以前に書いたあの森・元五輪組織委員長の「女性蔑視発言」。私はあれは決して蔑視ではなく、言うならば「別視」であるとした。
これはなかなか良い視点であると、今、思い返している。
森氏がもともと女性蔑視者であったら、橋本聖子・元スピードスケート銅メダリストを政界に送り込んだだろうか?
少し考えれば分かることだ。
この橋本聖子さんは「キス魔」として知られており、週刊文春にも取り上げられたように、選手団団長だった冬季五輪ソチ大会で6位入賞を果たしたフィギュアスケートの高橋大輔を抱きしめてキスを「強要した」とかで話題を振りまいた。
これが男子の団長だったら囂々たる「セクハラ」非難の渦になったはずだが、ほぼおとがめなしであった。首をかしげるのは自分だけではあるまい。
また、もし万が一あの行為が政界の恩師である森氏の「直々の伝授」であったなら、逆に森氏が「セクハラを教えたのは実は森元総理だった。森本総理は橋本聖子氏にキスを強要していた」などと面白おかしく書かれ、蔑視を受けたかもしれない。
まあ、それは無いと思うが、ことほど左様に昨今は女性には甘く、男性には厳しい。
これも以前に書いたが、百年を越える超長寿の雑誌(月刊誌・週刊誌)7冊のうち3冊が女性雑誌であることを思うと、日本では女性蔑視など微塵もないことが分かる。文芸なども今は若い女性作家が目白押しだ。紫式部・清少納言の時代からその傾向はあったのだ(武家の時代になって著しく衰えてしまったが・・・)。
他の文化現象、例えば公民館講座などに参加し、学習しているのは9割方女性であり、またその講座の種類も驚くほど多い。いったいどこが女性蔑視社会なのだろうか。
新聞なども、昔は男が中身を読み、女は広告チラシを読むなどと言われたが、昨今はむしろ女の方が読んでいるかもしれない。投書欄にも女性の名が多く見られる。
総じて文化面では女性の方が優位であるが、その一方で社会・経済・政治面ではたしかに男性が優位に立っている。しかしながら男が優位に立っている政治などいわゆる「男社会」を下支えしているのは女なのである。下支えしてくれている女無くしては回らないのが男社会という奴なのである。
これを昔は「内助の功」と言ったのだが、今は「それは女をいつまでも軽視していることの言い訳に過ぎない」と一蹴されるのがオチだ。「男女平等」も行きすぎた感がある。憲法にある男女の「本質的平等」の深い意味が分かっていないからそう言い返すのだろう。
「男として生まれたら男としてのハタラキがあり、女として生まれたからには女としてのハタラキを十分にこなした上での平等」というのが本質的平等である。
具体的に言えば、男は「産ませた者を保護し、生まれた者を養育する属性を持った」性であり、女は「産みを与えた者から保護され、生まれた者を保育する属性を持った」性ということであり、家庭生活を大前提にした「両性」なのだ。
有性によって次世代を繋いでいく生き物の中でも哺乳類、その中でも特に人間は、この二つの属性が最も強く顕現しており、生半可な「男女平等」では律し切れない人生成長の深さがある。(※他の哺乳類に「家庭生活」はない。)
この「生まれた者」とはもちろん子どもであり、子どもには「女性蔑視」も「男性優位」も「男女平等」も分からないのが普通だし、大人は特にそれを子どもたちに求めることはない。
「子どものくせにそんなことを聞くな。口を出すな」などとはよく言われる子どもへの叱責だが、これを「子ども蔑視」とは誰も思わないだろう。この時に使いたいのが「別視」だ。
子どもは大人社会がどんなものかよく分からないまま、疑問に感じたらすぐそう言葉に出すのだろう。その多くは時間をかけて解きほぐすように説明すればある程度は分かるはずである。しかしそんなことより今子どもが為すべきこと、学ぶことが他に沢山あるのを知っているから大人は「つまらないことを聞く時間があったら勉強に回せ」と言外に教訓しているわけだ。
これは「子ども蔑視」ではない。人間の子どもは格別に長い子ども時代において、一般社会とは隔離された居場所つまり家庭で養育されるのが普通であり、それは「別視」されているのである。「特別視」と「特」を付けてもよい。
昨今、「混合名簿」というのが学校で取り入れられているというが、子ども自身が男女別の名簿に違和感を持っているとは思えない。子どもはいわゆる「敵味方」なく、それぞれの個性をそういうものだと了解しているから、「区別」はしていても大人が思うほど差別感には支配されていない。一例として、諸外国に赴任した親に付いて行った子どもがすぐに現地に溶け込めるのもその特性による。
(※鹿児島の格言に「負けるな、嘘をつくな、弱い者をいじめるな」というのがあるが、子どもは属性として「嘘はつかず、弱い者をいじめる」ことはしない。それを守れなくなるのは大人社会の反映であることが多い。また「負けるな」は主に武士の子弟に強く言われたフレーズだが、今では「自分に負けるな」と捉え直されている。)
女性に対しても子ども同様に「蔑視」という言葉はふさわしくないと思う。子どもには子ども特有の「区別」されるべき居場所(=家庭)が必要であるのと同じように、女性には男性と違った「区別」されるべき精神空間のような物が必要だと思うし、それによって成り立つ文化事象は驚くほど豊かである。それは「区別」であり、「差別」では全くない。むしろ男の方がそのような事象から「排除」されていることが多いのが日本の深さだと思う。
これはなかなか良い視点であると、今、思い返している。
森氏がもともと女性蔑視者であったら、橋本聖子・元スピードスケート銅メダリストを政界に送り込んだだろうか?
