鴨着く島

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「邪馬台国学会」の主張

2021-03-09 12:54:45 | 邪馬台国関連
昨日(3月8日)、知人から「こんな記事がある」といって渡されたのが、読売新聞の2月5日付の新聞の切り抜きだった。切り抜きと言っても全紙であるから正確には半切りであるが、とにかく全紙の7段のうち上五段にはびっしりと文字が書かれており、下の2段に著書2冊が写真入りで紹介されていた。

タイトルは「邪馬台国物語について語る」というもので、下の段に掲載された本(おそらく自費出版)『小説・邪馬台国』と『続・邪馬台国』の内容を著者自身がダイジェストして書き下ろしたものだ。その分量たるやおよそ4000字だから、原稿用紙丁度10枚分である。

「邪馬台国学会」とは著者が一般財団法人として設立したもので、私はこの記事で初めて知った次第。

著者は久留米の人のようで、造園業などをしているらしい。邪馬台国から日本の大和王権成立に非常に興味を持ち、自分なりにここ20年ばかり現地視察や古本や古社の類に引き寄せられ、ついに邪馬台国の位置を福岡県飯塚市と嘉穂郡穂波町が交差するあたりに邪馬台国の拠点があったと結論付けている。

しかし、まあ、全国紙である読売新聞の全紙を使って広告を出すとすれば「〇百万」で済むかどうか。おそろしく金の張ることをやってのけたな、というのが読みながら頭から離れなかった。私も昨年の11月に『投馬国と「神武東征」』という本を60万掛けて自費出版しているので、上には上がいるものだと感心しながら読んでみた。

以下にこの広告で4000字にわたって書かれている著者の主張について私のコメントを書いておく。

著者の研究スタンスは、魏志倭人伝にこだわらず、記紀や延喜式に掲載の古社、それに実地踏査による聞き書きなどから絞り上げた邪馬台国論だというのだが、まず最初に「魏志倭人伝の道程記述から推測し、自説の(注:邪馬台国)の方向に持って行こうとしている事例が多く、日本中どこでも自説による(注:我田引水的な)邪馬台国論争が起きています。」と書いているが、これは全く同感である。

ところがそうは言いながらこの著者も、倭人伝の道程記事は参考にしているのである。「当時のクニと現在の地名を整合しておきます。後で里程の解説は致します。」とし、「対馬(対馬市)、一大国(壱岐市)、末盧国(唐津市)、伊都国(糸島市)、奴国(福岡市)、不彌国(太宰府・筑紫野市)、投馬国(北九州市)、邪馬台国(旧嘉穂郡=飯塚市)、狗奴国(久留米筑後川以南で南筑後平野一体。拠点は広川町)となります。狗奴国以外のクニグニは連合国家、共存共栄の関係にありました。」

西暦240年代、筑後川を挟んで邪馬台国連合と狗奴国が戦い、結局、狗奴国側が勝利し、飯塚市の邪馬台国の卑弥呼は豊前に逃避し、今の宇佐神宮にも祭られている「比売の神」になった――という。

(※勝利した狗奴国は八女に拠点を樹立、筑後磐井政権がその(後継)王権そのものだという。)

狗奴国に支配された筑後王権を奪回しようと約160年後の393年頃、ワカミケヌ(のちの神武天皇)を総司令官とする天孫軍は、宇佐から筑後に進攻し、ついに筑後狗奴国王権を降し、その後ワカミケヌによる大和王権が成立した――と書く。(※時代から言うとこれは神武ではなく応神天皇だと思うのだが・・・>)

さて、その主張の中に、イザナギ、イザナミが登場し、イザナギの生んだ「三貴神」すなわち「アマテラス・ツキヨミ・スサノヲ」のうちアマテラスが卑弥呼であり、アマテラスたる卑弥呼が生んだ「五男神」のうち長男のアメノオシホミミが大和に渡り「葛城王朝」を開いたり、卑弥呼の孫のニニギノミコトがアマテラス(卑弥呼)に託された「三種の神器」を奉持してワカミケヌ(のちの神武)軍の連合化に一役を買う――などと神話と歴史の混在があり、また時代的にも混在があり、このあたりになるともう付いていけなくなる。

