史が脈々と続いていると聞く。ところで輝鷹の同期同門であった久親は、一体どうなったのであろうか?
久親の父家久(いえひさ)は、なかなか交渉事に優れた才覚を持っていた。
輝鷹の父輝定が推し進めていた、国内での河川や街道等の土木改修工事における、現場監督のような任に就いていた。
輝定が体調を崩し、別の任に就いたため、家久が後の仕事を引き継いだ。
そんな家久が、国内を視察巡回していた、ある日のこと。
とある丘に上って見晴らしもよく、ここで一息つこうとしたが、配下の者がうっかり床几を持ってきていなかった。
腰掛ける所もなく、家久は大層怒ったようだ。
配下の者を厳しく叱責した上、腹立ち紛れに目に付いた楠木の大木を、往来の邪魔と切り倒すように命じた。
そして楠木の切り株に腰を下ろし、見事な景色を肴に、揚々と酒を飲んだのである。
輝鷹のように地べたに何ぞ敷いて、そこにでも落ち着けばよかろうものだが、それでは配下を前にして示しがつかなかったのであろう。
されど家久の中に、驕り高ぶりがなかったとは言えまい。その夜、家久は突然足の激痛に襲われ、そして三日三晩のた打ち苦しんだ挙句息絶えた。
しかし家の者達は他聞をはばかり、ことを内々に収拾し、家久は急病で死んだことにした。
楠木を切り倒した者たちも、同じように頓死したのだが、闇に葬り去ってしまった。
久親は父家久の巧みな根回しにて、小姓として国主お側に仕えていたのだが、これで家督を継ぐことになった。
しかし家督を継いだ久親は、あろうことか合戦の最中、ひとり逃げ去ってしまったのだ。
小姓時代に既に初陣を済ませており、その折手柄も立てていた。
輝鷹の場合とは違い、これは配下の者が立てた手柄を、父家久の命で久親の手柄としたものであった。
それは初陣祝いの儀式として、よくあることなので左程問題ではないが、その先の奮闘次第となろう。
その後久親は、幾度かの合戦に加わっていたものの、大概小競り合い程度で場を凌いでいた。
久親は図体が大きいので、ただ馬上で構えているだけで、敵兵が襲い掛かるのを躊躇したようだ。
ところがかの折の合戦はあまりに激しく、悠長に構えていることなど、到底許されはしなかった。
敵味方双方に、大勢の死傷者を出したのだ。
その凄惨な様が恐ろしくて、久親にとっては耐え難かった。
それに久親の図体が大きいことが、逆に敵兵の的となり、雲霞のごとく押し寄せてきたのだ。
久親はもう必死で逃げ惑い、ついにはそのまま戦そのものから、ひとり逃避してしまったのであった。
大柄だけに目立つ、久親のこの無様な姿を、幾人もの味方重臣達が目にしていた。
主が戦に恐れをなし出奔したとあっては言語道断、久親の家は当然廃絶となった。
<a 当の久親はその後商人となり、持って生まれた手腕を大いに発揮した。
がしかしである、取り分を誤魔化していると仲間から疑われ、その挙句には嬲殺しにされたとのことである。
