前のブログで「漢委奴国王之印」と刻んである金印が博多の志賀島で発見されたのは、古来九州北部に勢力を張っていた「厳奴(イツナ)」が後漢に遣使して貰ったものだが、3世紀の初めに朝鮮半島南部から福岡県糸島市(五十=イソ)に本拠地を移した「ミマキイリヒコ・イソニヱ」(崇神天皇)に敗れ、出雲に流された時に持参したままだった。
崇神王権の執拗な探索に悟られまいとした出雲の当主「出雲フルネ」が、崇神王権による「家探し」があるとの情報を得て、本貫の地である九州北岸の志賀島に埋納したのだろう、という仮説を立ててみた。
崇神王権は「出雲の神宝(かんだから)」を当主のフルネが筑紫に出かけて留守の間に、留守を守っていた弟のイイイリネから差し出させるのに成功したと書紀は記す(崇神紀60年7月条)。
神宝はその時にすべて掌握したのだから、次代の垂仁天皇の26年に「出雲の神宝がどうもはっきりしない」とわざわざ最高の官である大連を派遣して調査に当たっているのは何故か、という疑問から到達した仮説である。
出雲の当主フルネが、大和から神宝調査団がやって来るのを知りながら、その時に限って筑紫に行っていたというのは普通には有り得ないだろう。時の王権の調査団が何の連絡もなしに出雲に入るとは考えられず、来るのであれば当然当主がもてなすのが筋だからである。したがってフルネが筑紫に行ったのは、最も大切な神宝である漢王朝から貰った金印を隠匿するため、と考えることは可能だと思う。
もう一つこの仮説(金印隠匿説)を補強するものがある。
それは同じ「崇神紀60年7月条」の最後の方に記されている丹波のヒカトべという人物の小児がつぶやいていたという次の歌である。
〈玉藻鎮め石 出雲人の祭る 真種の「うまし鏡」 押し羽振る
「うまし御神」 底宝 御宝主(みたからぬし)
山河の水くくる御魂 静掛る「うまし御神」 底宝 御宝主。〉
というものだが、注釈では「玉藻の付く沈んだ石 出雲人の祭る 本物の見事な鏡 力強く霊力を振るう 見事な鏡 水底の宝 宝の主。山川の水の掛かる所にある御魂 沈んでいる見事な鏡 水底の宝 宝の主。」とし、簡単に言うと「水底にある見事な鏡」のことだとしている。
しかしこれは「うまし鏡」と「うまし御神」とを混同している。どちらも鏡のこととしているが、それは誤りである。
「うまし鏡」は間違いなく鏡だが、次の「押し羽振る」を「うまし鏡」の述語としているのはどうか。「うまし鏡が、その霊力を、昆虫などが勢いよく羽を振るように、発揮している」と解釈するわけである。そのような素晴らしい出雲人の祭っている鏡が水の中に沈められているのだという。
またとない立派な鏡を水の中に沈めておく――というのは有り得る話ではない。「玉」ならまだしも、金属(青銅)である鏡に水がかかったらたちまち錆が発生しよう。大和王権に押収されないために、一時的に水中に隠匿したのだと強弁できるかもしれないが、わざわざ水中に入れなくても、隠すところは地上のどこにでもあったはずだ。
さて、私のこの歌の解釈はこれとは違う。「うまし鏡」は主語ではなく目的語と考えるのだ。つまり、
「玉藻の鎮め石(にある) 真種のうまし鏡を(も) 押し捨ててしまう(ような) 立派な神宝。 水の底の宝、宝の中の宝。
山川の水がかかる所に 鎮まっている 立派な神宝。 水の底にある宝、宝の中の宝。」
と解釈する。
この歌の最初の「玉藻鎮め石」とは、水の底に石囲いを作り、その中に「御神」(神宝)を置き、さらにその上に平らな石で蓋をしたという様子を表したものであろう。
また、「押し羽振る」とは「押し葬(はふ)る」であり、「押しのけてしまう(ほど素晴らしい)」ということに他ならない。
