ROCK & CINEMA DAYS

映画とROCKと猫が大好きです

コロナが他人事だった頃の大阪メモリー

2020-04-13 23:57:00 | 大阪
私のスマホ・XPERIAは、前月に保存した画像を30秒ほどのBGMつきのストーリーに自動編集してくれるサービスがあります。
これは1月末に大阪で撮った画像を繋げたもの。お寺で寛ぐ野良猫たちや、新しくなった梅田の泉の広場。
武漢でコロナというウイルスが流行しているらしいね、と言う程度だった頃。
わずか2ヶ月半前です。再びこの風景が見られるのはいつのことでしょう。まさかもう…。



阪急ファイブの思い出(HEPじゃないよ)

2016-09-02 14:31:00 | 大阪

大阪の梅田に、70年代から80年代にかけて存在していた
ファッションビル「阪急ファイブ」。


今は「HEP FIVE」という大きなビルに建て替えられて
屋上には観覧車もあります。
HEPができたのは私が大阪を離れてからなので
行ったことはないのですが。


もう覚えている人も少なくなってきたであろう阪急ファイブ。
オープン当時、私は小学生で
テレビCMが頻繁に流れていたのを記憶しています。
締めのフレーズは「はんっきゅう ふぁ~いぶ♪」でした。


私はミナミの文化圏に住んでいたのて
キタにある阪急ファイブに行き始めたのは中学生になってから。
ミナミはのちに「なんばCITY」という巨大ショッピングモールが登場して
ミナミを若者商圏の中心にする立役者となりましたが
それまでは、「キタ>ミナミ」って感じでした。
キタはおしゃれ・洗練されていて、ミナミは泥臭い・もっちゃりしてるってイメージ。
なんせ、なんばCITYがオープンした時のキャッチコピーが
「CITYは南へ移る」でしたからねえ(笑)。


と、当時の文化事情をふまえた上での話。
初めて行った阪急ファイブは、そりゃもうおしゃれなショッピングビルでした。
確か5階建てだったから「ファイブ」という名前だったのかな。
あの頃、あんなおしゃれなビルはなかったですね。
さすが阪急グループ。


何階だったか覚えてないんですけど
時間によって天井の色が変わるフロアがありました。
時報の代わりだったのかな。
鐘の音とともにサアーッと色が変わるの。
きれいでしたねえ。


駸々堂書店という大きい本屋さんが入っていて
ここは結構マニアックな品揃えだったんですよ。
マンガの種類が豊富なことでも有名でした。
今はファッションビルに本屋さんが入ってもすぐ撤退してしまう傾向ですが
ここはよく利用しました。


大月楽器店というレコード屋さんもあって
年末にレコード買うとビートルズのカレンダーがもらえました。
ここでエアロスミスのペンダントももらいましたね。
まさかエアロスミスが時代を超えたビッグバンドになるとは予想だにしなかったです。


そして原宿発祥のレディスブランド「CABIN」。
この頃、CABINのキャラクター「アンディ」がプリントされたTシャツが全国で大流行。
大阪ではCABINの店は阪急ファイブにしかなく
全大阪女子(笑)が集結してました。
私も買いましたねえ。
アンディのシャツ着てるだけで「かわいーっ!」と賞賛された時代でした。


そして80年代になった瞬間
降って湧いたようなDCブランドブーム。
ブーム以前から阪急ファイブの地下2階はDCブランドのフロアでしたが
それまで一部のオサレ人間しか行かなかったフロアが
連日大盛況となりました。
私が覚えているだけで
コム・デ・ギャルソン
BIGI
ニコル
Y's
ピンクハウス
メルローズ
イッセイミヤケ
...........
まだあったと思います。


上の方の階に
「オレンジルーム」という小ホールがあって
劇団や落語などのイベントに使用されてました。
「オレンジルーム寄席」というラジオ番組もありましたよ。


時は流れ
大人になってからのある日
阪急ファイブへ行ったら
なにやら様子がおかしい。
いつもファイブへは地下街から入ってたんですが
中の通路の両壁が
まるで工事現場のように白い布で覆われていました。