少し考えれば分かることだ。
この橋本聖子さんは「キス魔」として知られており、週刊文春にも取り上げられたように、選手団団長だった冬季五輪ソチ大会で6位入賞を果たしたフィギュアスケートの高橋大輔を抱きしめてキスを「強要した」とかで話題を振りまいた。
これが男子の団長だったら囂々たる「セクハラ」非難の渦になったはずだが、ほぼおとがめなしであった。首をかしげるのは自分だけではあるまい。
また、もし万が一あの行為が政界の恩師である森氏の「直々の伝授」であったなら、逆に森氏が「セクハラを教えたのは実は森元総理だった。森本総理は橋本聖子氏にキスを強要していた」などと面白おかしく書かれ、蔑視を受けたかもしれない。
まあ、それは無いと思うが、ことほど左様に昨今は女性には甘く、男性には厳しい。
これも以前に書いたが、百年を越える超長寿の雑誌(月刊誌・週刊誌)7冊のうち3冊が女性雑誌であることを思うと、日本では女性蔑視など微塵もないことが分かる。文芸なども今は若い女性作家が目白押しだ。紫式部・清少納言の時代からその傾向はあったのだ(武家の時代になって著しく衰えてしまったが・・・)。
他の文化現象、例えば公民館講座などに参加し、学習しているのは9割方女性であり、またその講座の種類も驚くほど多い。いったいどこが女性蔑視社会なのだろうか。
新聞なども、昔は男が中身を読み、女は広告チラシを読むなどと言われたが、昨今はむしろ女の方が読んでいるかもしれない。投書欄にも女性の名が多く見られる。
総じて文化面では女性の方が優位であるが、その一方で社会・経済・政治面ではたしかに男性が優位に立っている。しかしながら男が優位に立っている政治などいわゆる「男社会」を下支えしているのは女なのである。下支えしてくれている女無くしては回らないのが男社会という奴なのである。
これを昔は「内助の功」と言ったのだが、今は「それは女をいつまでも軽視していることの言い訳に過ぎない」と一蹴されるのがオチだ。「男女平等」も行きすぎた感がある。憲法にある男女の「本質的平等」の深い意味が分かっていないからそう言い返すのだろう。
「男として生まれたら男としてのハタラキがあり、女として生まれたからには女としてのハタラキを十分にこなした上での平等」というのが本質的平等である。
具体的に言えば、男は「産ませた者を保護し、生まれた者を養育する属性を持った」性であり、女は「産みを与えた者から保護され、生まれた者を保育する属性を持った」性ということであり、家庭生活を大前提にした「両性」なのだ。
有性によって次世代を繋いでいく生き物の中でも哺乳類、その中でも特に人間は、この二つの属性が最も強く顕現しており、生半可な「男女平等」では律し切れない人生成長の深さがある。(※他の哺乳類に「家庭生活」はない。)
この「生まれた者」とはもちろん子どもであり、子どもには「女性蔑視」も「男性優位」も「男女平等」も分からないのが普通だし、大人は特にそれを子どもたちに求めることはない。
「子どものくせにそんなことを聞くな。口を出すな」などとはよく言われる子どもへの叱責だが、これを「子ども蔑視」とは誰も思わないだろう。この時に使いたいのが「別視」だ。
子どもは大人社会がどんなものかよく分からないまま、疑問に感じたらすぐそう言葉に出すのだろう。その多くは時間をかけて解きほぐすように説明すればある程度は分かるはずである。しかしそんなことより今子どもが為すべきこと、学ぶことが他に沢山あるのを知っているから大人は「つまらないことを聞く時間があったら勉強に回せ」と言外に教訓しているわけだ。
これは「子ども蔑視」ではない。人間の子どもは格別に長い子ども時代において、一般社会とは隔離された居場所つまり家庭で養育されるのが普通であり、それは「別視」されているのである。「特別視」と「特」を付けてもよい。
昨今、「混合名簿」というのが学校で取り入れられているというが、子ども自身が男女別の名簿に違和感を持っているとは思えない。子どもはいわゆる「敵味方」なく、それぞれの個性をそういうものだと了解しているから、「区別」はしていても大人が思うほど差別感には支配されていない。一例として、諸外国に赴任した親に付いて行った子どもがすぐに現地に溶け込めるのもその特性による。
(※鹿児島の格言に「負けるな、嘘をつくな、弱い者をいじめるな」というのがあるが、子どもは属性として「嘘はつかず、弱い者をいじめる」ことはしない。それを守れなくなるのは大人社会の反映であることが多い。また「負けるな」は主に武士の子弟に強く言われたフレーズだが、今では「自分に負けるな」と捉え直されている。)
女性に対しても子ども同様に「蔑視」という言葉はふさわしくないと思う。子どもには子ども特有の「区別」されるべき居場所(=家庭)が必要であるのと同じように、女性には男性と違った「区別」されるべき精神空間のような物が必要だと思うし、それによって成り立つ文化事象は驚くほど豊かである。それは「区別」であり、「差別」では全くない。むしろ男の方がそのような事象から「排除」されていることが多いのが日本の深さだと思う。