以前ホームページ「鴨着く島おおすみhttp://kamodoku.dee.cc/index.html」を作成していたのだが、今はもう記述はできなくなった。しかしホームページそのものは開けばダウンロードはでき、眺めていたら「記紀を読む」という連載物で、【神話の部】の最後がヒコホホデミノミコト(山幸彦)の項で終わっているのに気付いた。
あと一息、ホホデミの子の代であるウガヤフキアエズノミコトの物語について書き加えたいと考え、今日、このブログで補いとした。
〈 ウガヤフキアエズノミコトは南九州日向で成長し、その後叔母のタマヨリヒメと夫婦となり4人の皇子をもうけた、とされている。
その四人とは「イツセノミコト(五瀬命)」、「イナヒノミコト(稲氷命)」、「ミケヌノミコト(御毛沼命)」、「ワカミケヌノミコト(若御毛沼命)」の四皇子である。
このうち最後の皇子「若御毛沼命」がいわゆる神武東征の主人公で、大和に橿原王朝を築いたのちに「神武天皇」(和風諡号ではカムヤマトイワレヒコ)と言われるようになる。
東征の理由として、古事記ではあっさりと「どこに征けば、天の下を平らかに統治できるだろうか。東を目指そう」と書くのだが、日本書紀の方はその経緯を詳しく記している。要点は次のようである。
【豊葦原瑞穂の国をニニギノミコトが授かって降臨し、荒々しかったこの国の西に長く歳を経て来た。しかしながら遠くの国々では互いに争い合っている。シヲツチノオヂに聞けば、東方に四周に青山を巡らせているうるわしい土地があるそうだ。そこはすでにニギハヤヒという者が降り下っていて、国の中心であるらしい。そこなら大業(あまつひつぎ)を継続して行けるだろう。】
南九州日向に居ては国の統一がままならないゆえに、列島の中心である地に行って新しい天下を始めようという意気込みが伝わる書きぶりである。
しかし私はこの東征の理由に加えて、実はのっぴきならないことが南九州で発生したのでそれから逃れるといった事態を考えている。つまり「神武東征」というより「東遷」か「移住」と言うべきだと思っている。
その事態とは、一つは火山の噴火、もう一つは南海トラフ地震による津波のような大災害だろうと考える。事実、南九州の弥生遺跡の時代区分で前期(2400年前~2200年前)・中期(2200年前~2000年前)・後期(2000年前~1800年前)のうち後期の遺跡(遺構・遺物)はゼロに等しいくらい少ないのである。人々が大挙して南九州から移動したとしか思われないのだ。
さてその東征だが、古事記と日本書紀では東征を主導した神武の他に兄のイツセノミコト(紀州の窯山で戦死)と神武の子であるタギシミミ(後継争いで、カムヌナカワミミによって被殺)が加わっていたとするのは共通なのだが、他の皇子「イナヒノミコト」と「ミケヌノミコト」について両書は全く違う書き方をしている。
まず二男のイナヒノミコトだが、古事記では南九州にいる間に「稲氷命は母の国として海原に入りまし」ている。
ところが日本書紀では、東征後、4年近く経過して紀伊半島の熊野に向かった時に船が暴風に翻弄されてしまうのだが、その時、イナヒノミコトは「ああ、私は天津神の子であり、母は海の神だ。それなのにどうして陸や海で苦しまなければならないのか」と慨嘆し、所持していた剣を引き抜いてそのまま海に飛び込み「鋤持神(さひもちのかみ)」に化したとする。
古事記も日本書紀もイナヒノミコトが海に入ったとするのは共通なのだが、古事記では南九州にいる間のことのように書き、日本書紀では東征途上の船の上から海に入ったとする。前者は至極坦々としているが、後者はドラマチックな書き方である。
しかし、いずれにしてもこのイナヒノミコトが海に入った後の消息は記されていない。
ところが、9世紀前半に編纂された『新撰姓氏録』には次のような氏名が登場する。
【新良貴 (しらぎ)】・・・ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトの男(こ)、イナヒノミコトの後(すえ)なり。これは新良国(新羅)にて国主となりたまひき。イナヒノミコトは新羅国王の祖なり。日本紀に見えず。(同書第5巻・右京皇別下)
