東急田園都市線の三軒茶屋駅。
駅から地上に上がり、世田谷通りを環状七号線に向かって歩くこと二百メートルほどのところを左折して、あとはいくつかの路地を右へ左へと進むと、やがて路地裏に、ぼってりと淡い光をたたえた等身大の提灯が見えてくる。
提灯にはのびやかな文字で、「香菜里屋」と書かれている。
焼き杉造りの分厚いドアを開けると、絶妙のタイミングで「いらっしゃいませ」の声が優しく迎えてくれる。
そこは十人ほどが座れる長さのL字形のカウンターと、テーブルが二つあるだけの小さなビアバー。
精緻なヨークシャーテリアが刺繍されたワインレッドのエプロンを着けた、そのヨークシャーテリアに似たマスター工藤哲也が、いつも人懐っこい笑顔を浮かべ、一人で切り盛りする店。
度数の違う4種類のビールと旬の食材を使った絶品の料理で、さりげなくきめ細やかに饗す。
だがそれだけではない、客が持ち込む謎に密かに耳を傾け、見つかりそうもない答えを「あくまでも推測の域を出ませんが」と、これまたさりげなく提供するのがここの裏メニュー・・・。
《香菜里屋》工藤哲也シリーズ最終章。
『ラストマティーニ』
猛暑の中、空調機が故障してしまい、《プロフェッショナルバー香月》の臨時休業を余儀なくされた香月圭吾。
ひとまず馴染みの《BAR谷川》に行き、いつものコーンウイスキーのソーダ割りを二杯飲み干し、〆にはこれもまたいつものマティーニを注文した。
しかしその日香月に供されたマティーニは、水っぽい最悪のカクテルだった。
香月など比するに及ばぬほど、超ベテランバーマンの谷川真介。
信じがたい基本中の基本であるミスを、その老バーマンは犯してしまっていた。
もうろくしたのか・・・。
「谷川の爺さん、どうしてあんなシロモノを作っちまったのかな」、答えは見つからぬまま、香月が《プロフェッショナルバー香月》の店じまいを始めようとしたとき、ドアが静かに開いた。
《香菜里屋》の工藤哲也が、珍しく香月の店のスツールに腰を下ろした。
二人は嘗ての僚友であり、十五年越しの腐れ縁であった。
谷川のことを聞かせたら、彼はなにもいわなくなった。
工藤もまたトラディショナルな《BAR谷川》と、その店主をよく知るひとりである。
老バーマンは謎だけを残し、潔く店をたたんでしまった・・・。
《香菜里屋》の常連客である飯島七緒は、嘗て参加していた自由律句の結社《紫雲律》で出会った、老俳人の死を巡り山口県にまで向かったことがあった。
不思議な縁でその山口県に、七緒は嫁ぐことになった。
相手は三歳年下の相田賢治。
だが《香菜里屋》を去り、東京を離れることに、やはりさみしさを感じる。
同じ常連客で知り合った根岸明美と、そして先だってバーマンと結婚した、笹崎改め香月ひずるとの三人で、「居酒屋探検隊プレジール」と称して飲み歩いた時期もあった。
プレジールとは、仏語で「楽しむ」こと。
明美が祖母の介護で大変になり、その間活動は休止していた。
その祖母が二ヶ月前に亡くなった。
徐々に活動再開かに思われたプレジールだが、明美の様子がおかしい。
銀座のモツ煮込みで有名な大衆酒場で、久々に合流した三人だが、途中で気分が悪くなった明美は、尋常でない顔色で帰ってしまい、その後暫く連絡が取れなくなった。
ところが《プロフェッショナルバー香月》で再会した明美は、なんでもなかったかのように振舞った。
しかし、度が過ぎた酔客が持ち込んだおでんの香りに、なんと明美が激しく嘔吐し、その後彼女の行方がわからなくなってしまった。
いったい明美になにが起こったのか・・・。
『背表紙の友』
その夜、東山朋生は甥の石坂修・美野里夫婦と、行きつけの《香菜里屋》で待ち合わせていた。
先に店で飲んでいた東山は、たまたま隣のスツールに座った男女二人連れと、胸襟を開いて三人で会話した。
男は浜口という名で、妙に人懐っこい。
どうしたきっかけからか、東山が中学生の頃に犯した、おろかな過ちの話に及んだ。
ませガキの間で、当時山田風太郎の「忍法帖」の噂が侵蝕していった。
だが隠微なエロスに満ち溢れた表紙のイラストから、とても町に一軒しかない本屋のレジに、東山は持ち込む勇気はなかった。
読みたい思いが募った挙句、東山は一計を案じた。
他の文庫と表紙を入れ替えて、レジに向かった。
ちょうどよいことに、高村光太郎の詩集と「忍法帖」が同じ値段だった。
その後も一冊また一冊と、表紙を取り替えた、「忍法帖」のコレクションを増やしていった。
二人連れが去った後、工藤は「先ほどのお話、きっかけはどのようなことから始まったのでしょうか」と、何故か訝しげだった。
「わたしにはどうしても唐突に思えて・・・」、彼にしては珍しく答えを探しあぐねていた。
だが町に一軒しかない本屋が、古書店であることに気づいていた。
そうこうするうちに、甥夫婦が店にやってきた。
実は東山は会社を辞し、岩手県の雫石にある旅館で働くことを決意していた。
そのことを、今夜告げるつもりでいたのだ。