輝鷹の噺に戻そう。
輝鷹が父親の奉行職を、引き継いで間もなくのことである。
家久が命じて切り倒させた楠木が、櫓の一部として組み込まれているのを知り、急ぎ取り外させた。
どうして知ったかって?精霊のお婆さまが、夢枕に立って告げたのである。
取り外させた楠木の木片で、腕のよい仏師に観音像を彫らせ、屋敷内の仏堂に収めた。
残る木材でこれまた凄腕の宮大工に、かの楠木の大木が聳え立つ、丘の天辺に祠を建てさせた。
国主から許可を得て、私費を投じて楠木の精霊を祀る、大楠神社として建立したのである。
その守を丘の麓の村人に委ね、必要な費えは輝鷹の家の負担とした。
当然ながら輝鷹も、折に触れてはこの神社に詣でるようになった。
長命だった祖母が身罷ってからは、楠木の大木に「お婆さま・・・」と、親愛の情をこめ語り掛ける時間が長くなっていた。
楠木の大木は「お婆さまの楠木」と、麓の村では親しまれ、幾久しく大切にされたそうな。
輝鷹は楠木の精霊より授かった黒鹿毛の馬を、「疾風(はやて)」と命名した。
名の通り疾風のように、どの馬よりも速く駆ける馬であった。
輝鷹は単騎にて疾風のごとく敵陣深く突き進み、果敢に戦い幾人もの敵将をなぎ倒し、疾風のごとく去って行った。
敵方の馬では疾風の動きに、とてもついてはいけなかった。
速い動きで敵陣を攪乱翻弄し、忽ちその陣形を崩してしまうのだ。
そこへ味方の兵が、一斉に襲い掛かる。
或いは疾風に追い縋らんとする敵兵を、自陣に誘いこみ一網打尽としたのだ。
先鋒隊を常に率いるようになってから、輝鷹と黒鹿毛馬の疾風は、勢い他国の名立たる武将達に列して、その名を馳せる存在となって行った。
ところが長く続いた戦乱の世が、ようやく平らかに治まろうとするころ、黒鹿毛馬の疾風は、あの丘へと勝手に帰って行ってしまった。
疾風を見掛けて後を追った、麓の村人の話によると、、楠木の前でふっと消えてしまったそうだ。
楠木の精霊の加護を受け、勇猛に戦ってきた輝鷹であったが、その時戦乱の世の終焉を悟った。
その昔、坂東の地に共和国を打ち建てんとした、かの将門に強く傾倒していた輝鷹だが、討ち死にすることもなく、喜寿まで生き抜いたと言う。
この国は信長、秀吉、家康と、目まぐるしく変わる世を巧みに渡った。
長い徳川政権下にあっても根強く生き残り、明治維新では官軍方として貢献したのだそうだ。
輝鷹の家も、今尚連綿と続いていると聞く。
木戸孝允等を輩出した、毛利家からの流れを汲む、和田家ではないかとの説もあるが、伝承噺のこととて定かではない。
かの楠木の神社は、今でも残っているらしい。
丘の麓の村の長が、世襲にて代々神職を務めていたので、家名を大楠としたとかしないとか・・・?
楠木の大木も健在で、今では「老女(おうな)の楠木」と呼ばれているそうな・・・。

