鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

さらば大隅郷土史

2021-03-02 18:56:11 | 日記
1月の半ば過ぎだったか、鹿屋市高須の「高須町歩きの会」とかいう会の代表者から「高須の歴史について話してもらえないか」というような電話を受けた。

突然のことで逡巡したのだが、向こうの言い方では「町歩きとは別の・・・」ということであった。よく分からないまま「いいですよ。ただし自分の専門は古代史なのだけれど」と返答したのだが、「それでもいいです。やって欲しい。3月の初めの頃です。」ということで話は終わった。

その後1か月半、何の音沙汰もなかったのでしびれを切らして3日前に連絡を入れたところ、「まだ日程は決まっていない。決まったら連絡する」ということだった。

しかし考えてみて欲しい。人にこれこれで話をしてほしいと依頼して来たのが1月の半ば、普通、人に何かを頼むとすれば会合に出て欲しいのなら少なくとも二週間とか前には「どこで、いつ、何を話して欲しい、こうして欲しい」と連絡するのが当たり前だろう。

それがしびれを切らしたこっちから3日前に連絡を入れたところ「まだに日程が決まっていない」と来た。いい加減だなア。

早速、断りの連絡を入れた。

おそらく大隅の歴史についての諮問に関して自分が出る幕ではないのは、大隅史談会には会長職を辞めてから属していないこと。文化財保護審議会委員でも何でもないこと。地元出身の郷土史家ではないこと、の三点がある故だ。

大隅史談会の会長職であった11年間に、一度たりと公的機関から呼ばれたことはなかったのもその証左だ。

よそ者の自分だからこうしたことがあるのだろう。「女性蔑視」どころの話ではない。無視だ!

もう金輪際、大隅の郷土史に関わることは止めにする。さらば大隅郷土史! 
大隅郷土史に関しては現在の大隅史談会が担当すればよいのだ。

ただ、自分はライフワークである邪馬台国関連を研究していくうちに、大隅を含めた「古日向」に関して新たな知見を得、これが今の日本古代史の解釈(神話を含む)に異議を申し立てなければならないと思い、ブログ「鴨着く島」に書き綴ってもう15年となるが、これについてはおさらばする気は毛頭ない!!

これからもボケない限り「鴨着く島」は続く!!

薩摩藩英国留学生記念館(串木野羽島崎)

2021-03-02 10:07:37 | 日記
薩摩藩が幕末に密命で英国に留学させた19名の藩士を記念する施設「薩摩藩英国留学生記念館」が、サッポロビールの前身を確立しながら、その後北海道を離れて行方不明となり「行旅死人」(行き倒れ)として神戸で発見された「村橋久成」を特集しているというので出かけてみた。

記念館の所在地はいちき串木野市の北西部にある羽島崎で、国道3号線を串木野の中心部を過ぎて左折し、薩摩川内市に通じる道の途中にある。

初めて訪れる地で、距離を測ったら桜島フェリーの海上の行程を抜きにしてちょうど100キロ。久しぶりの走行距離だった。所要時間は2時間45分。

記念館に着いたら昼食時だったので、記念館内部にあるカフェで何か軽食でもと思い入館したが、あいにくカフェは月曜は休みだった。そこで館の向かい側にある羽島漁協が運営するちょっとしたスーパーがあり、入ってみたら弁当を販売していた。500円也の弁当にしてはボリュームがあり、腹が膨れる程だった。

この記念館は2015年か16年に開館し、外観はいかにもイギリスにありそうな倉庫風総二階の造りで、海側の妻部分が動力帆船の舳先を模していて特徴的だ。

写真右手が陸側で、羽島の街並みがある。左手は海で、手前の船溜まり仕切るコンクリート製の波止の左側は岩礁になっていて荒々しい。

羽島崎を手持ちの地図で調べると、ずいぶん辺鄙な場所のように思われたが、着てみると街並みもけっして寂れたようなところではなかった。しかし幕末の頃は当然もっと鄙びた漁村だったに違いない。

さて薩摩藩は生麦事件によってイギリスからとんでもない「国家損害賠償」の25000ポンド(10万両に相当)を請求され、拒み続けたことでイギリスから鹿児島湾へ軍艦や駆逐艦を派遣された挙句、せっかく購入したばかりの藩の軍艦数隻を拿捕されたことにより、戦闘が勃発した(薩英戦争文久3=1863年7月2日~4日)。

薩摩藩側は敵艦の旗艦長など十数名を爆死させたことで意気が上がったが、返り討ちのアームストロング砲の威力はすさまじく、砲台は破壊され、鹿児島城下も火の海になったことで、戦闘は終息し、イギリス陣営も甚大な被害と食糧・弾薬切れにより鹿児島湾を引き上げた。

薩摩藩はイギリスの近代兵器の破壊力を目の当たりにし、ここで決定的に「攘夷」から「開国=文明開化=欧米化」の道をたどるようになり、お雇い外国人では隔靴掻痒の感があったため、現地すなわちイギリスへ若き藩士を選抜して送ったのである。それが19名の留学生であった。

留学生たちのうち2名(新納と五代)は別便でヨーロッパに向かったのだが、残り17名はここ羽島の寒村に隠れるようにして変名を使い、2か月の待機の後、長崎のグラバー差し回しの船「オースタライアン号」という動力帆船(機帆船)でイギリスに向かった。