その宝は、由緒がある素晴らしい鏡(真種のうまし鏡)よりもさらに貴重な、これ一つしかないような宝であるというのだ。
以上を勘案すると、1784(天明4)年に福岡県の志賀島の海岸近くの田んぼで発見された「漢委奴国王之印」と刻まれた金印がそれに該当するのではないかと思われるのである。(※発見当時は陸上の田んぼであったが、約1500年前の弥生時代後期、辺りはまだ浅い海中であった可能性が高い。)
この志賀島はすぐ近くの那の津とともに、魏志倭人伝時代(2~3世紀)以前には半島からの崇神王統はまだ渡来しておらず、出雲族の「奴国王権」が勢力を張っていたところで、西暦57年に後漢の光武帝から金印を受領したのはその当時の奴国王であった。出雲族の奴国はやがて北部九州一帯を勢力下に収めると武力に秀でていたために「厳奴(イツナ)」と称された。それこそが「伊都(イツ)国」である。
しかし魏志倭人伝の時代(2~3世紀)になると、北部九州の五十(糸島)に半島から崇神王統が渡来して北部九州を連合して「大倭」となり、ついに出雲系の「厳奴」は敗れた。そして現在の出雲に流された。出雲フルネはその後裔で、おそらくフルネの祖父の時代に敗戦の悲哀を味わっている。その輝やかしかった時代を偲び、志賀島に金印を隠匿を兼ねて埋納したに違いない。
【「親魏倭王」の金印はどこにある?】
西暦238年(景初2年)の6月、女王ヒミコは大夫の難升米と都市牛利を帯方郡に遣わし、魏の皇帝への取次を依頼した。そして魏の都に連れて行かれ、ついに皇帝に面会することができた。
持参した貢納品は皇帝の詔書によれば、わずかに「男子の生口4名と女子6名」及び「班布二匹二丈」であったが、下賜品は豪華な物だった。
中でも特筆しなければならないのが、ヒミコへの「親魏倭王の金印と紫綬(ジジュ)」及び難升米と都市牛利への「銀印・青綬(セイジュ)」であった。
他の物で有名なのが「銅鏡100枚」である。この銅鏡については京都大学の小林教授の「三角縁神獣鏡説」が一世を風靡した。小林説では大和の女王ヒミコがこの100枚の銅鏡を権威の象徴として各地の豪族に配布した。その銅鏡こそが三角縁神獣鏡であるというものだ。
しかし三角縁神獣鏡は大陸では一枚も出土していないこと、また国内で発見された三角縁神獣鏡の総数は100枚どころか300枚ほどにもなっていることなどから、今日では否定されている。
さて、ヒミコは魏の皇帝から「倭王」と認められたことになり、その印がまさに金印に刻まれているであろう「親魏倭王」の文字であった。
また、使者の難升米と都市牛利にはそれぞれ「卒善中郎将」と「卒善校尉」という地位と銀印が与えられている。二人の名を読むのは難しいが、難升米は「なしおみ」で都市牛利は「としなり」と読めないかと思っている。難升米のことを「大夫」としているが、「大臣」クラスだろうか。また都市牛利の方は「次官」クラスだろうか。地位に差があることでそう読み取れる。
西暦238年は204年頃に帯方郡を置いて半島で勢力を振るった公孫氏が、魏の将軍司馬懿によって討伐されている。必然的に帯方郡は魏の直轄地に入ったのであった。それへの対応がこの遣使の意味だが、もう一つヒミコの邪馬台国にとって気がかりなのが、南から次第に北上して来る狗奴国であった。
そのようなかなり差し迫った状況下での遣使であったために、持参した朝貢品は極めてみすぼらしいものだったにもかかわらず、下賜品が金印や銀印その他銅鏡100枚はじめ数々の反物・宝飾品だったは、半島の反魏勢力であった公孫氏を打ち滅ぼした喜びが皇帝(明帝)の機嫌をよくしたからだろう。まして遥か東海の女王国からだったのだ。
