冒頭に「シュレーディンガーの猫」の思考実験の話が登場する。
箱の中に猫がおり、それといっしょに放射性物質、および致死毒の発生装置とつながった検知器が収められている。
放射性物質が崩壊する確率はわかっているが、いつそれが起きるかはわからない。
このとき猫の生死は雲のようにあいまいで、互いにいりまじった状態にあり、箱のふたを開いた瞬間、初めてそれが確定するーーーという世にも不思議なパラドックス。
古典力学の立場からは、全てが宇宙の始まりから決定づけられているとの考えからは、ふたを開けようが開けまいが、結果はラプラスの悪魔のお見通し。
しかし量子力学的な観測からは、そうはならないのである。
箱の中で原子核崩壊が起きるかどうかは波動関数の方程式にゆだねられ、純粋に確率分布の問題であり、となると原子核が崩壊していないがしている、検知器は作動していないが作動しているし、毒は放出されていないが、同時に放出されてもいる。
したがって猫の生死もまたーーーこれら二つの可能性はまるで雲のように重なり合っていて、どちらでもなく、どちらでもありうることになる。
しかしてこれは更に論理を進めるならば、箱を開けた刹那、両方の可能性がともに実現されて、毒がまかれないまま猫が生きていている世界と、死んでしまった世界に分岐することになる…。
話はどんどんややっこしいことになるのである。
猫好きの私としては、そんな残酷な実験に猫を使うなよって思うが、これはあくまでも思考実験で理論的な検証である。
実際に実験を実行したのではない…と思う…。
しかしこの話は、本著本編に重要な意味をなげかける!!
さて、反骨の検事・名城政人が殺人容疑で逮捕された。
検察内部の不正を告発しようとしていた彼の罪状には、冤罪の疑いが色濃い。
後輩検事の菊園綾子は、宿敵で弁護士の森江春策に協力を仰ぎ、証拠品の放射光による鑑定と、関係者が集った洋館ホテル“悠聖館”での事情聴取に乗り出す。
しかし、放射光鑑定をするはずの研究機関で暴走事故が起こり、“悠聖館”では新たな殺人事件が発生する。
それは、菊園検事を謎と推理の迷宮へといざなう招待状だった―パラレルワールドと化した事件現場。
真相を見抜かないと、元の世界にはもどれない。
知恵と推理と正義感を武器に、迷い込んだ異次元で、孤独な闘いがはじまる…。
ハイゼルベルグが提唱した、不確定理論によれば、素粒子の速度を図ろうとしたら、その位置が特定できない、位置を特定しようとすれば、その動く速度は、分からない。
だから概ねこの位置いて、概ねこの速度で移動しているってなる。
だがこの理論に、激として反論したのが、アインシュタインである。
そんな不完全な科学理論は理論として成立しない、もっと完結した理論でないと…。
しかしながら、この量子力学は、宇宙という膨大な、その発生の基礎を担う。
いきなり、ビックバンで宇宙が生まれたでは、科学理論で不十分なのは分かり切っている。
真空の状態とは、我々には何もない世界って安定していると思うが、科学者にとって、こんな不安定な空間はないそうだ、いつも素粒子が現れたり消えたりを繰り返す。
そしで現れる刹那、他の素粒子とぶつかった時、E=MC2が生きて来る。
素粒子といえども、物体のエネルギーはその質量の光速の二乗倍に匹敵する。
その通り、人間の眼から見て、一瞬にエネルギーの塊が、テニスボール大になってこれが、凄まじい速度で膨張し、その間に、幾種の物質を生み出していって、やがて自重に耐え兼ね、大爆発を起こす、これこそはビックバンであるというのが、今日の見解だろうと思う。
つまり、広大な宇宙の根源は、量子的ミクロの世界から始まったってことでハイゼルベルグもシュレーディンガーも、世界的に評価されている。
一方のアインシュタインは、皮肉にもブラウン運動=水の原子がコップの中で動き回っていることを証明して、量子学に貢献したことでノーベル賞を授与された。
もっと皮肉なのは、科学理論は完結的でないといった彼の相対性理論は自己完結して、その後進まれない状態になった。無限大に対して、どうしたって計算できない。
重力無限大のブラックホールの解明には、役立たずだった。
しかし、量子の世界では、ブラックホールもやがて消滅する運命にあると、スチーブンWホーキングが証明した。