注記、歴史的に著名な人物以外は、総て筆者が思いつきでつけた名前である{。
実は楠木の精霊については、この噺とは別の解釈もあるのだが、またの機会に譲るとする。

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【幼い頃の私の霊体験?】

2010-10-28 15:07:38 | 日記・エッセイ・コラム

02

先日伝法を訪れた折、淀川の堤防の上を散歩していて、ひどくノスタルジックな感覚に見舞われた。
どうやら私が幼稚園児ぐらいの頃の、遠い記憶が甦ってきたようなのだ。
大阪府下の某所、そこはとある川の堤防の近くに建つ、小さな一軒家だった。
桜が咲こうとする候、両親は幼い私を連れてその家に引越した。
かなり老朽化した二階家だったことを憶えている。
父の仕事の都合だと思うのだが、そこにはほんの二年ほど住んでいたにすぎない。
ちょっとした庭があり、日当たりがよいので、主に物干しとして使っていた。
植木とか鉢植え花壇の類は、まったくなかったように思う。
一階は畳敷きの二間で、それぞれ何畳だったかは、今となってはもう分からない。
それにトイレと風呂と台所があった。
二階は一間で、一階のどちらの部屋より、少し広かったように思う。
ここは板の間だったのを、父が越して直ぐに畳を入れてもらったのだと思うのだが、はっきりとは憶えていない。
というのも、この二階の部屋には、父の弟、私とっては叔父が住むことになり、あまり上がった記憶はないのだ。
その家の周辺は民家より、圧倒的に田んぼや畑が多かったように思う。
暫く続く畦道を歩いていると、やがて大きな舗装された道路にまで出る。
確かそこを渡ると、途端に家屋や色んな建物が建ち並ぶ、駅や商店街なんかもある町になっていたはずだ。
私が通っていた幼稚園は、畦道を堤防に沿うように歩いて行くとお寺があり、そこの隣だったと思う。
恐らくそのお寺が運営していたのであろう。
このお寺の境内の桜が、満開に咲いている頃に入園した。(古いアルバムに写真が残っている)
母は毎朝、父や叔父が出勤した後、この幼稚園にまで私を送ってから、その足でそこからもう暫く歩いた所にある、漬物工場のお手伝いをしに行っていた。
工場といっても農家の納屋みたいな所にあった、作業場といったような類だったように思う。
私は幼稚園が終わると、真直ぐにこの漬物工場にやってきた。
ここの人達は幼い私を大変可愛がってくれ、私のためにおやつ{%ケーキwebry%}まで、用意していてくれたものだった。
私がおやつを食べ終える頃には、母も漬物工場のお手伝いが終わった。
その後母は私を連れ町まで出て、お買い物をしてから帰宅するといったのが日常だった。
父も叔父も仕事が忙しいのか、帰宅するのはいつも私が眠ってしまってからだった。
当時の私はあまりに幼く、どうしてそこに越してきたのかとか、母がどんな経緯で漬物工場のお手伝いをするようになったのかは、まったく理解してはいなかった。
今ではある程度解っているのだが、ここで記すのはやめておくことにする。
そこに越す前はごちゃごちゃした街中の、団地のような場所に住んでいたような、どうにも曖昧な記憶が残っている。
私みたいな幼い子供が、近所にはいっぱい走り回っていたような気がする。
しかし越してきた家の周辺には、私と同じぐらいの年頃の子供はいなかった。
幼稚園の方とか漬物工場の付近には、幼児が結構いたように思うのだが…。
その家の近所には小学校に通う子供もいなく、もう中学生とか高校生とかだったはずだ。
それだけに幼かった私は、一際目立つ存在だったのであろう。
付近のお爺さんお婆さん、小父さん小母さん、お兄さんお姉さん等の注目を、一身に集めていたのであろう。
それだけの目で、温かく私は見守られていたので、母も安心していられたようだ。
「ひとりでは決して小川で遊んだり、遠い所や堤防の方に行ってはいけないのよ」との、母の厳命を私は守って、家の周辺で遊んでいたと思う。
畦道とかにはこれまで見たこともない、草花が生え虫達が息づいていたのだ。
幼い私にとって、毎日が「なんだこれへんなの!の連続であった。
その延長線上にあった、私達の家からは最寄の、お隣さんとなる農家には、よく遊び行っていたように記憶する。
私に残るその家の印象は、なんだか時代劇にでも登場しそうな、実に古風な農家。
ここにはお婆さんと小父さん小母さん、それに高校に通うお姉さんと、中学に通っているお兄さんがいた。
それにミケちゃん{%ネコdeka%}という三毛猫さんがいた。