親魏倭王の金印は約10年後の247年頃にヒミコが死んだ後も後継の台与(トヨ)に引き継がれたであろうが、西暦266年に倭の女王から朝貢があったとする『晋書』の記述が正しければ、その女王こそはトヨであり、少なくとも266年までは邪馬台国(八女市域)の宝庫にあっただろう。
しかし私見では270年に北部九州の「大倭」こと崇神王権が大和への東征を果たした後、北部九州からの援護を失った女王国は南からの狗奴国の侵攻に耐えられず、八女邪馬台国は狗奴国によって併呑されたと考えており、その際に狗奴国側に押収されたのではないかと思われる。
それともう一つ、私見だが、トヨは併呑される前に亡命し、筑紫の山中を豊前方面まで落ち延びたことも考慮しなければ、と思っている。宇佐神宮に祭られている正体不明の「比売之神」とはトヨのことで、トヨは亡命先で女王として立てられ、そのため「トヨの国」すなわち豊国と呼ばれるようになった可能性もあると思う。(※崇神天皇の娘に「トヨスキイリヒメ=トヨの城に入ったヒメ」がいるが、これはトヨのことかもしれない。アマテラス大神を祭ることのできた稀有の霊力の持ち主であった。)
女王国を征服した狗奴国が押収したとすれば、狗奴国の本拠地である熊本県のどこかに、豊国に逃れたトヨが携えて行ったとすれば豊前(大分県)のどこかにあるのだろう。
この金印の場合、他に使者が銀印も貰っているから、二種が同時に発見されたら間違いなくヒミコの金印となる。ただヒミコの金印が発見された場所が邪馬台国であるとは早々には言えない。金印にしろ銀印にしろ簡単に持ち運びができるからだ。
志賀島で発見された金印は1960年前の物で、1784年に発見されるまで実に1600年余り志賀島に眠っていたのだが、親魏倭王の金印も発見されれば1780年余の眠りから覚めることになる。
志賀島の金印が国宝になったように、見つかればヒミコの金印も当然国宝だ。いやもっと上のランクだろう。何しろ、誰が誰に与えたという証拠文献付きなのだから。
崇神王権の執拗な探索に悟られまいとした出雲の当主「出雲フルネ」が、崇神王権による「家探し」があるとの情報を得て、本貫の地である九州北岸の志賀島に埋納したのだろう、という仮説を立ててみた。
崇神王権は「出雲の神宝(かんだから)」を当主のフルネが筑紫に出かけて留守の間に、留守を守っていた弟のイイイリネから差し出させるのに成功したと書紀は記す(崇神紀60年7月条)。
神宝はその時にすべて掌握したのだから、次代の垂仁天皇の26年に「出雲の神宝がどうもはっきりしない」とわざわざ最高の官である大連を派遣して調査に当たっているのは何故か、という疑問から到達した仮説である。
出雲の当主フルネが、大和から神宝調査団がやって来るのを知りながら、その時に限って筑紫に行っていたというのは普通には有り得ないだろう。時の王権の調査団が何の連絡もなしに出雲に入るとは考えられず、来るのであれば当然当主がもてなすのが筋だからである。したがってフルネが筑紫に行ったのは、最も大切な神宝である漢王朝から貰った金印を隠匿するため、と考えることは可能だと思う。
もう一つこの仮説(金印隠匿説)を補強するものがある。
それは同じ「崇神紀60年7月条」の最後の方に記されている丹波のヒカトべという人物の小児がつぶやいていたという次の歌である。
〈玉藻鎮め石 出雲人の祭る 真種の「うまし鏡」 押し羽振る
「うまし御神」 底宝 御宝主(みたからぬし)
山河の水くくる御魂 静掛る「うまし御神」 底宝 御宝主。〉