とある。最後に日本(書)紀では確認できないことだが、と断りを入れているが、記紀ともに海(海原)に入ったとしていることから、列島を離れて海外に行ったらしいことは考えられ、行くとすれば母タマヨリヒメ(海神の娘)の故郷とされる竜宮(琉球)が真っ先に浮かぶが、しかし距離と行き易さからすれば朝鮮半島の方が容易である。
私はこの姓氏録の「新良貴」の解釈にしたがう。
朝鮮の史書『三国史記』(金富軾著・1145年成立)の「新羅本紀」には、初代「赫居世王」の時に、「瓢公(ホゴン=ひょうたん公)」という名の使臣がいたが、この人は倭人であり、海を渡って来て王に仕えたのだという。
また、第4代の「脱解(トケ・タケ)王」は「倭国の東北千里にある多婆那国で生まれた」とあり、倭人そのものだったとしている。その脱解が半島に渡来した経緯はおとぎ話じみていて信ずるに足らないが、日本列島のどこかにある多婆那国からやって来たことは信用してよい。多婆那国を京都の丹波に比定する説が多いが、それでは「倭国の東北千里」に合致しない。
私見ではこの多婆那国は熊本県北部の玉名市である。
三国史記による第4代脱解王の時代は西暦150年代であり、この頃の倭国の中心は九州にあった。北部の博多奴国、吉野ケ里を含む古伊都国、筑後川流域の朝倉・甘木(旧国名は不明)、そして筑後川南岸で邪馬台国の前身の男王が統治していた古邪馬台国、そして熊本中部から南九州にかけての火山地帯に展開する古クマソ国が主な国々であった。
その中で古クマソ国の一領域である八代を中心とする「火(肥)の国」が当時、半島への交流の一大窓口として倭国の中心だったのではないか。欽明天皇の時代に朝鮮半島の百済で「達率」という最高ランクの使臣として活躍していた「日羅(にちら)」の父親は、八代より少し南の葦北国造であったことも参考になろう。
この八代から有明海を船で一日走らせれば玉名に到達する。水行の一日は倭人伝では「水行千里」であったから、「東北に千里」(水行千里)にある玉名市は新羅の第4代脱解王の出身地と考えても無理ではない。
なお、不思議というか面白いのは、この脱解王は即位後二年目にあの初代赫居世王に使臣に取り立てられ、その後百済に仕えていた「瓢公」を再び重臣として「大輔」に任命していることである。同じ九州島出身の倭人ということで寵遇したのであろうか。
さて、『三国史記』では、高句麗始祖「朱蒙」と百済の始祖「温祚」について同族であると記し、その即位年代はBC38年およびBC18年と確定しているが、新羅の始祖・赫居世王の即位年は特定していない。しかし他の二国よりは遅れて建国されたとはいえ、両国とさほどの隔たりは無いと考えられるから、およそ紀元ゼロ年を目安にしてよいと思われる。
そう考えた場合、赫居世王、瓢公、脱解王のいずれが姓氏録の「新良貴」の後裔、すなわちイナヒノミコトの後裔であろうか。いずれにしても半島との交流は紀元前後すでに活発であった考えてよいだろう。
次に、三男のミケイリヌノミコトだが、古事記では東征の前に「常世国に渡りましき」とし、日本書紀では東征途上の熊野の海上で兄と同じように船から離れ、こちらは「常世郷(くに)に往きましぬ」とあり、ともに列島を離れて海外に渡ったとしている。
常世(とこよ)については、垂仁天皇の時代、記紀ともに記すように三宅連の祖先であるタジマモリを常世国に派遣し「トキジクノカクノコノミ」(橘か)を採って来させたという共通の記述がある。常世国については古事記には記載がないが、書紀には次の記述がある。
【遠く絶域に往き、万里の浪を踏みて、遥かに弱水(よわのみず)を渡れり。この常世国はすなわち神仙の秘区にして、俗の至る所にあらず。往来する間に、おのづから十年(ととせ)を経たり。あに、独り峻爛を凌ぎて、また本土に向かはむことを期せめや。】
