S時代、Sのゴシップ記事が書かれている週刊誌は「見るな、買うな」と言われた。
それがネットに移行すると、やっぱり「ネットは見るな、ネットはデマばかりだから」になった。
いやいやガン見しますよ?悪い?
すると今度は
「一流の文豪の良書を読むならともかく、そんな三流記事を読む人は三流」とか「弱いね」と人格否定や脅しをかけてきた。
いやいや週刊誌やネットを読んだくらいで人って三流になるの?他人を三流扱いするオマエって一流なの?
不都合が書かれていて、ツッコまれたら困るからでしょ?
言い返されて困るようなことが書いてないなら堂々としてればいいじゃない?
皆はそう言ってアンチ記事を容赦なく読んだ。
一方でSの新聞や書籍も、賛同者だけが読むという好都合ではなくなってしまった。
「三流ではなくてデタラメは書かないというSって、こんなこと言ってますけど?」
それらはアンチからスルーされることなくコピペされて、拡散されて、ツッコむために読むという新しい読み方がされ始めた。
自分の書いたものは賛同者からしか読まれず、自分の批判は皆が皆スルーしてくれるという都合のいい時代は終わった。
情報は選びやすい時代になったと思う。
そんな昨今、今度は「スルースキル」という言葉が生まれた。
「こんなの読むなんて三流だね。弱いね」の代わりに、
「スルースキルないね。粘着だね」と、同じような人格否定に使われたりする。
かつて「読まれて不都合がないなら堂々としてればいいじゃん」と言っていた人たちが自分が言われると一転、同じことを言うんだなあと思う。
いやいやガン見しますよ?( ̄∇ ̄)
ネットを見たくらいで他人を「三流」とか「弱い」とか「粘着」とかいうオマエは、一流で強くてさっぱりしてるの?
不都合が書かれてないなら堂々としればいいじゃない( ̄∇ ̄)
他人を貶めようとか騙して金儲けしようとか、なんらかのやましさを持って書いている人は、その分ツッコまれますよ。
当事者はもちろん、皆が皆そう都合よくスルーはしてくれないよ。
あくまで「やましいことを書きたい」のならそれは一蓮托生。
書くのは自由だけどそれ以上の説得力で反論される、できる時代になったことは、私は悪くないと思っている。