1994年2月28日初版一刷発行
「寝ていた女」
俺は同僚の片岡に部屋を貸してあげた。
ホワイト・デーに恋人とのデートに、ホテル代を浮かせたいという。
その相手は部下の広江だということも知っている。
片岡はその後何度か俺の部屋を借りていたが、別に二人とも同じようなことになってしまった。
まるで「アパートの鍵貸します」だ。
三か月後のある日、いつものように車のなかから、自分の部屋に戻った。見知らぬ女が寝ていた。
女は居座りを決め込んだ。俺は動転して…。
「もう一度コールしてくれ」
ノボルが俺のアパートに電話をかけてきたのは、三日前だった。
ノボルは俺が働いているパチンコ屋の斜め向かいにある、賭麻雀屋の店員をしている。
(ただし、ちょっとヤバイ橋を渡ることになるけどな)
会ってから詳しく話すとのこと。
大金を持った婆さんがいる、というのがノボルの話の出だしだった。
独り暮らしで近所付き合いも少ない。
おまけにその大金を銀行に預けず、いつも家の中にしまいこんでいるという…。
「死んだら働けない」
この四月に大学を出て入社したのは、自動車部品にかけては日本でも三本の指に入るというメーカーだ。
一カ月の教育期間の後、俺たち大卒新人社員約三百名は各部署に配属された。
俺は本社の生産設備開発部というところに連れていかれた。
ここは要するに、工場の生産設備を作る部署である。
そのなかの第二システム課というところが、俺の配属先だ。
課長の下に係長が二人、平社員が俺を含めてちょうど十人という、こぢんまりとした部署だった。
俺の面倒を見てくれることになったのは、林田さんという係長だった。
一カ月経ったころ、人事部から不吉な通知が届いた。
大卒新入社員を現場実習に行かせる、という内容だった。
本来の業務のためにも新人はぜひ現場を肌で知っておく必要がある。
そのためには一般従業員に混じって働くのが一番、というような能書きがそこに書かれていた…。
「甘いはずなのに」
私と尚美の新婚旅行の行き先はハワイだった。
二人ともハワイは初めてではなかった。
私は四度めで、尚美は二度めだ。
にもかかわらず新婚旅行の行き先に迷わずここを選んだのは、あまり派手にしないでおこうという方向で意見が一致したからだ。
派手にできない理由はいくつかあった。
一つはこちらが再婚だということだった。
私は現在三十四歳だが、二十六のときに一度結婚している。
そのときの妻は、三年前に交通事故死したのだ。
そしてもう一つの理由は、私とその最初の妻との間にできた娘も最近死んだばかりで、まだ心の底から幸福に浸れる気分ではないということだった…。
「灯台にて」
部屋の模様替えをしていたら古いアルバムが出てきた。
いや、出てきたというのは適切じゃない。
このアルバムの存在は、いつも私の頭の中にある。
どこに隠してあるのかを忘れたことなど一度もない。
書斎机にそれを載せ、慎重に頁をめくった。
問題の頁が出てくると私は手を止めた。
そこには写真と新聞の切抜き記事が貼ってある。
写真に写っているのは、白い灯台だ。
あれからもう十三年になる。
この四月で私は三十一になったし、佑介は三十二になったはずだ。
しかしあのことを誰かに話すわけにはいかなかった。
たとえ今も明瞭に思い出せる出来事ではあっても、だ…。
「結婚報告」
ある日突然智美のもとに、典子から結婚報告の手紙が届いた。
相手は山下昌章という新潟出身の一つ上の男性だった。
同封されてる二人の写真を見て、智美は男性のほうは、いわゆるハンサムではないが、長身だし、目を細めて笑った顔は人なつっこい印象を与える。
女性のほうを見て智美は愕然となる、典子とは別人の女性が写っていた…。
「コスタリカの雨は冷たい」
会社の命令で、僕がカナダのトロントに赴任することになったのは今から五年前だ。
海外赴任をずっと希望していただけに、僕も妻のユキコも飛び上がって喜んだ。
トロントではノースヨーク地区に家を借りた。
海外勤務を望んでいた理由としては、狭い日本に閉じ籠ったままで一生を終えたくないという思いが第一だが、もう一つ、外国の鳥を見たいと前から考えていたことがある。
日本国内の野鳥に関しては、ほとんど見つくしたと自負しているのだ。
ヤンバルクイナだって、この目でしっかりと見ている。
それでこれからほとんど海外の野鳥を見てやろうと、思いを新たにした矢先のことだった。
特にカナダというのが僕を舞い上がらせた。
自然の宝庫、頁数の尽きない自然百科事典みたいな国だからだ。
やがて五年が過ぎ、つい先日本社から、帰国の準備をせよという旨のファックスが届いた。
僕たちはがっかりしながら、最後にどこかに旅行しようと話し合った。
コスタリカに行こうといいだしたのは僕だ。自然の王国といわれるこの小国に、前から行ってみたかったのだ…。