と記述があるように、往来に十年もかかるような絶遠の地であり、行くのはいいが二度と帰って来られないような荒波の向こうであることが分かる。そこもやはり列島を離れた海外であることには変わりなく、二男とともに三男までもが海外に行っているということである。これはまさにウガヤフキアエズノミコトの時代相を表していると考えられる。
なお、「弱水(よわのみず)」であるが、これは『延喜式』の第8巻「神祇八 祝詞」の中に「東文忌寸部献横刀時呪」(やまとのふみのいみきべの・たちを・たてまつるときの・じゅ)というのがあり、その中に登場する、短いのでこの呪の全文を次に掲載する。
【謹みて請ふ。皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司命司籍、左は東王父、右は西王母、五方五帝、四時四気、捧ぐるに銀人を以てし、禍災を除かむことを請ふ。捧ぐるに金刀を以てし、帝祚を延べむことを請ふ。
呪して曰く、東は扶桑に至り、西は虞淵に至り、南は炎光に至り、北は弱水に至る。千城百国、精治万歳、万歳、万歳。】
この呪は道教的な世界観で作成されたもののようだが、東西の文忌寸部が奏上する祝詞で、内容的には天皇に禍災が起こらず、後裔が末永く続くように横刀を捧げる際に読み上げられるものである。
さて肝心の「弱 水」は下線部に見える。東西南北至る所まで天皇の権威が行き渡るように、という部分であるが、弱水は理想とする統治領域の北限であることが分かる。
この道教の世界観は漢王朝時代から三国時代にかけて成立したとされ、大陸から見て東は「扶桑」(日本列島)、西は「虞淵」(西アジア)、南は「炎光」(東南アジア)であり、北の「弱水」は朝鮮半島よりはるか北のアムール川辺りを指すのではないかとされる。
しかしそんな北国では「トキジクノカクノコノミ」すなわち「橘」が生育するはずがない。とすると垂仁天皇紀にあるように「神仙の秘区」つまり現実の国ではなく、天界或いは神界に属する別世界と考えるべきだろうか。
いずれにしても、兄のイナヒノミコトと同様、ミケヌノミコトも列島(南九州)からはいなくなったと書かれていることになる。私見で、「神武東征」とは南九州投馬国の移住だったとするのだが、この大移動を含め、南九州のウガヤフキアエズノミコト統治の時代状況は、天地動乱の時だったと考えてよいのかもしれない。〉
あと一息、ホホデミの子の代であるウガヤフキアエズノミコトの物語について書き加えたいと考え、今日、このブログで補いとした。
〈 ウガヤフキアエズノミコトは南九州日向で成長し、その後叔母のタマヨリヒメと夫婦となり4人の皇子をもうけた、とされている。
その四人とは「イツセノミコト(五瀬命)」、「イナヒノミコト(稲氷命)」、「ミケヌノミコト(御毛沼命)」、「ワカミケヌノミコト(若御毛沼命)」の四皇子である。
このうち最後の皇子「若御毛沼命」がいわゆる神武東征の主人公で、大和に橿原王朝を築いたのちに「神武天皇」(和風諡号ではカムヤマトイワレヒコ)と言われるようになる。
東征の理由として、古事記ではあっさりと「どこに征けば、天の下を平らかに統治できるだろうか。東を目指そう」と書くのだが、日本書紀の方はその経緯を詳しく記している。要点は次のようである。
【豊葦原瑞穂の国をニニギノミコトが授かって降臨し、荒々しかったこの国の西に長く歳を経て来た。しかしながら遠くの国々では互いに争い合っている。シヲツチノオヂに聞けば、東方に四周に青山を巡らせているうるわしい土地があるそうだ。そこはすでにニギハヤヒという者が降り下っていて、国の中心であるらしい。そこなら大業(あまつひつぎ)を継続して行けるだろう。】
南九州日向に居ては国の統一がままならないゆえに、列島の中心である地に行って新しい天下を始めようという意気込みが伝わる書きぶりである。
しかし私はこの東征の理由に加えて、実はのっぴきならないことが南九州で発生したのでそれから逃れるといった事態を考えている。つまり「神武東征」というより「東遷」か「移住」と言うべきだと思っている。
