珈琲一杯分の話

2018年2月26日スタートのただのボヤキカフェです。
毒とユーモアを楽しんで頂ければ幸いでございます。

バリ活VSユル活 番外編

2020-04-16 | S教団関係
「バリ活VSユル活」
この記事を始めて書いたのはもう4年前(訂正)で、前ブログの前半の記事だった。
一部で反響があったけど、それは私自身がどうでどっちを敵視のように見ていたという話ではなくて、いろんな書き込みを見て知ったことを書いただけである。
記事が残ってないのは残念だけど、だから私自身のことは一言も書いていない。
その記事には自称ユル活?のコメントが来て、バリ活に対してまさにVSな書き込みがされた記憶はあるけどね。

後に私が何も言ってないのに、今度は自称バリ活?らしき人から、私へVSな書き込みがあったのでこの記事を書いた。
「バリ活VSユル活 完結編」
https://blog.goo.ne.jp/kaishidosisters2018/e/77c010ac6ae2c17725468a0be81b31fb

このちょっとしたつつき合いは、時がたってもしばしばやりたい人がいるようである。
本当に4年前に見たことがまだ続いているんだなあと思う。

では、改めてチョイ信チョイ活(部分バリ活?)だったらしい私から一つだけ申すとしたら。
「やりたくないことはやらなかった」というのは「自分の中で違和感のあることはやらなかった」という意味である。
So What?
それは今も昔も、何に対しても変わっていない。
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信じられないこと

2020-04-16 | 日記
S時代、何か違和感があって質問した時、とても丁寧に親身になって答えてくれる幹部の人はたくさんいた。
私の経験上、無視されたこともはぐらかされたこともなくて大変よろしかった。
が、今思うと全部それはこれは絶対という押しても引いても動かない「ありき」があってのことだった。
その「ありき」に沿ってならば、人によっては矛盾も澱みもない明瞭明快なアンサーをくれた。

ごちゃごちゃ言う人も、やり方がどう、組織がどう、誰それがという枝葉に文句を言ってるだけで、ありきは絶対だった。
ありきがそもそも間違いなんてことは、万に一つもあり得なかった。
信じるってそういうことなんだよね。

コロナウイルスが「数々のウイルスの中で世界中を巻き込んだくらいなんだから特別に怖くて厄介。ここまで重篤に騒いで正解」という、おそらく正しい、動かしがたい絶対の事実、前提、ありきが、今回私の心の奥底には何故か、どうしても入ってこない。
違う景色になったスーパーを見ても、テレビが煽っても、少なくとも人を怖がらせようとする人の言葉はいくら重ねてられても響いてこない。
何かにひっかかる…そんな気がどこかにしてならない。

いやホントに自分でもまいった。
世界中で信じられていることが私には信じられないという、無力感のような疎外感のような絶望感のような……

その正体は、おそらく、突き詰めれば、私の大事な娘と夫の日常を変えたという反発心だろうか。
報道のされ方が納得いかないからだろうか。
ウイルスそのもにではない、何かに乗せられているような強い違和感。

信じるということは誰にもどうしようもないけど、「信じられない」というのも同じく致し方ないもんである。
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