壁には貼り紙がしてあり
「ファイブから立ち退きを要求されているが
拒否している店舗だけで営業しています」
との内容が書かれていました。


目当ての店も撤退していたので
そのまま出てきましたが
ショックでしたねえ。
そうなんやー。ファイブなくなるんかー。


初めて来た日のことから
鐘の音とともに色の変わる天井
駸々堂でアメリカの洋楽雑誌を買ったこと
大月楽器でカレンダーもらったこと
ベンチでたまたま隣に座っていた3歳ぐらいの子と遊んだこと
ニコルでド派手なワンピース勧められたこと


いろんな思い出が駆けめぐり
それからファイブに行くことは永遠にありませんでした。


ファイブを出てすぐのところにあった
「キューピット」というロック喫茶。
店頭にテレビモニターが備えてあり
海外ロックミュージシャンのPVを流していました。
いつも入りたいと思いつつ
勇気がなくて結局入らずじまい。
入ってみたかったなあ。


えべっさん

2014-01-12 00:54:00 | 大阪
1月9・10・11日は「十日えびす」。
商売繁盛のお祭り。




大阪で生まれ育った私は
子供の頃から毎年
父親に連れられて
今宮戎神社へお参りに行ってました。




「♪年の初めのえべっさん
   商売繁盛で笹持ってこい」




このフレーズがエンドレスで流される中
お賽銭を投げて拝む人
コンテストで選ばれたきれいな福娘さんたちから笹やおみくじを買う人
屋台で食べ物を買う人




人 人 人




大混雑でなかなか前へ進めない
たくさんの、ほんとにたくさんの人の波。
神殿の賽銭箱までは全然たどりつけないので
境内のあちこちに、お賽銭を入れる大きな菰樽が設置されていました。





「七福神の中で、えべっさんだけが日本の神様なんやで」
「えべっさんは耳が遠いから、大きな声でお願いせな聞こえへんねんで」




父が教えてくれました。
何度も何度も同じ事を言うので
「知ってるて!もう100回ぐらい聞いたわ!」
と憎まれ口を叩くと
「100回はないわ~。せいぜい68回ぐらいやろ」
と言い返してきた父。
なんやんねんそのハンパな数字は~。