その事態とは、一つは火山の噴火、もう一つは南海トラフ地震による津波のような大災害だろうと考える。事実、南九州の弥生遺跡の時代区分で前期(2400年前~2200年前)・中期(2200年前~2000年前)・後期(2000年前~1800年前)のうち後期の遺跡(遺構・遺物)はゼロに等しいくらい少ないのである。人々が大挙して南九州から移動したとしか思われないのだ。
さてその東征だが、古事記と日本書紀では東征を主導した神武の他に兄のイツセノミコト(紀州の窯山で戦死)と神武の子であるタギシミミ(後継争いで、カムヌナカワミミによって被殺)が加わっていたとするのは共通なのだが、他の皇子「イナヒノミコト」と「ミケヌノミコト」について両書は全く違う書き方をしている。
まず二男のイナヒノミコトだが、古事記では南九州にいる間に「稲氷命は母の国として海原に入りまし」ている。
ところが日本書紀では、東征後、4年近く経過して紀伊半島の熊野に向かった時に船が暴風に翻弄されてしまうのだが、その時、イナヒノミコトは「ああ、私は天津神の子であり、母は海の神だ。それなのにどうして陸や海で苦しまなければならないのか」と慨嘆し、所持していた剣を引き抜いてそのまま海に飛び込み「鋤持神(さひもちのかみ)」に化したとする。
古事記も日本書紀もイナヒノミコトが海に入ったとするのは共通なのだが、古事記では南九州にいる間のことのように書き、日本書紀では東征途上の船の上から海に入ったとする。前者は至極坦々としているが、後者はドラマチックな書き方である。
しかし、いずれにしてもこのイナヒノミコトが海に入った後の消息は記されていない。
ところが、9世紀前半に編纂された『新撰姓氏録』には次のような氏名が登場する。
【新良貴 (しらぎ)】・・・ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトの男(こ)、イナヒノミコトの後(すえ)なり。これは新良国(新羅)にて国主となりたまひき。イナヒノミコトは新羅国王の祖なり。日本紀に見えず。(同書第5巻・右京皇別下)
とある。最後に日本(書)紀では確認できないことだが、と断りを入れているが、記紀ともに海(海原)に入ったとしていることから、列島を離れて海外に行ったらしいことは考えられ、行くとすれば母タマヨリヒメ(海神の娘)の故郷とされる竜宮(琉球)が真っ先に浮かぶが、しかし距離と行き易さからすれば朝鮮半島の方が容易である。
私はこの姓氏録の「新良貴」の解釈にしたがう。
朝鮮の史書『三国史記』(金富軾著・1145年成立)の「新羅本紀」には、初代「赫居世王」の時に、「瓢公(ホゴン=ひょうたん公)」という名の使臣がいたが、この人は倭人であり、海を渡って来て王に仕えたのだという。
また、第4代の「脱解(トケ・タケ)王」は「倭国の東北千里にある多婆那国で生まれた」とあり、倭人そのものだったとしている。その脱解が半島に渡来した経緯はおとぎ話じみていて信ずるに足らないが、日本列島のどこかにある多婆那国からやって来たことは信用してよい。多婆那国を京都の丹波に比定する説が多いが、それでは「倭国の東北千里」に合致しない。
私見ではこの多婆那国は熊本県北部の玉名市である。
三国史記による第4代脱解王の時代は西暦150年代であり、この頃の倭国の中心は九州にあった。北部の博多奴国、吉野ケ里を含む古伊都国、筑後川流域の朝倉・甘木(旧国名は不明)、そして筑後川南岸で邪馬台国の前身の男王が統治していた古邪馬台国、そして熊本中部から南九州にかけての火山地帯に展開する古クマソ国が主な国々であった。
その中で古クマソ国の一領域である八代を中心とする「火(肥)の国」が当時、半島への交流の一大窓口として倭国の中心だったのではないか。欽明天皇の時代に朝鮮半島の百済で「達率」という最高ランクの使臣として活躍していた「日羅(にちら)」の父親は、八代より少し南の葦北国造であったことも参考になろう。
この八代から有明海を船で一日走らせれば玉名に到達する。水行の一日は倭人伝では「水行千里」であったから、「東北に千里」(水行千里)にある玉名市は新羅の第4代脱解王の出身地と考えても無理ではない。
