終活(就活ではない)がそくそくと身に迫り、昨年「断賀状」を決めた。今年はこれまでに延び延びになっていた本の整理に取り掛かり始めた。
文庫本や新書本が圧倒的に多いが、とある棚に厚さはさほどではないが、箱入りの小さめの本があった。
歌人・若山牧水の『おもひでの記』だった。
もう何年前になるのか記憶に薄れていたのだが、確かに宮崎県東郷町の山奥の「坪谷(つぼや)村」に残る若山牧水の生家と記念館を訪れていた。その時に記念に購入したのが自著の『おもひでの記』と、記念館発行の『牧水の生涯』(塩月儀市著)であった。
何時行ったのかも記憶に薄れていたのだが、購入した本の奥付を見ると、一つは昭和60年刊とあり、もう一冊は60年刊、63年増刷とあり、現地を訪ねたのは昭和63(1988)年以降であることは確実である。
そうなると考えられるのは、平成3(1991)年に指宿市から広島に転居し、その後、平成5年(1993年)に大隅半島の田代町に引っ越す間の寸暇に、広島から田代町への往復の途中で、牧水の生まれた宮崎県東臼杵郡東郷町の坪谷村の記念館を見学したのだろう。
若山牧水の歌はほぼ全国の人の口に膾炙されており、自分もその例外ではないのだが、耳川の支流「坪谷川」のあんな山奥に生い立った牧水が、なぜこのような誰の心にも染みわたるような短歌を残したのかが気になって仕方がなかった。
しかし記念館の内部を見学した記憶は全くない。それはおそらく、田代町に入ってからのこれまでとは全く違う環境に戸惑ったことと無縁ではあるまい。何しろ農業は初めてのことばかりで、何事にも集中しなけらばならぬこと半端ではなかった。だから、その直前のことなどさっぱりと忘れてしまったにのだろう。
さて、今度『おもひでの記』と『牧水の生涯』を読み返してみて、大いなる疑問が沸き上がった。
それは牧水の祖父「健海(たけみ)」のことである。
若山牧水の祖父は、何と武蔵国の所沢(埼玉県所沢市)の農家の出身であったというのだ。それだけならまだしも、江戸時代末期の文化年間(1804年~1813年)生まれの祖父は、13歳という年に江戸の生薬商に奉公に上がり、18歳になると伝え聞いていた長崎に渡来した医師シーボルトの薫陶を受けようと、はるばる彼の地に修行に出向いたのである。
(※ドイツ人ながらオランダ海軍付の医師であったシーボルトが長崎に来たのは1823年で、その後6年間を長崎に滞在している。)
そこで8年間学んだ後に独立して医業を始めるべく、宮崎県のこの坪谷村に居着いて開業した。
牧水は『おもひでの記』で祖父がなぜこんな山奥で開業したのかについて、次のように疑問を投げかけている。
<シーボルトに仕えて多年の間、医学を学んだ。当時、蘭学または洋医学を修めたと云へば、かなり大したものであったに相違ないが、それをどうして日向のような田舎へ引きこもったか不思議である。(中略)おもふに何か人には知られぬ、山の中に隠れたいか、または隠れねばならぬ必要があって引っ込んだに違いない。>
と記しているのだ。だが、これも不思議なのは、「山の中に隠れたいか、または隠れねばならぬ必要があって引っ込んだに違いない」といいながら、その「必要」について何ら弁明がなされていないことである。
牧水の生家の周りは自然の宝庫であり、牧水は幼少の頃からアユ釣りなど自宅周辺の遊びを事細かく記しているのだが、その一方、祖父が関東の武蔵国から生家のある東郷町坪谷村に移り住んだ顛末については、はっきりとは知らないようなのだ。
祖父の子は二男あり、牧水の父である長男・立蔵が坪谷村の医師となって地元に残ったのだから、祖父の経歴について事細かに知らされていたはずだ。それなのにナゼそうならなかったのだろう。
それは結局のところ、祖父の隠遁的な性格および牧水の言う「山の中に隠れねばならぬ必要」が相俟ってのことという他ないのか。釈然としないところだ。
それにしても豪農の出で、長崎遊学の資金は豊富にあったと言いながら、故郷の埼玉には帰らず、宮崎県の山中の村「坪谷(つぼや)」に骨を埋めた牧水の祖父が、はるばる長崎の出島に赴き、当時最先端の西洋医学を学ぶことができたことには驚きを通り越して唖然とするほかない。
祖父は坪谷村で開業した時、26歳だったという。江戸での漢方生薬の丁稚奉公をやめて長崎に行き、西洋医学を8年学んだあとのことであった。
当時の医学と言えばいわゆる各藩お抱えの「御殿医」(漢方医)が最高の医療をリードしていた。ところがオランダを通じて西洋医学が受容され、時あたかもシーボルトの来日で、漢方医である日本の医師たちの目覚めがもたらされたのである。