結婚して大阪から離れた私。
嫁ぎ先は自営業。
そして1月9日に長男が産まれた時



「商売屋の子がえべっさんの日に産まれて縁起がええなあ」




にこにこして長男を見つめていた父。




その父が亡くなったのが
11年前の1月。
十日えびすが終わってから
力尽きて。




また命日が近づいてきたから
大阪へ行くか。





孫たちはもう成人したよ。





スイートホームタウン「大阪」

2013-01-31 20:24:00 | 大阪
きのうは父の命日。もう10年たちました。

こんな時ぐらいしか大阪にも行けないので、日帰りで行ってきましたby近鉄特急。

昨年は新幹線、おととしは車、その前は高速バス。

毎年違う交通手段で行ってます。選択肢が多くていいのか悪いのか。



去年よりもIT化が進んだ私。

荷物が何やら増えてしまいました。







スマホを持たず、ガラケーでしかもパケット定額でもない最安料金のプランの私。

外出先でネット利用するには、これらの機器が欠かせません。

これにモバイルバッテリーチャージャーと財布を加えて、文字通り七つ道具。

日帰りだからバッテリーチャージャーは不要だと持っていかなかったのですが

帰りの電車でWiMAXが電池切れ(笑)。





父を納骨させていただいているお寺は

大阪・四天王寺にあるとても大きなお寺です。

宗派を問わず納骨を受け入れていて

年中無休で「おせがき」を受け付けてくださっています。

土日などは大混雑で、かなり待つのを覚悟しなければなりません。

きのうは平日でしたが、それでも30分待ちました。






このお寺は、境内と本堂の中にライブカメラが設置されていて

HPから見ることができるんです。

お寺で「おせがき」の受付をしようと思ったら

境内で三毛猫が鎮座しているのを発見。

私と目があった三毛ちゃん、なんと寄ってきて私の脚にスリスリ。






猫好きさんならおわかりでしょうが

こうなると動けませんね(笑)。

約10分間このままでした。



2年前にここへ来たときもみかけたこの三毛ちゃん。

その時は、私の飼っていた三毛の子猫が死んだ2日後だったので

(「子猫Pちゃんの最期~ごめんねPちゃん」http://star.ap.teacup.com/ladystardust/131.html

生まれ変わり?とうれしかったことを覚えています。

おそらく野良猫なんでしょうが、丸々として毛つやも良く、きれい。

お寺でかわいがられているんでしょうね。

写真を撮っている人もいました。

来年も逢えるといいな。






お寺を出たら、いつもは天王寺まで歩いて地下鉄に乗り

ミナミやキタに出てブラブラするのですが

今回はチンチン電車に乗って私のホームタウン・住吉へ行こうと思いました。

乗り場の「恵美須町」駅は、みなさまご存じの「アレ」がある所です。






「アレ」です。

大阪と言えば通天閣ですね。これは外せません。

桑名正博の「スイートホーム大阪」の歌詞にも出てきます。

NHKの朝ドラ「ふたりっ子」ですっかり観光地化された感があります。

ずっと昔は、地面に寝ころんでいる人を当たり前のように見かけましたが

今はまったくいらっしゃらないです。

このすぐ近くには、いま橋下市長で話題になっている

天王寺動物園があります。





そしてチンチン電車に乗ります。

あーもう、なつかしいなあ。

どんだけ長いこと乗ってないっちゅーねん。

ワンマンカーじゃなくて、車掌さんが乗ってた頃を思い出すわ。

冷房が設置されたのはかなり遅かったんで

夏は避けてましたねえ。

もちろん今は設置されてますよ。

みなさん、ぜひ乗ってください。



東粉浜駅で降りて、粉浜商店街をぶらぶら。

この商店街は昔から続いているお店がたくさんあってホッとします。

子供の頃からコロッケが超有名な肉屋さんも。

辰巳琢郎さんが警察署で剣道を習っていた子供時代、

練習帰りによくここのコロッケを食べていたと雑誌に載っていました。

このあたりの人たちは、このコロッケで育つんです(笑)。

しかしこの商店街、お菓子がめっちゃ安い!

