ついに福山龍馬も惨殺されてしまい、いよいよ「龍馬伝」も終わってしまった。
私は京都霊山護国神社にある、龍馬・慎太郎の墓に参ったことが一度ある。
それと大阪の土佐稲荷神社に、何度か立ち寄ったことがある。
今年の4月11日の日曜日こと、朝から大阪市立中央図書館へ出向き、様々な文献等を広げて調べ物をしていた。
まったくもって面白くもない内容なので詳細は省くが、色々と資料を作成しなければならなくなったからである。
昼過ぎにようやく必要とするコピーやメモが取れ、一応の目処は立ったので、地階にあるレストランで昼食を済ませた。
後の資料作りは月曜日に事務所ですることとして、西長堀駅から帰路に就こうと図書館を出たら、お天道様が顔を出していた。
この日は曇り空で午後から雨が降るなんて予報だったので、おやっといった思い。
前日の土曜日は初夏を思わせる気温で上天気、外出時は日傘がいるような状態だった。
もっとも土曜日も事務所に籠って資料作りをしていて、殆ど外出はしていなかったのだが・・・。
前日に引き続きこの日も気温は高かったが、朝出掛ける時はどんよりと雲っていた。
雨が降るとのことで、リュックに折りたたみ傘を入れてあったが、日傘は持ち合わせていなかった。
しかし日曜日で天気がよいとなると、外を歩きたくもなるというものだ。
ただでさえ昨日からの資料作りで、うんざりとしていたのだ。
図書館の西側には土佐稲荷神社があり、ここのソメイヨシノもなかなかの見物だ。
ちょいと名残の桜でも、覗いてみることにした。
土佐稲荷神社のソメイヨシノは、花吹雪となりどんどん散り出していた。
手水舎の水には、散った桜の花びらが浮かんでいて、これがなかなかの趣。
土曜日まで夜桜のライトアップが催されていたようだが、もうぼんぼり等を仕舞う作業に入っていた。
「土佐稲荷の夜桜」として、吉例の行事となっているのだ。
それでもお花見客は花吹雪の中、名残の桜で一杯と洒落ていた。
露店もまだ少し出ていた。
土佐公園の中に神社があるというか、神社に隣接して土佐公園があるというか、お参りを済ませると、そう広くもないがちょっと辺りをぶらついてみた。
ソメイヨシノに替われとばかりに、八重桜とそれにツツジも咲き始めていた。
江戸時代、ここいらには土佐藩蔵屋敷があり、その敷地内に伏見稲荷より勧請され、鎮守社として建立されたとのこと。
現在は埋め立てられているが、西長堀川が直ぐ傍に流れていて物流を担っていた。
土佐藩は両川岸に蔵屋敷街を成し、鰹節や木材を商っていたそうで、鰹座があったり、少し東に行けば木材問屋街が控えていたそうな。
付近には今でも往時の名残の、鰹座橋とか白髪橋といった地名が残っている。
白髭とは当時木材を切り出した、土佐の白髭山から由来するようだ。
ところで土佐堀川はもっと北の方で流れているのだが、この土佐堀の地名は蔵屋敷とは関係なく、安土桃山時代の豊臣政権下にて、この地に土佐商人達が群居していた、土佐座というのがあったことから由来しているらしい。
土佐藩蔵屋敷は、明治の廃藩置県により、岩崎弥太郎氏に神社とともに譲り渡された。
大河ドラマ龍馬伝でストーリーテラーともなっていた、売れっ子役者の香川照之さん演じる岩崎弥太郎氏。
岩崎弥太郎氏は、伝説の男坂本龍馬が率いる「海援隊」の会計を担当したり、維新後には武士から実業家に転進し、三菱財閥の基礎を築いた傑物。岩崎弥太郎氏はここで事業を始じめたのだそうで、つまり三菱発祥の地ともなる。
土佐稲荷神社の賽銭箱には、スリーダイヤが紋となって入っている。
三菱のスリーダイヤは、土佐山内家の家紋「三つ葉柏」と、岩崎家の家紋「三階菱」をあわせたものと聞く。
