70年代初めと言えば、深夜ラジオが大ブームだったんです。
ちょうどフォークソングが社会現象を起こすほどの人気で、それまで局アナが担当だった深夜放送のDJも、フォーク歌手たちにとってかわりました。
団塊の世代の方たちはまさに青春まっただ中の時代だったですね。
関東の人気番組と言えば
ニッポン放送「オールナイトニッポン」(カメちゃんはいまや社長!)
文化放送「セイ・ヤング」(若いぞ、みのもんた!)
TBS「パック・イン・ミュージック」(那智とチャコの声優コンビ)
関西は
毎日放送「ヤングタウン」(鶴光とスミさんのコンビが一番印象的)
朝日放送「ヤングリクエスト」(途中にキダタローのコーナーがあった。友達が出ました)
ラジオ大阪「ヒットでヒット、バチョンと行こう」(いまや伝説?浜村淳の木曜日)
…が有名でした。
しかし、大阪の中学生だったにも関わらず、私は京都の近畿放送(現KBS京都)を毎日聴いていたんです。
AM放送なんてただでさえ音が悪いのに、大阪から京都の放送を受信するから余計にひどくてね。雑音入るんですわ。ウィ~とかキ~とか。
それでもなんで聴いてたかって言うと、素晴らしい番組をやってたんですよ。月曜から日曜まで。つまり休みなしでぶっ通し。
番組の名前は「ミュージック・オン・ステージ」。
深夜2時から5時、つまりもう午前の放送なんですけど、特定のミュージシャンのアルバムをまるまる流すんです。
局アナらしき女性がそのアルバムの簡単な解説と曲名を読み上げたら、あとは曲を流しっぱなし。
余分なトークは一切なし。とにかく曲オンリー。
もっ、最高でした。
曜日によってジャンルが違ってました。
月曜…英米ロックの新作
火曜…日本のロックとフォーク
水曜…ジャズ
木曜…イージーリスニング
金曜…ビルボードTOP100(キャッシュボックスだったかもしれない)
土曜…英米ポップス
日曜…英米ハードロック
中学生にとってアルバムは高価でなかなか買えるもんじゃなかったですから、この番組は本当にありがたかった。
なんと言っても、音楽だけを聴けるのがうれしかったですね。
DJのトークなんかも、まあ、あった方がいい場合もありますが、それならそれで上記の番組を聴いてればいいわけで。
大阪の三大番組は毎日聴いてました。なつかしいなあ。
ところで当時の京都は、大学が多いせいかもしれないですが、ロックが盛んな街でした。
たまに河原町へ行ったりすると、いかにもロックな風貌のお兄さんたちが歩いていたものです。
ロック喫茶やライブハウスも人口の割合からするとずいぶん多かったんじゃないかな。
有名なところでは「磔磔」とか、百万遍の「サーカス&サーカス」とか。外道が磔磔でのライブ盤を出してたような気がしますが、どうだったかなあ。
木屋町のジャムハウスは入りやすくて好きでしたね。
高校時代、京都へ行くと必ず寄ってました。
大学時代は京都に住んでたんですけど、近くなれば逆に「いつでも行ける」と思うせいか、ほとんど行かなかったです。
MTVが日本で放映されるようになるずっと前、すでに京都のテレビ局は「ポップス・イン・ピクチャー」という、海外ミュージシャンのPV番組をオンエアしていました。
おそらく日本初のPV番組ではなかったでしょうか。
ロックのPVが見られる貴重な番組ですから、毎週みてました。
まだビデオなんて一般家庭に普及してなかった時代なので、見逃すともう水曜日の11PMでスポット的にしかみられません。
何が何でもみてましたよ。
その後、全国放送になったのですが、ベイシティローラーズ全盛期に伝説の雑誌「ロックマガジン」の編集長だった阿木譲が出演して、ローラーズのことをボロカスに言ったんですね。
あれは面白かった。
なんせローラーズ全盛期ですからね~。勇気あるなあと。
案の定、局には抗議が殺到したそうです。
京都は伝統的なイメージを持たれがちですが、非常にリベラルな街でもありました。
でも大学時代(80年代)に住んでた京都は、70年代の先進的な街とは違ったような気がしました。
ずっと後に、同世代だったボ・ガンボスの「どんと」(どんとは岐阜の大垣から京都大学へ進学した秀才)が宝島誌でみうらじゅんと対談してたのですが、彼も同じような印象を語ってたんですね。
みうらじゅんは「その頃は京都が一番おもしろくなかった時代」と言ってました。
ラジオの話に戻りますが、「ミュージック・オン・ステージ」が始まる前の午後11時からは「日本列島ズバリリクエスト」通称ズバリクという番組をやってまして、それもよく聴いたものです。
尾崎千秋と諸口あきらが日替わりでDJをやっていて、尾崎千秋の日に投稿が読まれたこともあります。
諸口あきらもこのあとオールナイトニッポンに出て全国区になったんでしたね。
…って、私は中学生だったのに毎日朝までラジオ聴いてたことになりますね。
今思うとヤバいな、こりゃ。
ちょうどフォークソングが社会現象を起こすほどの人気で、それまで局アナが担当だった深夜放送のDJも、フォーク歌手たちにとってかわりました。
団塊の世代の方たちはまさに青春まっただ中の時代だったですね。
関東の人気番組と言えば
ニッポン放送「オールナイトニッポン」(カメちゃんはいまや社長!)