なお、不思議というか面白いのは、この脱解王は即位後二年目にあの初代赫居世王に使臣に取り立てられ、その後百済に仕えていた「瓢公」を再び重臣として「大輔」に任命していることである。同じ九州島出身の倭人ということで寵遇したのであろうか。
さて、『三国史記』では、高句麗始祖「朱蒙」と百済の始祖「温祚」について同族であると記し、その即位年代はBC38年およびBC18年と確定しているが、新羅の始祖・赫居世王の即位年は特定していない。しかし他の二国よりは遅れて建国されたとはいえ、両国とさほどの隔たりは無いと考えられるから、およそ紀元ゼロ年を目安にしてよいと思われる。
そう考えた場合、赫居世王、瓢公、脱解王のいずれが姓氏録の「新良貴」の後裔、すなわちイナヒノミコトの後裔であろうか。いずれにしても半島との交流は紀元前後すでに活発であった考えてよいだろう。
次に、三男のミケイリヌノミコトだが、古事記では東征の前に「常世国に渡りましき」とし、日本書紀では東征途上の熊野の海上で兄と同じように船から離れ、こちらは「常世郷(くに)に往きましぬ」とあり、ともに列島を離れて海外に渡ったとしている。
常世(とこよ)については、垂仁天皇の時代、記紀ともに記すように三宅連の祖先であるタジマモリを常世国に派遣し「トキジクノカクノコノミ」(橘か)を採って来させたという共通の記述がある。常世国については古事記には記載がないが、書紀には次の記述がある。
【遠く絶域に往き、万里の浪を踏みて、遥かに弱水(よわのみず)を渡れり。この常世国はすなわち神仙の秘区にして、俗の至る所にあらず。往来する間に、おのづから十年(ととせ)を経たり。あに、独り峻爛を凌ぎて、また本土に向かはむことを期せめや。】
と記述があるように、往来に十年もかかるような絶遠の地であり、行くのはいいが二度と帰って来られないような荒波の向こうであることが分かる。そこもやはり列島を離れた海外であることには変わりなく、二男とともに三男までもが海外に行っているということである。これはまさにウガヤフキアエズノミコトの時代相を表していると考えられる。
なお、「弱水(よわのみず)」であるが、これは『延喜式』の第8巻「神祇八 祝詞」の中に「東文忌寸部献横刀時呪」(やまとのふみのいみきべの・たちを・たてまつるときの・じゅ)というのがあり、その中に登場する、短いのでこの呪の全文を次に掲載する。
【謹みて請ふ。皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司命司籍、左は東王父、右は西王母、五方五帝、四時四気、捧ぐるに銀人を以てし、禍災を除かむことを請ふ。捧ぐるに金刀を以てし、帝祚を延べむことを請ふ。
呪して曰く、東は扶桑に至り、西は虞淵に至り、南は炎光に至り、北は弱水に至る。千城百国、精治万歳、万歳、万歳。】
この呪は道教的な世界観で作成されたもののようだが、東西の文忌寸部が奏上する祝詞で、内容的には天皇に禍災が起こらず、後裔が末永く続くように横刀を捧げる際に読み上げられるものである。
さて肝心の「弱 水」は下線部に見える。東西南北至る所まで天皇の権威が行き渡るように、という部分であるが、弱水は理想とする統治領域の北限であることが分かる。
この道教の世界観は漢王朝時代から三国時代にかけて成立したとされ、大陸から見て東は「扶桑」(日本列島)、西は「虞淵」(西アジア)、南は「炎光」(東南アジア)であり、北の「弱水」は朝鮮半島よりはるか北のアムール川辺りを指すのではないかとされる。
しかしそんな北国では「トキジクノカクノコノミ」すなわち「橘」が生育するはずがない。とすると垂仁天皇紀にあるように「神仙の秘区」つまり現実の国ではなく、天界或いは神界に属する別世界と考えるべきだろうか。
いずれにしても、兄のイナヒノミコトと同様、ミケヌノミコトも列島(南九州)からはいなくなったと書かれていることになる。私見で、「神武東征」とは南九州投馬国の移住だったとするのだが、この大移動を含め、南九州のウガヤフキアエズノミコト統治の時代状況は、天地動乱の時だったと考えてよいのかもしれない。〉