というものだが、注釈では「玉藻の付く沈んだ石 出雲人の祭る 本物の見事な鏡 力強く霊力を振るう 見事な鏡 水底の宝 宝の主。山川の水の掛かる所にある御魂 沈んでいる見事な鏡 水底の宝 宝の主。」とし、簡単に言うと「水底にある見事な鏡」のことだとしている。
しかしこれは「うまし鏡」と「うまし御神」とを混同している。どちらも鏡のこととしているが、それは誤りである。
「うまし鏡」は間違いなく鏡だが、次の「押し羽振る」を「うまし鏡」の述語としているのはどうか。「うまし鏡が、その霊力を、昆虫などが勢いよく羽を振るように、発揮している」と解釈するわけである。そのような素晴らしい出雲人の祭っている鏡が水の中に沈められているのだという。
またとない立派な鏡を水の中に沈めておく――というのは有り得る話ではない。「玉」ならまだしも、金属(青銅)である鏡に水がかかったらたちまち錆が発生しよう。大和王権に押収されないために、一時的に水中に隠匿したのだと強弁できるかもしれないが、わざわざ水中に入れなくても、隠すところは地上のどこにでもあったはずだ。
さて、私のこの歌の解釈はこれとは違う。「うまし鏡」は主語ではなく目的語と考えるのだ。つまり、
「玉藻の鎮め石(にある) 真種のうまし鏡を(も) 押し捨ててしまう(ような) 立派な神宝。 水の底の宝、宝の中の宝。
山川の水がかかる所に 鎮まっている 立派な神宝。 水の底にある宝、宝の中の宝。」
と解釈する。
この歌の最初の「玉藻鎮め石」とは、水の底に石囲いを作り、その中に「御神」(神宝)を置き、さらにその上に平らな石で蓋をしたという様子を表したものであろう。
また、「押し羽振る」とは「押し葬(はふ)る」であり、「押しのけてしまう(ほど素晴らしい)」ということに他ならない。
その宝は、由緒がある素晴らしい鏡(真種のうまし鏡)よりもさらに貴重な、これ一つしかないような宝であるというのだ。
以上を勘案すると、1784(天明4)年に福岡県の志賀島の海岸近くの田んぼで発見された「漢委奴国王之印」と刻まれた金印がそれに該当するのではないかと思われるのである。(※発見当時は陸上の田んぼであったが、約1500年前の弥生時代後期、辺りはまだ浅い海中であった可能性が高い。)
この志賀島はすぐ近くの那の津とともに、魏志倭人伝時代(2~3世紀)以前には半島からの崇神王統はまだ渡来しておらず、出雲族の「奴国王権」が勢力を張っていたところで、西暦57年に後漢の光武帝から金印を受領したのはその当時の奴国王であった。出雲族の奴国はやがて北部九州一帯を勢力下に収めると武力に秀でていたために「厳奴(イツナ)」と称された。それこそが「伊都(イツ)国」である。
しかし魏志倭人伝の時代(2~3世紀)になると、北部九州の五十(糸島)に半島から崇神王統が渡来して北部九州を連合して「大倭」となり、ついに出雲系の「厳奴」は敗れた。そして現在の出雲に流された。出雲フルネはその後裔で、おそらくフルネの祖父の時代に敗戦の悲哀を味わっている。その輝やかしかった時代を偲び、志賀島に金印を隠匿を兼ねて埋納したに違いない。
【「親魏倭王」の金印はどこにある?】
西暦238年(景初2年)の6月、女王ヒミコは大夫の難升米と都市牛利を帯方郡に遣わし、魏の皇帝への取次を依頼した。そして魏の都に連れて行かれ、ついに皇帝に面会することができた。
持参した貢納品は皇帝の詔書によれば、わずかに「男子の生口4名と女子6名」及び「班布二匹二丈」であったが、下賜品は豪華な物だった。
中でも特筆しなければならないのが、ヒミコへの「親魏倭王の金印と紫綬(ジジュ)」及び難升米と都市牛利への「銀印・青綬(セイジュ)」であった。