文化放送「セイ・ヤング」(若いぞ、みのもんた!)
TBS「パック・イン・ミュージック」(那智とチャコの声優コンビ)
関西は
毎日放送「ヤングタウン」(鶴光とスミさんのコンビが一番印象的)
朝日放送「ヤングリクエスト」(途中にキダタローのコーナーがあった。友達が出ました)
ラジオ大阪「ヒットでヒット、バチョンと行こう」(いまや伝説?浜村淳の木曜日)
…が有名でした。
しかし、大阪の中学生だったにも関わらず、私は京都の近畿放送(現KBS京都)を毎日聴いていたんです。
AM放送なんてただでさえ音が悪いのに、大阪から京都の放送を受信するから余計にひどくてね。雑音入るんですわ。ウィ~とかキ~とか。
それでもなんで聴いてたかって言うと、素晴らしい番組をやってたんですよ。月曜から日曜まで。つまり休みなしでぶっ通し。
番組の名前は「ミュージック・オン・ステージ」。
深夜2時から5時、つまりもう午前の放送なんですけど、特定のミュージシャンのアルバムをまるまる流すんです。
局アナらしき女性がそのアルバムの簡単な解説と曲名を読み上げたら、あとは曲を流しっぱなし。
余分なトークは一切なし。とにかく曲オンリー。
もっ、最高でした。
曜日によってジャンルが違ってました。
月曜…英米ロックの新作
火曜…日本のロックとフォーク
水曜…ジャズ
木曜…イージーリスニング
金曜…ビルボードTOP100(キャッシュボックスだったかもしれない)
土曜…英米ポップス
日曜…英米ハードロック
中学生にとってアルバムは高価でなかなか買えるもんじゃなかったですから、この番組は本当にありがたかった。
なんと言っても、音楽だけを聴けるのがうれしかったですね。
DJのトークなんかも、まあ、あった方がいい場合もありますが、それならそれで上記の番組を聴いてればいいわけで。
大阪の三大番組は毎日聴いてました。なつかしいなあ。
ところで当時の京都は、大学が多いせいかもしれないですが、ロックが盛んな街でした。
たまに河原町へ行ったりすると、いかにもロックな風貌のお兄さんたちが歩いていたものです。
ロック喫茶やライブハウスも人口の割合からするとずいぶん多かったんじゃないかな。
有名なところでは「磔磔」とか、百万遍の「サーカス&サーカス」とか。外道が磔磔でのライブ盤を出してたような気がしますが、どうだったかなあ。
木屋町のジャムハウスは入りやすくて好きでしたね。
高校時代、京都へ行くと必ず寄ってました。
大学時代は京都に住んでたんですけど、近くなれば逆に「いつでも行ける」と思うせいか、ほとんど行かなかったです。
MTVが日本で放映されるようになるずっと前、すでに京都のテレビ局は「ポップス・イン・ピクチャー」という、海外ミュージシャンのPV番組をオンエアしていました。
おそらく日本初のPV番組ではなかったでしょうか。
ロックのPVが見られる貴重な番組ですから、毎週みてました。
まだビデオなんて一般家庭に普及してなかった時代なので、見逃すともう水曜日の11PMでスポット的にしかみられません。
何が何でもみてましたよ。
その後、全国放送になったのですが、ベイシティローラーズ全盛期に伝説の雑誌「ロックマガジン」の編集長だった阿木譲が出演して、ローラーズのことをボロカスに言ったんですね。
あれは面白かった。
なんせローラーズ全盛期ですからね~。勇気あるなあと。
案の定、局には抗議が殺到したそうです。
京都は伝統的なイメージを持たれがちですが、非常にリベラルな街でもありました。
でも大学時代(80年代)に住んでた京都は、70年代の先進的な街とは違ったような気がしました。
ずっと後に、同世代だったボ・ガンボスの「どんと」(どんとは岐阜の大垣から京都大学へ進学した秀才)が宝島誌でみうらじゅんと対談してたのですが、彼も同じような印象を語ってたんですね。
みうらじゅんは「その頃は京都が一番おもしろくなかった時代」と言ってました。
ラジオの話に戻りますが、「ミュージック・オン・ステージ」が始まる前の午後11時からは「日本列島ズバリリクエスト」通称ズバリクという番組をやってまして、それもよく聴いたものです。
尾崎千秋と諸口あきらが日替わりでDJをやっていて、尾崎千秋の日に投稿が読まれたこともあります。
諸口あきらもこのあとオールナイトニッポンに出て全国区になったんでしたね。
…って、私は中学生だったのに毎日朝までラジオ聴いてたことになりますね。
今思うとヤバいな、こりゃ。