大きな犬もいたらしいのだが、もうかなりの高齢だったようで、私達が引越すちょっと前に天寿を全うしたのだそうだ。
この界隈の殆どの農家では、犬や猫が飼われていたようだ。
特に猫は多かったと両親は話していた。
そういえば、ニャンコの集会をよく見掛けた。
隣家のお婆さんは、私達が住む家の大家さんだったと思う。
お爺さんは戦死されていて、若い時のままの写真だけが、仏間に飾られていたと記憶する。
私はその写真の主が、初めのうちは一番上のお兄さんだと思っていた。
お婆さんの旦那さんで、小父さんのお父さんということは、暫くして孫である高校生のお姉さんからちゃんと教わったのだ。
このお隣さんは一家総出で、私達の引越しを手伝ってくれたと思う。
お婆さんと小母さんのふたりして蕎麦を作ってくれていて、引越し作業がひと段落すると、まだ段ボール箱が積まれている一階の二間に皆集まり、車座になって食べたのを、私ははっきりと憶えている。
なんだかお祭りみたいで、随分楽しかった思い出なのだ。
引越して間もなくだったと思う、家の近くの畦道で遊んでいて三毛猫を見つけた。
母は台所で夕飯の支度かなにかを、していたのだ思う。
三毛猫の後をついて行ったら、いつの間にかお隣さんの縁側に着いていた。
その日初めて、ひとりでお隣さんの家へお邪魔したのだ。
お婆さんが温かく迎えてくれ、母が心配してはいけないと、私がきていることを直ぐに知らせていた。
その日からお隣さんへは、ひとりでちょくちょく遊びに行くようになった。
お婆さんやお姉さんとお兄さんは、私をよくかまってくれた。
小父さんと小母さんは、いつも忙しそうに立ち働いていた。
でも私を見かけると、ふたりとも優しい微笑みを向けてくれたものだ。
きっと、いったいどちらの子なのか分からないほど、お隣さんには頻繁に行っていたのだろう・・・。
私の猫好きは幼児の頃からなのだろうか、ミケちゃんとも直ぐに仲良しになった。
当時猫のことを、ニャンコタン♪と私はいっていた。
恥ずかしながら、今でもたまにそう呼ぶこともある・・・。
隣家ですごしていて、いつの間にか眠ってしまって、目覚めれば自分の家だったことも多くあったと思う。
母も私がお隣さんにお邪魔しているぶんには、安心していられたのだろう。
だから時として両親は、私を隣家に預けて出掛けたりもしていた。
冠婚葬祭の関係だったようだが、案外ふたりして羽を伸ばしていたかも・・・。
小父さんとか小母さんが、幼稚園にまで迎えにきてくれて、そのまま隣家で両親が帰るまで待っていたりもした。
後に聞いた話によると、戦死されたお爺さんは、母の大伯父とかにあたるそうなのだ。
つまりお隣さんとは遠戚関係にあり、母の父(私には祖父)の生家だったのだ。
どうりで私を可愛がってくれたわけだと、この話を聞いた折に納得した。
母方の祖父は他家に養子として迎えられ、この生家からは離れた。
もちろんその他家とは、母にとっては生家である。
頭がこんがらがりそうなので、余談はこれぐらいにしておこう。
そんな風に私はお隣さんでも、家族同然として扱われていたのである。
お姉さんやお兄さんは、土手へ土筆採りとか、夏には鎮守の森へ蝉捕りとか、小川でオタマジャクシやメダカ捕りをしに、連れて行ってくれた。
お婆さんはオジャミというお手玉を私に作ってくれ、やり方を教えてくれたりした。
幼なかったのでよくは憶えていないが、自然を相手にする農家は季節感が強く、折々のイベントがあったのだろう。
農業には素人であったろう両親や叔父も、出来ることは手伝っていたようだ。
当時の父と叔父は、体力には自信があったようなので、休日返上でやっていたように思う。
お盆には隣家にいっぱい人が集まり法要があって、幼稚園横のお寺の和尚さんがお経を唱えていた。
秋には一帯で収穫祭があり御神輿が舞ったり、お月見をしたり、そして年の瀬にはサンタさんもやってきたし、盛大にお餅つきもやって、年が明けお正月を迎えた。
そんな断片的な記憶が脳裏を駆け巡る。
その地へ引越した翌年、幼稚園では私は年長さんということになる。
夏から初秋にかけ、台風の上陸や接近が多い年だったそうで、その幼稚園もしばしば休園となった。
夏も終わろうとするある日、大きな台風がゆっくりと近づき、やがて日本列島を襲った。
激しい風雨を受け続けた堤防が、ついに夜半になって決壊し川が氾濫した。
家は風に軋み瓦も吹き飛ばされ、二階の叔父の部屋では、随分雨漏りがしていたようだ。
やがて水が床下に浸水してきて、どんどん水嵩が増していったそうだ。