留学生はそれぞれイギリスで学ぶ学問や技術など専門分野修得という課題を与えられたが、学費や生活費の捻出に困って1年位で帰国した者が多かった。

今度この記念館で特別企画展示をしている「村橋久成」もそのうちの一人で、1年ほどで帰国している。

この人と対照的なのが、のちにアメリカロスアンゼルス郊外にブドウ園を開き、「ブドウ王」と称賛された長沢鼎(旧名・磯長得次郎)である。かれは一行最年少の当時数え14歳であったが、若い心と頭脳があったのだろう言葉で不自由することなく、なぜかキリスト教の一派の新興宗教家に見込まれて研修に励み、丸3か年をイギリスで過ごし、そののちアメリカに渡っている。

この人と村橋久成が一行19人中最も数奇な運命をたどった双璧だろう。

ただし、成功し称えられた者と、功績にもかかわらず零落してしまった者という意味において――。

村橋久成は薩摩藩の四大分家(垂水家・重富家・加治木家・今和泉家)のうち、加治木家の系譜に連なる人物である。

帰国後は新政府の北海道開拓使の吏員となり、開拓を後押しする仕事に取り組んだ。その中でも今日につながるビール醸造所を札幌に立ち上げ、成功させている。他にも養蚕や葡萄酒醸造なども手掛けている。

しかしこのような開拓使の差配による仕事が成功裏に運営されるようになった明治14年(1881年)、開拓使はいわゆる「北海道官有物払い下げ」により、投下資本の10分の一以下の安値で民間の資本家たちに売り払われようとした事件が起きる。これは世論の反対でとん挫したが、明治15年(1882年)2月に開拓使そのものが廃止されるという事態になった。

この時、開拓使長官だった黒田清隆は東京に戻り、内閣府に入っている(のちに第2代内閣総理大臣になった)。

開拓使廃止後、北海道に三つの県が生まれる。函館県・札幌県・根室県だが、その県令はすべて薩摩藩出身者であった。同じ開拓使に所属していた村橋久成は選任されてもおかしくない業績を上げていたし、藩政時代の身分から言えば、当然県令に推挙されておかしくない。しかし現実には推挙されなかった。

この不遇と、これまで開拓使時代にも指摘されていた「官吏の腐敗」を目の当たりにしていた村橋は突然官吏を辞め、出家するという行動に出たのである。

それ以後、家族にも知られずにいたが、11年後の夏、神戸の路上において「行旅死人」としてこの世を去った。保護されて3、4日のうちに亡くなるのだが、死の間際に実名を口にはしたらしく、それが公報に載り、関係者の目に止まったらしい。そして開拓使時代の長官だった黒田清隆らが手配をして遺体を引き取り、東京で葬儀を行った。明治26年のことであった。享年51歳。

墓は東京の青山墓地にあり、ひ孫の女性がしばしば墓参りしているというビデオが館内で流されていた。村橋久成の生涯を描いた小説『残響』の著者・田中利夫氏は青山墓地に久成の墓があり、しっかりと守られているのを見て感激したそうである。

英国留学生記念館を2時間ほど見学してから、館内にいた女性職員に「羽島崎神社」の場所を聞くと、すぐそこの海岸べりだということでということで、参拝に行ってみた。ここは県指定の民俗文化財「太郎太郎祭り」があることで知られている。たいてい、祭りの様子は地元のテレビ局で放映されているので、ぜひ来てみたかった神社である。

境内は砂交じりで海岸に近いことを示している。太郎太郎祭りはテレビで見る限り田植え祭り(田打ち行事)なのだが、どうしてこんな海岸に近い神社なのに漁業の祭りではなく農業なのか?というのが疑問でもあった。

神社はごく普通の一部コンクリート造りで、参拝してから拝殿の中にある説明書き(絵解き)を見たら、同時に「船持ち行事」というのがあるとあった。置いてあったパソコンによる由緒書き(自由配布)にも書いてあり、「田打ち行事」と「船持ち行事」が祭り当日の二大行事なのであった。どちらも五歳の男の子たちが参加しているのも興味が惹かれるが、「神の子」という役回りなのだろう。

由緒書きの中に、――『三国名勝図会』に、「海辺にあるため、寛延元年=1748年、津波ありて、諸品流出せしとぞ」と書かれている。――とある。270年前にはこの行事が行われていたようだ。人里離れていてもみんなが協力して行われるこんな素朴な村祭りは永遠に続けて欲しい。日本の宝だ。

神社拝殿の向かって左隣に新しい小さな社がある。何とそれは「和語ロシア語辞典」を書いたというゴンザ(1718年~1739年)を祭る神社であった。

羽島崎神社の由緒書きを書いた印刷物の裏に「ゴンザの由来」とあり、そこにゴンザのこととこのゴンザ神社を建立したいきさつが載っている。以下は建立のいきさつ。

「2010年12月5日に、ロシア、サンクトペテルブルクよりゴンザとソーザの御霊を羽島に迎えた。幼くして過酷な運命に遭遇しながら、己の力で道を切り開いたゴンザとソーザの二人の奇跡ともいえる力を、地域繁栄と住民の幸せのため、祠を建立し、御霊を祀ることにする。平成23年6月吉日 羽島崎神社」

わずか11歳のゴンザはソーザと父以下17名で航海中に流されてカムチャッカに漂着し、生き残ったソーザとともにロシアのサンクトペテルブルクに連れていかれ、女帝アンナ・ヨアノヴナの厚遇を得て日ロ語辞典の編集に励み、亡くなるまでの10年間に5冊もの語学書を残したという。それらの書の日本語はほぼ薩摩弁であったそうだから、薩摩人であり、薩摩のどこかからか出航したのは間違いないようである。

もともと天才だったのか、逆境が作った天才だったのかは分かる由もないが、とにかく畏怖すべき天才少年だった。