お菓子屋さんだけでなく、ドラッグストアが激安で売るので

「ここでお菓子売るのって大変だろうな」と、自営業目線に。






粉浜商店街を抜けると、大阪人のパワースポット、住吉大社。





真ん中の橋は通称「たいこ橋」と呼ばれ

その昔、淀君が寄進したとされています。

小学校の体育の授業で長距離走をやる時は、住吉大社を走りました。

このたいこ橋も走って渡るんです。

この橋が結構急な勾配で、下りる時怖かったですよ。

今は歩行場所がかなり短くマシになりました。




大阪みやげと言うと「551の豚まん」「りくろーおじさんのチーズケーキ」が定番ですが

住吉大社に行ったら、ぜひ「喜久寿(きくじゅ)」の和菓子をおみやげにどうぞ。

ここは「どら焼き」が有名なんですが

この「おひねり」もオススメです。

栗がごろんと入った小さい羊羹。

この手のお菓子は、おうおうにして口の中がぱさつくものが多いですが

これはしっとりして、しかも栗がでかいと言うスグレモノです。

ちょっと高いですが、ばら売りもされてるんで、まずは1個から(笑)。






ぶらぶらしたホームタウンの日帰り旅。

住吉大社駅から南海本線でナンバまで。

車内で女子高生たちが大阪ワールド全開のガールズトークをかましていました。

ええなあ大阪。




近鉄特急に乗るまでの時間つぶしに、法善寺横丁へ。

「月の法善寺横丁」や、織田作之助の小説「夫婦善哉」で有名な場所です。

水掛不動さんにお参りする人は後を絶ちません。

大阪にいた頃は、抜け道としてしか通らなかった場所。

大阪を離れてからは、帰ってくるとここにお参りしてます。







最後は、ナンバの地下にある有名なたこ焼きのお店へ。

テイクアウトが主のお店で、イートインのスペースめちゃ狭い。

それでも大阪へ来たらたこ焼きは食べなあかん(笑)。

出るときに「ごちそうさま」って言うと、店員の若いお兄ちゃん

「おおきに!またお待ちしてますっ!」。



あー、大阪ええなあ。また来るわ。ほんま。 

井村雅代コーチ!びっくりした!

2008-08-25 20:00:42 | 大阪
ほんとにほんとにびっくりしました。
井村コーチ。いや、先生。

きのう北京オリンピックが閉幕し
ニュースもオリンピックのハイライト記事一色。
シンクロで中国に銅メダルをもたらした
日本の名コーチ・井村雅代さんの名前もよく出てきます。

ぼーっと見ていて
そういや中学の時
男の体育の先生で
井村っていうこわい先生がいたなあ。
スポーツ得意な人が多いのかな、井村って名前。

井村先生といえば
私が卒業してから
同じ体育の女の先生と結婚したって聞いたっけ。
○○先生だったな。

ぼーっと思い出して

○○先生…。
下の名前は雅代だった…

え?

うそぉ?

さっそく「井村雅代」で検索すると
井村コーチの画像が出てきました。

hihihihihihihihihihihihihihihihihihihihihihihihi

○○せんせ~~~!

まじっすか!?
いままで井村コーチっていったら
テレビで見る姿は
メガネをかけて選手を叱り飛ばしている場面ばかりで
顔をしっかり認識したことはありませんでした。
ましてや私は
旧姓でしか覚えてないし
まさか世界的名コーチが中学の時の先生だなんて想像できるはずもなく…。

ああああああ
○○先生が井村コーチだなんて。

さらに検索してみました。
大阪府立生野高校から天理大学に進み、卒業後、大阪の中学教師を経てシンクロ指導者となられたそうです。
公開競技として行われたミュンヘン五輪にも出場ですって。
あわてて中学の卒業アルバムをひっぱりだしてみました。
職員住所の欄には
「○○雅代 大阪市生野区…」

ガチでしょ、これは。

ええええええええええ
マジびっくり。

井村先生って言うよりも
旧姓の○○先生の方がしっくり来るんで
「○○先生」と書きますが
よく伝えられてるような
「叱り飛ばしてばかりのコーチ」ってイメージはないですね。
もちろん怒るとこわい先生でしたが
「体育の先生ならこんなもんでしょう」
くらいの怒り方だったんで
特にきびしいって思い出もなく
…まあ
学校の先生と世界レベルの選手を育てるコーチとを
比べるのが間違いですが
「あの○○先生があんなに叱り飛ばすとは…」
と、今思い起こしても不思議です。
どっちかっつうと
ご主人の先生の方が数倍怖かったですよ。

シンクロが正式に採用された84年のロサンゼルス五輪で
銅メダルをとった元好三和子さんも井村コーチの教え子ですね。
元好さんと私は小学校の同級生だったんですよ。
彼女も運動神経のいい人でした。
中学は別だったので、つきあいはなかったですが
いきなりロス五輪でメダルをとった新聞記事を見たときも衝撃でした。
彼女の場合は、珍しい名前だったからすぐわかりましたね。

○○先生、
中国がメダルとれてよかったですね。
バッシングがひどいでしょうけど
先生が名コーチだということが世界で認められましたよ。
いつか日本に戻ってきてください。