幸い畳を濡らすまでは増水しなかったが、電線が切れたものか停電したりして、蝋燭の火に頼っていたようだ。
堤防沿いの家屋に避難勧告が出たらしいが、どうにも身動きが取れなかったようなのだ。
この状態ではノンビリ布団で寝るというわけにはいかず、大人達は一晩中起きていたらしい。
母は一晩中私を抱きしめていたように、ぼんやりとした記憶が残っている。
私もコクリコクリとしながらも、尋常ではない大人達の様子に、緊張していたように思う。
「オウチだいじょうぶ?」と母に尋ねたら、「だいじょうぶよ」と微笑んでいた顔を、なんとなく憶えている。
父が母に木場町にいた時に遭った、あの第二室戸を思い出すな」、とか話していたのも憶えている。
翌朝風雨が去り水が少し引いてから、父と叔父は外へ様子を見に行ったらしい。
周辺は惨憺たる有様で、田畑は水に浸かり、作物が壊滅状態だったようだ。
もちろんお隣さんも例外ではなかった。
暫く大人達は台風一過の処理に、大童だったようである。
そんな中、隣家のお婆さんが倒れたのだ。
お婆さんはあっけなく、天に召されてしまった。
隣家では葬儀が営まれ、両親や叔父もお手伝いしていた。
大人達が皆泣いていた・・・。
お婆さんは色んな人達から慕われ、敬われていたのであろう。
ご主人を戦争で奪われ後、気丈にも家を守り続け、ついに力尽きたのだ。
当時の私がどこまで人の死を理解していたかは分からないが、切なく悲しかった{%泣くwebry%}思いは記憶に残っている。
父も母も叔父も、悲しそうに咽び泣いていたのを、私は鮮明に憶えているのだ。
お婆さんとお別れする前夜、そのお通夜でのこと、私は不思議な体験をしている。
ここからは模糊たる記憶から、なんとか引きずり出して、大体こんな状況だったのではないかとの、概ねの推測による話になってしまう。
私は母の横に座りコクリコクリとなっていたので、結局お婆さんの遺体が安置された部屋から、ちょと離れた所に布団を敷き寝かされていたようだ。
もう夜中だったろう、私はふと目覚めたのだ。
多分オシッコに行きたくなっていたのだろう、起きて直ぐ辺りを見回して母を捜したがいなかったので、ひとりでトイレに行った。
廊下とかは電灯が灯って明るいし、大人達の声があちらこちらから聞こえていたのもあり、怖いという意識はなかった。
小母さんが私を見つけて、「どうしたの?」と声を掛けてきた。
私が「オシッコ」と返事したら、トイレまでついてきてくれた。
ここのトイレは少し前まで汲み取り式だったのを、私達親子が住んでいる家のと一緒に水洗に改修したので、おどろおどろしい田舎の便所とは違っていた。
といっても、当時の私は田舎のボットン便所の存在自体、知るよしもなかったろうが。
トイレの前まできて、小母さんは誰かに呼ばれたようで、「ひとりで大丈夫?」と訊いた。
勝手知ったるという家のことでもあり、私は「ウン」と頷いたので、小母さんは行ってしまった。
私は少し心細くなったが、なんとかオシッコを済ませトイレから急いで出た。
そして母を捜そうと思い、廊下を歩いて行ったのだが、その時何処からかチリンチリンという音が聞こえてきた。
何故か私はその音に惹かれるようにして、とある小部屋に入って行った。
これまでその部屋に入ったことはなかったろう。
私が寝かされていた部屋には、小さな電球が灯っていたが、そこは真っ暗だった。
だが不思議と恐怖感はなかった。
暫くすると薄明かりでも灯ったように、ぼんやりと白むかのように部屋の中が明るくなった。
目が慣れたのではなく、何かが光っているようなのだ。
灯りを得たので、漸く三毛猫のミケちゃんが、座布団に丸まっているのに気づいた。
さっきの音はミケちゃんの首の鈴?
いや違った、ミケちゃんがじっとしているのに、また聞こえてきたのだ。
そのうちミケちゃんがいる辺りが、ぼんやりと光っているのにも気づいた。
その光はどんどん大きくなって、やがてお婆さんになってしまった!
死んだはずのお婆さんが、座布団に正座していて、その膝にはミケちゃんが丸まっていた。
「お婆ちゃんは死んだんじゃないの?と私が訊ねると、お婆さんはそれには答えず襖を指差した。
見ればなんと襖に、みるみる映像が浮かび上がってきたのだ。
とある農家に、花嫁さんが迎え入れられる、そんな結婚式の場面から始まった。
その後花嫁さんは、旦那さんやその一家の人達とともに、農作業や家の仕事に勤しんでいた。
そして赤ん坊がめでたく誕生した。
男の子だった。
ところが幸せな日々ばかりではなかった、何度も近くの川が氾濫し、その度に農作物は多大な被害を受けることになった。
旦那さんのご両親が心労からか、相次ぎに亡くなってしまう。
