珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

チョイス4

2020-04-11 | S教団関係
交通事故に遭って足を骨折しても、絶望する人と「脊髄損傷とか頭じゃなくて足の骨折で済んだ。超ラッキー」と思う人がいる。
ラッキーと思える人が断然よい。
こんなことはよく聞くし、これは私もその通りと思う。
ここに「自分の信じているナンチャラのお陰」という添加物が入らないだけで、考え方は賛同する。

娘が小さい時、ある日スーパーで買ったいちごのパックが固い素材のものだった。
それをレジ袋の一番上に乗せて自転車のカゴに積んで、何気にハンドルを動かしたその時。
そばに立っていた娘の目元にそのパックの角が触れて、ざっくり切れてしまった。
慌てて病院にいったら縫うくらいの傷だったけど、私はそれがギリギリ眼球からそれたことに本当に感謝した。
その時私はまだS会員で、婦人部のおばちゃんに「守られたね」と言われた。

今思っても「守られた」というか、守られたというニュアンスには反発しない。
何に守られたのかはわからないけど、でも何かに感謝したい気持ちは変わっていない。

何を信じても誰のお陰と思っても、いいように考えられるならいいんじゃないかな。
少なくともそんなところはバカにはしたくないと思う。
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求む(改定)

2020-04-11 | コロナ騒動
コロナ騒ぎで私が腑に落ちた記事が発信されているのは、それは理系というか「科学者」と呼ばれる人の発信するサイトだった。
そして私が知らないだけかもしれないけど、それらは例えばヤフーニュースの影響に比べればずっと少ない気がした。

メディアは書いたり喋ったりして伝えることが専門だから人を注目させることや、惹きつけてくすぐるのが抜群に上手いと思う。
(人気タレントの言葉を広告のように使うとかね)
でも、今回の騒動ではなかなか納得する内容にお目にかかれない。

書かれていることの多くがあまりにも人間よりというか、
ウイルスとはこういう性質というものや、人との共存という視点から書かれているものが極端に少ないというか、
そういうものは面白いのに地味に書かれているというか、
下世話に書かれている膨大な書き込みの下に埋もれてしまうというか…

私はある時期から「曖昧をズバズバ書く」ということを、強く意識した。
「曖昧がいかに大事で白黒が危険かを、曖昧じゃなく明瞭に書く」という、私にとってはかなりの難易なチャレンジだった。

それはある程度(自分の中では)やったと思うけど、今興味があるのは、
「ありのままを、煽るでも盛るでもなし、でもメディアのように貪欲に、エンタメに発信している人」である。

面白さがなければ読んでもらえないし、真に受けてもらえないし、確固たる事実をマジメくさった発信をしても聞いてもらえない。
これは重要と思う。
くすぐりどころを知りつつ、感情的でない情報を発信するのは「理系だの文系だの」に偏っていてはいけないなあと思う。

以前、「人類の歴史」と「ウイルスやその他の歴史」を分断させるのは疑問という記事を書いた。
人類ではない歴史は「理科」の分野にして、人類のそれと切り離すのは違うと思う。
結果、変に文系、理系と別れてしまうというか、サイエンス的な観点から書ける文系な記者?の記事が少なくなるのだろうか。
自然も生物も人類も一体である観念を持った、それでいて人類が好んで読む発信をする人を私は求めるし、信用したい。
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