何よりも魏志倭人伝の行程(道程)記事の逸脱読み(解釈の誤認)がいただけない。

まず、「伊都国」を通説の「いとこく」と読み、福岡県糸島市に比定しているが、ここは古来「五十(イソ)国」であると仲哀紀・筑前風土記に書かれている上、糸島なら壱岐国から直接船が着けられるのに何故わざわざ末盧国(唐津市)で下船して歩いて来なければならないのかの理由が付されていない。

糸島市を「伊都国」としたうえで、行程は奴国(福岡市)、不彌国(筑紫野市)、投馬国(北九州市)と比定していくのだが、この時の投馬国への行程「南水行20日」を「東水行1日」に変えてしまっている。

また邪馬台国への行程「南水行10日、陸行1月」を、これまた「南水行1日、陸行1日」と方角については「南」をそのまま採用しながら、水行は「10日」を「1日」に、陸行は「1月}を「1日」に変えてしまった。

この大幅な改変は、やはり自説の邪馬台国比定地、飯塚市に持って行きたいがための「我田引水」にほかならず、著者が最初の一段落で述べた「道程記述から推測し、自説の方向に持って行こうとしている事例が多く、(中略)邪馬台国論争が起きています。」がそっくりそのまま著者自身にも当てはまるではないか。

堂々巡りの感は拭えず、また振出しに戻った。

とにかく、邪馬台国の位置を確定するには「まず初めに行程記事ありき」の姿勢を崩してしまっては元も子もない。

そして行程記事の解釈において矛盾に陥らないためには、
(1)「伊都国」は糸島市ではなく、末盧国(唐津市)から徒歩で東南に行った先に「伊都(いつ)国」があること。
(2)投馬国と邪馬台国の行程記事「南水行20日」と「南水行10日、陸行1月」という所要日数表記は他の国々の距離表記とは一線を画して捉えなければならないこと。
(3)特に邪馬台国の「南水行10日。陸行1月」は「帯方郡から女王国まで1万2000里」と書かれた中の、船行10日と九州上陸後の徒歩による行程1月のことを表していること。すなわち帯方郡から女王国までの距離表記「1万2000里」と所要日数表記「水行10日、陸行1月」は同値だということ。

に気付かなければならないのである。

邪馬台国解明への多大な研究努力と、著書を2冊も同時に出版し全紙広告に載せられるほどの資金力は敬服に値する。

私なども先に触れたように今回自費出版した際の費用60万は何とかなったが、広告となると二の足を踏む。広告を出すだけの余力があれば、最初に出した著書『邪馬台国真論』の増補改訂版を出したいと思っている。もう18年近く前のことだが、こちらは生原稿で出版社に送ったので、今度の出版の倍以上の費用が掛かった。

いまさらまたパソコンで打ち直すというのもなかなか大変だ。いま手元にある初版本250ページを手を加えながら打ち込み、メモリー化すればいいのだが、果たしてどのくらい時間がかかるものか、ちょっと想像できない。歳も歳だし…。

まあ、昨年の出版(『投馬国と「神武東征」)でよしとするか。あれは13年間所属し、そのうち11年は会長職にあった「大隅史談会時代」に書き続けたものの集大成で、退会したら即「過去の人」の「過去の作品」となり、スルーされ続けて来たので、70歳にもなったし、記念としてまとめておきたかったのだ。

幸い手元のパソコンにメモリー化して残してあったので、出版までの経緯はかなり容易かつ順調であった。

200部製本し、うちほぼ半数の97冊は大隅地区はもとより県内の大きな図書館、九州の県立図書館、大学図書館、及び大阪、京都、奈良、東京方面の図書館など、各図書館当たり1冊から3冊を寄贈しておいた。費用は本代と郵送料を含めて32万円位だった。

安くはない出費だが、たとえ私の事績がスルーされ続けても、どこかで何十年か後でも取り上げられればそれでよい。出来たら「おお、これが正鵠を射ている邪馬台国論だ」などと役に立ったら嬉しい限りだ。