そして悲劇はまだ続く、ある日無情にも、旦那さんに赤紙(召集令状)が届けられた。
お嫁さんが中心になり、千人針が縫われた。
千人針で縫われた布を卓袱台に置き、旦那さんは泣いているお嫁さんに何かを手渡した。
それから旦那さんは、お嫁さんや村の衆に見送られ、出征して行ったのだ。
だが願いも空しく旦那さんは生還を果たせず、お嫁さんには戦死通知のみが届けられ、やがて終戦となった。
まだ幼い子供を抱えながら、戦争未亡人となってしまったお嫁さんは、それでも戦死した旦那さんに代わり一家の大黒柱となって、気丈に働き続けた。
暫くして世の中が落ち着き、川にも漸くしっかりした堤防が設けられた。
しかし安心していたのも束の間、その護岸工事はずさんな手抜きだったのだ。
ある日の風雨により、脆くも決壊してしまい、田畑等を水浸しにしてしまった・・・。
多分映像はここまでだったように思う。
襖からお婆さんの方に目を戻すと、手に鈴をぶら下げていて、私の方へ差し出した。
ミケちゃんの首にあるのより、もっと大きな鈴だった。
私がその鈴を受け取ると、お婆さんは次第に元の光に戻り、やがて消えてしまった。
お婆さんはずっと微笑みを浮べていたが、ついに言葉を発することはなかった。
この後の記憶は途絶えてしまっている。
お婆さんがいたその部屋で、ミケちゃんと一緒に眠りこけている私が、母と小母さんによって発見された。
見当たらないので、心配してふたりで捜したようだ。
寝惚けて迷い込んだ、ことになっているのだとか・・・。
母がいっていたが、その部屋はお婆さんが、寝室として使っていたのだそうだ。
戦死した旦那さんと若い頃のお婆さんが、仲良く肩を並べて写っている写真の入った写真立てが、小さな箪笥の上に置かれていたのだそうだ。
その翌年、私が小学校へ上がるのに合わせるかのように、私達一家はその地より引越して行ったのだ。
叔父はその後間もなく、綺麗なお嫁さんをもらった。
幼児だった私にとって、襖に映し出されたあの映像の意味は、理解の範疇を超えていたろう。
時とともに理解していったのであろうか?
いや、私の夢の中の模糊とした抽象が時を経て具象化し、記憶となって残っているのやも知れない。
本当にあったことかどうかは、はなはだ心もとないのだが、私にとってこれが唯一の霊体験である。
お婆さんから手渡された鈴なのだが、小父さんも小母さんもお姉さんもお兄さん、見たことがない物だったようである。
もちろん両親や叔父も知らなくて、私がどこで拾ったのか、小首を傾げていたようだ。
両親が当時の話をする時は、漬物工場の漬物も美味しかったが、お婆さんの漬けた糠漬けの方がもっと美味しかったとか、決まってそんな方向に行ってしまう。
お婆さんの作ったおはぎや、土筆のお浸しも美味しかったとか、懐かしそうに話し合っているのだ。
今となっては鈴のことなど何処へやらである。
幼児だった私は、おはぎは別として、漬物やお浸しはあまり好きではなかったようだが、今ならその味が分かるだろう。
あの堤防決壊の一件は、やはり業者による手抜き工事が原因だったようだ。
工事に関与した人間が、何人も処罰されたのだそうだ。
ところで、鈴は今も尚私の手元に残っている。
もしかしたら、旦那さんが出征前にお嫁さんに手渡していたのは、この鈴だったのだろうか?
お婆さんは誠実であること、そして平和であることの意味を、私に伝えたかったのかも知れないな・・・。

03


【安治川隧道】

2010-10-28 13:47:00 | 日記・エッセイ・コラム

01

久しぶりに安治川の川底トンネルを通った。
西九条側(北)から九条側(南)へと向かい、所用が済んだら西九条側へと戻って来た。
芦辺拓著【時の密室】の舞台にもなったこの川底トンネル、「安治川隧道(ずいどう)」といい昭和10年に着工して、その後すったもんだの末、九年後の昭和19年に完成したそうな。
なんで川の底なんかにトンネルを掘ったかというと、結局は軍需工事への物資輸送が目的だったそうだ。
今は車が通る方は閉鎖されていて、人と自転車のための此花区西九条と西区九条(ややこしい)を結ぶ生活路になっている。
結構往来は多いのだ。
赤川鉄橋の木造人道橋と似た環境にあるように感じた。
川底を通ろうが橋みたいなものだろう。
阪神なんば線が開通しても、自転車は乗せてくれないだろうし無料でもない。
結局この川底トンネルは、もう暫く残るのだろう。

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