牧水の祖父は慧眼だったのだろう、江戸の漢方生薬の店に奉公している間に西洋医学への関心を高め、ついに(おそらく)家族の反対を押し切って長崎へ出立した。18歳のことだったという。身分制度厳しき江戸時代にあって、お伊勢参りと出家と医学修業はその制約から外れていたのだろう。
当時は医師の免許制度はなく、かなり自由に開業できたに違いない。もちろん最高ランクの藩医(御殿医)になるためには、様々な身分的な制約はあったのだろうが、いずれにしても医師になるのに「国家試験」のようなものはなかった。
西洋医学を修めているのならば、かなりの名声を得て高給取りになっていたと思われるのだが、それは明治に入ってからのことだろう。
祖父が坪谷村で開業したのは天保7年というから、西暦では1836年で、まだ漢方全盛の時代だった。いわゆる「赤ひげ医者」の時代である。
祖父・健海の医療がフロックでなかったことは、嘉永2年(1949年)に再び長崎に行き、オランダ医師モ―ニッケから種痘法を学び、同年、日向国(宮崎)では初めて種痘を施したことで証明できる。西洋医としての面目躍如であった。
祖父は酒が好きだったという。それを遺伝的に受け継いだのか、牧水も酒好きであった。そして他郷に出て、一度も故郷の武蔵国(埼玉)に帰らなかった祖父のさすらう性も。
<白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり>
は、もっとも有名な数首のひとつだ。他にも
<幾山河超えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞけふも旅ゆく>
<白鳥は悲しからずや空の青海の青にもそまずただよふ>
<ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り>
は今でも暗唱可能だ。母の歌も多い。
<父おほく家に在らざり夕さればはやく戸を閉し母と寝にける>
<母恋しかかる夕べのふるさとの桜咲くらむ山の姿よ>
<日向の国むら立つ山のひと山に住む母恋し秋晴れの日や>
父のことも忘れてはいない。
<病む母をなぐさめかねつあけくれの庭や掃くらむふるさとの父>
<父母よ神にも似たるこしかたに思ひ出ありや山ざくら花>
父と母を恋い慕う牧水だが、結局、生涯さすらう人であった。
<父の髪母の髪みな白み来ぬ子はまた遠く旅をおもへる>
文庫本や新書本が圧倒的に多いが、とある棚に厚さはさほどではないが、箱入りの小さめの本があった。
歌人・若山牧水の『おもひでの記』だった。
もう何年前になるのか記憶に薄れていたのだが、確かに宮崎県東郷町の山奥の「坪谷(つぼや)村」に残る若山牧水の生家と記念館を訪れていた。その時に記念に購入したのが自著の『おもひでの記』と、記念館発行の『牧水の生涯』(塩月儀市著)であった。
何時行ったのかも記憶に薄れていたのだが、購入した本の奥付を見ると、一つは昭和60年刊とあり、もう一冊は60年刊、63年増刷とあり、現地を訪ねたのは昭和63(1988)年以降であることは確実である。
そうなると考えられるのは、平成3(1991)年に指宿市から広島に転居し、その後、平成5年(1993年)に大隅半島の田代町に引っ越す間の寸暇に、広島から田代町への往復の途中で、牧水の生まれた宮崎県東臼杵郡東郷町の坪谷村の記念館を見学したのだろう。
若山牧水の歌はほぼ全国の人の口に膾炙されており、自分もその例外ではないのだが、耳川の支流「坪谷川」のあんな山奥に生い立った牧水が、なぜこのような誰の心にも染みわたるような短歌を残したのかが気になって仕方がなかった。
しかし記念館の内部を見学した記憶は全くない。それはおそらく、田代町に入ってからのこれまでとは全く違う環境に戸惑ったことと無縁ではあるまい。何しろ農業は初めてのことばかりで、何事にも集中しなけらばならぬこと半端ではなかった。だから、その直前のことなどさっぱりと忘れてしまったにのだろう。
さて、今度『おもひでの記』と『牧水の生涯』を読み返してみて、大いなる疑問が沸き上がった。
それは牧水の祖父「健海(たけみ)」のことである。
若山牧水の祖父は、何と武蔵国の所沢(埼玉県所沢市)の農家の出身であったというのだ。それだけならまだしも、江戸時代末期の文化年間(1804年~1813年)生まれの祖父は、13歳という年に江戸の生薬商に奉公に上がり、18歳になると伝え聞いていた長崎に渡来した医師シーボルトの薫陶を受けようと、はるばる彼の地に修行に出向いたのである。
(※ドイツ人ながらオランダ海軍付の医師であったシーボルトが長崎に来たのは1823年で、その後6年間を長崎に滞在している。)
