「私」シリーズの最新作。
「朝霧」以来か?
それから四半世紀たち、「私」は編集者として働いている、夫も中学生の男の子もいる。
「花火」「女生徒」「太宰治の辞書」の三篇連作の作品。
仏蘭西の海軍将校であり、作家でもあるピエルロチの「日本印象記」を元に、芥川龍之介が「舞踏会」を書いている。
主人公明子は十七歳、仏蘭西語と舞踏との教育を受けていたが、正式に舞踏会に臨むのは、生まれて始めてであった。
フランスの将校が歩み寄っていき、「一緒に踊っては下さいませんか」
鹿鳴館の夜空に上がる花火。
「私は花火の事を考えていたのです。我々の生(ヴィ)のような花火の事を」
暫くして仏蘭西の海軍将校は、優しく明子の顔を見下ろしながら、教えるような調子でこう云った。
三島由紀夫は<芥川は本質的にワットオ的な才能だった>といった。
「舞踏会」は<彼の真のロココ的才能が幸運に開花した短篇>だという。
「私」の親友正ちゃんこと高岡正子は、高校の国語の先生になっていて、職場結婚して、子供は高校生になっている。
その正ちゃんが「ロココっていえば太宰だな」という。
太宰の「女生徒」の中に、ロココ料理なるものが登場するそうな。
正ちゃんは返さなくていいと、「女生徒」を貸してくれた。
有明淑(しず)が書いた日記を元に執筆した作品らしい。
この小説ではロココを<華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されてゐたので、笑っちゃった。美しさに、内容なんてあってたまるもんか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。きまってゐる。だから、私は、ロココが好きだ。>といっている。
さて太宰の辞書には、ロココは何と書いてあったのだろう?
春桜亭円紫は恰幅もよくなり、大真打ちになってしまった。
その円紫さんが指摘したことだ。
「太宰の辞書には<華麗のみにて内容空疎の>とまで、書かれていないだろうと思います。あまりにも注文通りです。文学的であっても、辞書的ではない」
「<一足す一は?>といった問題ではない。唯一無二の答えが出るようなら、小説とはいえない。それでも、こういったことを考えるのも、作品を読む面白さですね」
その円紫さんの言葉に導かれて、「私」は創作の謎を探る旅に出る…。
はっきりいって、この小説は私にはよく分からなかった…。
何か文学論を北村薫が、ぶっているだけという印象しか残らない。
高校生の頃、芥川龍之介、森鴎外は図書室で読んでいたが、太宰治は読んでない。
確か「舞踏会」は読んだ記憶がある。
短篇というよりショートショートみたいな短い小説だったくらいしか記憶がないが…。
「太宰治の辞書」では他にも、菊池寛やら遠藤周作やらはては、詩人の萩原朔太郎なんか出てくる。
その上名前を聞いても知らない、文芸評論家や海外の作家も登場するのでうんざりする。
お笑いコンビのピースの又吉直樹(芥川賞受賞)は、太宰治に心酔しているらしい。
太宰の魅力は<一行で引き付ける>ところだそうな。