他の物で有名なのが「銅鏡100枚」である。この銅鏡については京都大学の小林教授の「三角縁神獣鏡説」が一世を風靡した。小林説では大和の女王ヒミコがこの100枚の銅鏡を権威の象徴として各地の豪族に配布した。その銅鏡こそが三角縁神獣鏡であるというものだ。
しかし三角縁神獣鏡は大陸では一枚も出土していないこと、また国内で発見された三角縁神獣鏡の総数は100枚どころか300枚ほどにもなっていることなどから、今日では否定されている。
さて、ヒミコは魏の皇帝から「倭王」と認められたことになり、その印がまさに金印に刻まれているであろう「親魏倭王」の文字であった。
また、使者の難升米と都市牛利にはそれぞれ「卒善中郎将」と「卒善校尉」という地位と銀印が与えられている。二人の名を読むのは難しいが、難升米は「なしおみ」で都市牛利は「としなり」と読めないかと思っている。難升米のことを「大夫」としているが、「大臣」クラスだろうか。また都市牛利の方は「次官」クラスだろうか。地位に差があることでそう読み取れる。
西暦238年は204年頃に帯方郡を置いて半島で勢力を振るった公孫氏が、魏の将軍司馬懿によって討伐されている。必然的に帯方郡は魏の直轄地に入ったのであった。それへの対応がこの遣使の意味だが、もう一つヒミコの邪馬台国にとって気がかりなのが、南から次第に北上して来る狗奴国であった。
そのようなかなり差し迫った状況下での遣使であったために、持参した朝貢品は極めてみすぼらしいものだったにもかかわらず、下賜品が金印や銀印その他銅鏡100枚はじめ数々の反物・宝飾品だったは、半島の反魏勢力であった公孫氏を打ち滅ぼした喜びが皇帝(明帝)の機嫌をよくしたからだろう。まして遥か東海の女王国からだったのだ。
親魏倭王の金印は約10年後の247年頃にヒミコが死んだ後も後継の台与(トヨ)に引き継がれたであろうが、西暦266年に倭の女王から朝貢があったとする『晋書』の記述が正しければ、その女王こそはトヨであり、少なくとも266年までは邪馬台国(八女市域)の宝庫にあっただろう。
しかし私見では270年に北部九州の「大倭」こと崇神王権が大和への東征を果たした後、北部九州からの援護を失った女王国は南からの狗奴国の侵攻に耐えられず、八女邪馬台国は狗奴国によって併呑されたと考えており、その際に狗奴国側に押収されたのではないかと思われる。
それともう一つ、私見だが、トヨは併呑される前に亡命し、筑紫の山中を豊前方面まで落ち延びたことも考慮しなければ、と思っている。宇佐神宮に祭られている正体不明の「比売之神」とはトヨのことで、トヨは亡命先で女王として立てられ、そのため「トヨの国」すなわち豊国と呼ばれるようになった可能性もあると思う。(※崇神天皇の娘に「トヨスキイリヒメ=トヨの城に入ったヒメ」がいるが、これはトヨのことかもしれない。アマテラス大神を祭ることのできた稀有の霊力の持ち主であった。)
女王国を征服した狗奴国が押収したとすれば、狗奴国の本拠地である熊本県のどこかに、豊国に逃れたトヨが携えて行ったとすれば豊前(大分県)のどこかにあるのだろう。
この金印の場合、他に使者が銀印も貰っているから、二種が同時に発見されたら間違いなくヒミコの金印となる。ただヒミコの金印が発見された場所が邪馬台国であるとは早々には言えない。金印にしろ銀印にしろ簡単に持ち運びができるからだ。
志賀島で発見された金印は1960年前の物で、1784年に発見されるまで実に1600年余り志賀島に眠っていたのだが、親魏倭王の金印も発見されれば1780年余の眠りから覚めることになる。
志賀島の金印が国宝になったように、見つかればヒミコの金印も当然国宝だ。いやもっと上のランクだろう。何しろ、誰が誰に与えたという証拠文献付きなのだから。