そこで8年間学んだ後に独立して医業を始めるべく、宮崎県のこの坪谷村に居着いて開業した。
牧水は『おもひでの記』で祖父がなぜこんな山奥で開業したのかについて、次のように疑問を投げかけている。
<シーボルトに仕えて多年の間、医学を学んだ。当時、蘭学または洋医学を修めたと云へば、かなり大したものであったに相違ないが、それをどうして日向のような田舎へ引きこもったか不思議である。(中略)おもふに何か人には知られぬ、山の中に隠れたいか、または隠れねばならぬ必要があって引っ込んだに違いない。>
と記しているのだ。だが、これも不思議なのは、「山の中に隠れたいか、または隠れねばならぬ必要があって引っ込んだに違いない」といいながら、その「必要」について何ら弁明がなされていないことである。
牧水の生家の周りは自然の宝庫であり、牧水は幼少の頃からアユ釣りなど自宅周辺の遊びを事細かく記しているのだが、その一方、祖父が関東の武蔵国から生家のある東郷町坪谷村に移り住んだ顛末については、はっきりとは知らないようなのだ。
祖父の子は二男あり、牧水の父である長男・立蔵が坪谷村の医師となって地元に残ったのだから、祖父の経歴について事細かに知らされていたはずだ。それなのにナゼそうならなかったのだろう。
それは結局のところ、祖父の隠遁的な性格および牧水の言う「山の中に隠れねばならぬ必要」が相俟ってのことという他ないのか。釈然としないところだ。
それにしても豪農の出で、長崎遊学の資金は豊富にあったと言いながら、故郷の埼玉には帰らず、宮崎県の山中の村「坪谷(つぼや)」に骨を埋めた牧水の祖父が、はるばる長崎の出島に赴き、当時最先端の西洋医学を学ぶことができたことには驚きを通り越して唖然とするほかない。
祖父は坪谷村で開業した時、26歳だったという。江戸での漢方生薬の丁稚奉公をやめて長崎に行き、西洋医学を8年学んだあとのことであった。
当時の医学と言えばいわゆる各藩お抱えの「御殿医」(漢方医)が最高の医療をリードしていた。ところがオランダを通じて西洋医学が受容され、時あたかもシーボルトの来日で、漢方医である日本の医師たちの目覚めがもたらされたのである。
牧水の祖父は慧眼だったのだろう、江戸の漢方生薬の店に奉公している間に西洋医学への関心を高め、ついに(おそらく)家族の反対を押し切って長崎へ出立した。18歳のことだったという。身分制度厳しき江戸時代にあって、お伊勢参りと出家と医学修業はその制約から外れていたのだろう。
当時は医師の免許制度はなく、かなり自由に開業できたに違いない。もちろん最高ランクの藩医(御殿医)になるためには、様々な身分的な制約はあったのだろうが、いずれにしても医師になるのに「国家試験」のようなものはなかった。
西洋医学を修めているのならば、かなりの名声を得て高給取りになっていたと思われるのだが、それは明治に入ってからのことだろう。
祖父が坪谷村で開業したのは天保7年というから、西暦では1836年で、まだ漢方全盛の時代だった。いわゆる「赤ひげ医者」の時代である。
祖父・健海の医療がフロックでなかったことは、嘉永2年(1949年)に再び長崎に行き、オランダ医師モ―ニッケから種痘法を学び、同年、日向国(宮崎)では初めて種痘を施したことで証明できる。西洋医としての面目躍如であった。
祖父は酒が好きだったという。それを遺伝的に受け継いだのか、牧水も酒好きであった。そして他郷に出て、一度も故郷の武蔵国(埼玉)に帰らなかった祖父のさすらう性も。
<白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり>
は、もっとも有名な数首のひとつだ。他にも
<幾山河超えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞけふも旅ゆく>
<白鳥は悲しからずや空の青海の青にもそまずただよふ>
<ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ秋もかすみのたなびきて居り>
は今でも暗唱可能だ。母の歌も多い。
<父おほく家に在らざり夕さればはやく戸を閉し母と寝にける>
<母恋しかかる夕べのふるさとの桜咲くらむ山の姿よ>
<日向の国むら立つ山のひと山に住む母恋し秋晴れの日や>
父のことも忘れてはいない。
<病む母をなぐさめかねつあけくれの庭や掃くらむふるさとの父>
<父母よ神にも似たるこしかたに思ひ出ありや山ざくら花>
父と母を恋い慕う牧水だが、結局、生涯さすらう人であった。
<父の髪母の髪みな白み来ぬ子はまた遠く旅をおもへる>