四十代半ばまで独身を通してきてしまって、属する会社組織だけに生きる自分が、その組織から離れると、なにも残らないことに気づいた。
己の来し方行く末に、少しくたびれてもいた。
プロジェクトを終了させた東山は、突然東北の旅に出た。
元々《香菜里屋》の常連だった日浦映一が、花巻で営む居酒屋《千石》に、立ち寄るのも計画のひとつだった。
日浦夫婦と雫石に寄った折、日浦の妻の古くからの知り合いが主人の旅館に宿泊し、その素朴さに東山は惚れこんでしまった。
夫婦二人では人手が足りず、予約を断ることさえあるという。
「どこかにいい番頭はいないか・・・」
日浦を介して東山に、旅館の主は礼を尽くし申し出た。
辞表を提出し会社にとって無用となった東山は、有給休暇を消化し、引越し準備に取り掛かった。
そんな彼に、工藤から「変わった宅配物が届いているのですが」との知らせが入り、《香菜里屋》へと出かけた。
中身は極上の馬刺しであった。
「わが背表紙の友に」とあり、発送は馬肉販売店からで、依頼者は不明だった。
これはあなた宛で、送り主は浜口氏ではないかと工藤はいう。
山田風太郎作品の顛末を、浜口氏が会話を操作して、聞きだそうとしていたように思えてならないと。
浜口氏はあなたに、あのいたずらを思い出して欲しかった・・・。
平積みなどほとんどない地方の古書店、書籍は棚ざしで、客に見えるのは常に背表紙・・・。
後日雫石の旅館で肉体労働に勤しむ東山の元に、「背表紙の友」から手紙が届けられた。
浜口敬からであった・・・。
『終幕の風景』
久しぶりにやってきた《香菜里屋》。
なぜだかわからないが、違和感を感じた。
別になにも変わったところはないようだが、しかし名物の「タンシチュー」と、メニューが消えていた。
このことを聞いた《プロフェッショナルバー香月》の香月圭吾が、表情を変える。
あの「タンシチュー」は、二人が修業していた店の経営者、「親父さん」と呼んでいた人物からの直伝。
その「親父さん」の娘「香菜ちゃん」から、《香菜里屋》の名が生まれた。
「香菜ちゃん」が帰るべき古里。
「親父さん」が亡くなる直前、小さな不幸が店を襲い、傷は見る間に広がり、結局、店は消滅した。
以外にもいろいろあり、「香菜ちゃん」はひどく傷つき、二人の前から完全に姿を消してしまった。
そのときから工藤は《香菜里屋》で「香菜ちゃん」を待ち続け、彼女の帰還をひたすらに願う男となった。
《香菜里屋》からメニューを消し、タンシチューが消えた、そして店の空気が変わったのは、いつに増して丁寧に掃除をしたから・・・。
工藤はいったいなにをするつもりなのか?
「わからない」
なにもかも承知の顔つきで、香月がいった。
待ち人現るか・・・。
《香菜里屋》で香月への手紙を書き終えた工藤の前に、片岡草魚こと魚澄草樹が現れた。
久しぶりにやってきた《香菜里屋》に、妙な違和感を覚えたあの客である。
ワールドビールを二人で飲み少し語らい、草魚は姿を消した。
店を閉め鍵をかけた工藤を、嘗ての《香菜里屋》常連客たちが見送る・・・。
工藤哲也はみなに向かって、深々と頭を下げた。
長い間のご贔屓、本当にありがとうございました。
『香菜里屋を知っていますか』
雅蘭堂・越名集冶のところに、奇妙な風体の男が現れた。
デニムパンツにタートルネックの黒いセーター。アウトドア用のジャケットにニットのキャップ。
なににしても、まとっている空気が異質、年齢不詳でとらえどころがない。
《香菜里屋》は何故閉店したのか?工藤哲也はどこに行ったのか?その男は知りたいようだった。
三軒茶屋の商店街を、聞き歩いたようだ。
その男は、冬狐堂・宇佐見陶子の前にも現れた。
更に、東敬大学準教授・蓮丈那智の研究室にもやってきた。
だが工藤を一番よく知る、《プロフェッショナルバー香月》の主、香月圭吾の前には現れない。
何故ならその男は、香月とは絶対に顔を合わせたくないから・・・。
男の名は時田雅夫。
嘗て工藤哲也と香月圭吾が修業していた店で、同じく働いていた。
そして店主の愛娘「香菜」に横恋慕を抱き、彼女が慕う工藤を陥れ、その店を消滅させた男・・・。
工藤の側には「香菜」がいるはず、執拗に時田は彼女の後を追う・・・。
最後は、北森ワールド人気キャラ三名が締めくくる。
著者は【狂乱廿四孝】で第6回鮎川哲也賞を受賞し、本格的に作家としてデビューした。
そして《香菜里屋》工藤哲也シリーズとなる、【花の下にて春死なむ】で第52回日本推理作家協会賞短編及び連作短編集部門を受賞し、ミステリー作家としての地位を確立した。
工藤哲也の哲也は、重鎮鮎川哲也氏から引用したかもしれない。
もしかしたら、氏の「三番館シリーズ」をモデルにして、「香菜里屋シリーズ」は生まれたのではなかろうか?
今回最終章となり、自身の出世作との決別に、オマージュ的要素が濃いように思えた。
「鯛のかぶとの良いところが入っていますが」
「中華風の清蒸(チャンジョン)はいかがですか。香菜(シャンツアイ)がないので芹になってしまいますが・・・」
《香菜里屋》はどこかで始まっているはず・・・。