三つ葉柏を継ぐ山内とはゆうたち、あしは岩崎家とは縁も所縁もないがでくして土佐稲荷神社を後にした私は、そのまま北東方向へと向かい、えっちら靱公園まで歩いて行った。
コートもセーターもなく、軽いデニム上下姿なのだがそれでも暑く、日陰を頼って歩くことになった。
靱公園のソメイヨシノも花吹雪とともに、次第に葉桜へと変貌を遂げようとしていた。
ここでも名残を惜しむかのように、お花見を楽しむ人達がいた。
空を見上げれば、私の大好きな藤花が咲きそうな陽気だ。
桜がなくともこのバカ陽気である、こうなりゃピクニック気分でも何でもいいじゃないか。
花壇のラッパスイセンが、そう語り掛けているようだ。
しょうまっこと(本当に)、はよぅも(早くも)夏がきたち思うやか。
私もコンビニで缶ビールを買ってきて、空いたベンチに腰掛け渇いた喉を潤した。
やっと人心地がついたような気分だった。
『花に染む心のいかで残りけん 捨て果ててきと思ふわが身に』
京より霊場吉野に移った西行法師、世への執着を皆捨ててきたはずなのに、桜に心奪われている我を知り詠む。
西行法師は、大変桜を愛したと伝えられている。
『願はくは花のもとにて春死なむ その如月の望月の頃』
願わくばお釈迦様の御命日の頃、満開の桜の下で春逝きたいものだと詠んで、十数年後のほぼその時期に入寂したとされる。
もし吉野山の満開の桜を見て何も感じなければ、人としてそれは大変淋しい話であろうと私は思う。
平安末期を生き抜いた西行法師、平清盛とは同い年だそうだ。
元々このふたりは「北面の武士」として、同僚だったようだ。
文武に優れた佐藤義清(のりきよ)は22歳の若さで突然出家し、法名を円位と名のったが後に西行とも称した。
阿弥陀仏の極楽浄土は西方にありと。
出家後は気の向くままに様々な所で草庵をあみ、69歳まで諸国を行脚し、数々の優れた和歌を詠んだとされる。
70歳になって京に戻り、その後大阪は河内にある弘川寺の裏山に庵を結び、この地で73年の生涯に幕を下ろした。
西行法師と対照的な生き様をしたのが、幕末の英雄坂本龍馬である。
ふたりが生きた時代は、各々の意味を持っていた。
武家中心の世が確立されようとした平安末期の世、その武家社会が崩壊して行こうとした幕末の世。龍馬は28歳で土佐を脱藩して東奔西走し、33歳で近江屋にて暗殺された。
動乱の世を、わずか5年余りで忙しく駆け巡った。
西行法師が仏門に入ってからの生涯の、なんと十分の一の期間である。
満開に咲き誇る桜は勿論美しいが、散る桜の美しさを知る、それこそが大和の心とかいう。
私はそれ程の風流人ではない、それに葉隠に通じるような刹那思想的でもあり、散る潔さには殊更固執はしない。
しかしながら、散った花弁が絨毯を敷き詰めたようになったり、川では花いかだとなって流れて行く、そんな景色を見てやはり美しいと思う。
『又あふと思ふ心をしるべにて 道なき世にも出づる旅かな』
豪放磊落に振舞っていた龍馬だが、竜ならぬ人の子である、その心の中では葛藤が渦巻いていたのだろう。
もけんどたら(もしかしたら)龍馬さぁも、まっことは、西行法師のようにゆるりと生きたかったがかも知れんき。
だが時代がそれを許さなかったのだろう。
散り行く桜からふと目を移すと、ヤマブキが咲き始めていた・・・。
「山吹色はいつ見てもしょうえい(良い)ものじゃのう。土佐屋おまさんも、なかぇか(なかなか)の悪やきのう」
「滅相もございやーせん、手前のような小もん、お代官様のねき(足元)にも及びませんき」
「おんしなかぇか申すやか・・・ウフッフッフッ・・・」
「例の件何卒よしなに、ささ先ずは一献・・イッヒッヒッヒッ・・・」(悪代官と悪商人:土佐編)
私って、ヤマブキを見ると、何でいつもこうなるんだろう・・・完