鴨着く島

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古日向のヒメたち(記紀点描㉜)

2021-11-13 19:18:28 | 記紀点描
【はじめに】

「古日向」とは地理的に言えば、現在の鹿児島県と宮崎県を併せた広大な地域である。

702年に(古)日向から薩摩国が分立され、713年には同じく(古)日向から大隅国が分立されて、(古)日向は「日向・薩摩・大隅」の三国になったのだが、「日向」がそのまま宮崎県域に旧国名として残った。したがって713年以前の日向とそれ以降の日向国は全く別国と言ってよい。

しかしながら713年以前の古代史において、単に「日向」というと、今日の宮崎県域のことだと矮小化して捉えられてしまう傾向が強いため、私はわざわざ「古」を冠して表現している。

したがって、713年以前の「日向」を私は「古日向」と表記することにしている。タイトルに「古日向」としたのは、考察対象の年代が713年以前のことが中心だからである。

今日的には「南九州」と置き換えてもいいのだが、やはり記紀には「日向」と記載されているので、これを尊重しつつ「古日向」とした。

以前のブログでは「南九州(古日向)」という書き方をしていることが多々あるが、必要に応じてその表現をする場合があるので了解願いたい。

【古日向のヒメたち】

ヒメを古事記では「比賣(売)」と書き、日本書紀では「媛」(姫ではない)と書く。

古事記の書き方の方が明らかに古く、応神天皇の時代にウジノワキイラツコが漢字・漢文を習った時(405年頃)に、漢字の「音」を発音記号のように取り入れ、いわゆる「万葉仮名」として記録したわけで、おそらく400年代前半には、倭語の発音に合わせて「ヒメ=比売」が成立したものと思われる。

古日向において最初に現れるヒメは皇孫初代のニニギノミコトの妻になった「カムアタツヒメ」(別名コノハナサクヤヒメ)で、山の神オオヤマツミの娘である。薩摩半島の米どころ金峰町の古名「阿多(アタ)」に因んだ名とされる。

次はカムアタツヒメから生まれた三皇子のうち三番目のヒコホホデミ(古事記ではホオリノミコト)の妻となったトヨタマヒメである。トヨタマヒメは海の神ワタツミの娘で海中にあるイロコ(鱗)の宮に住んでいたとされ、ホホデミが失くした釣り針を探しに訪れて恋仲になった。

3番目は、そのトヨタマヒメが産んだウガヤフキアエズノミコトの妻になったトヨタマヒメの妹のタマヨリヒメである。

4番目は、ウガヤフキアエズの妻になったアイラツヒメ(吾平津媛。古事記では阿比良比売)であり、この名はヒメの出身地であると思われる鹿屋市吾平町に因んでいる。

以上の4人のヒメが天孫降臨神話(日向神話)に登場するヒメで、この時代は神話学の対象とされており、実在しないヒメたちであろうというのが学説である。古事記の記述でも、上・中・下の三巻に分けた記述のうち、このウガヤフキアエズ時代までを上巻としており、まさに「神話的な内容」であるという認識で書かれている。

したがってカムアタツヒメ・トヨタマヒメ・タマヨリヒメ・アイラツヒメの4人は神話的人物となり、実在性はきわめて乏しい。だが、最後のアイラツヒメはもちろん特定の人物を指しているのではないが、鹿屋市吾平町を含む大隅半島全体を代表する女王と言ってよい存在ではなかったかと思う。

(※吾平町にはこのアイラツヒメを主祭神とする「大川内神社」があり、吾平富士と呼ばれる中岳から伸びる小高い尾根筋に建てられているのだが、そこは古墳の類ではないかと感じられる趣のある場所である。また義父・義母に当たるウガヤフキアエズとタマヨリヒメの御陵「吾平山上陵」も存在する。)

<景行天皇妃として>

実在性が最初に感じられるヒメは、景行天皇時代に3人現れる。

いすれも景行天皇妃となった襲武媛(そのたけひめ)、日向髪長大田根(ひゅうがのかみながおおたね)、御刀媛(みはかしひめ)の3人である。

襲武媛は水沼別の祖となった「国乳別」と火国別の祖となった「豊戸別」を産み、日向髪長大田根は「日向襲津彦皇子」を産み、御刀媛は日向国造の祖となった「豊国別皇子」を産んでいる。

全てが景行天皇の皇子かどうかは眉唾だが、どの皇子も九州島内の地名を追認できる名の始祖であるから、造作(でたらめ)とは思えない。

さらに実在性の高いのは、同じ景行天皇の記事に登場する「諸県君泉媛(もろかたのきみ・いずみひめ)」であろう。このヒメは景行天皇の妃となってはおらず、景行天皇が日向にクマソ征伐に来て征伐完遂後に「おもてなし」をしたという女首長である。諸県は今日の宮崎県南部のほとんどを占める広大な地域であった(景行天皇18年条)。

<応神天皇妃として>

応神天皇には10人の后妃がいたが、その中に「日向泉長媛(ひゅうがのいずみながひめ)」がいた。二人の皇子を産んでいる。この「泉」は薩摩半島の出水のことで、その出水地方の「長」つまり「おさ」であったヒメだろう。

この人は、西暦700年に大和王朝からの国覓使(くにまぎのつかい=調査団)に対して狼藉を働いたとされる「薩摩ヒメ・ハズ・クメ」という女首長の存在をほうふつとさせる。

<仁徳天皇妃として>

仁徳天皇をして次の歌を詠ませたほどのヒメがいた。諸県君牛諸井の娘・髪長媛(かみながひめ)である。

<道のしり(後) こはだ乙女を 雷のごと 聞こえしかども 相枕まく>
<道のしり こはだ乙女は 争わず 寝しくをしぞも 愛しみ思ふ>

と、「雷のごと」くに、評判が鳴り響いていた乙女を手に入れた喜びあふれる歌である。

仁徳天皇には正妃のイワナガヒメ(葛城ソツヒコの娘)がいたが、イワナガヒメは大変嫉妬深く、仁徳天皇が美女にちょっかいを出させまいと睨みを利かせていたようだが、髪長媛との確執は記事に無い。髪長媛は大日下(草香)皇子とハタビノワキイラツメ皇女を産んでいる。

このオオクサカ皇子は允恭天皇が天皇位に就かなければ、天皇になっていた可能性の高かった人物であるが、安康天皇によって殺害されてしまう。その代わり、妹のハタビノワキイラツメは後に雄略天皇の后妃となった。

髪長媛がわざわざ日向から輿入れしたということと、ヒメが産んだ皇子大草香が殺害されたこととは、セットで考えるべきで、ともに日向の一大勢力を抑えるための事績であったとしてよいだろう。それほど日向の勢力は大きかったのである。

しかし残念ながら応神天皇と武内宿祢およびその一族が君臨していた南九州古日向は、任那(旧弁韓)を拠点とする半島諸国との交渉、特に対高句麗戦などにより戦力を動員していたため、次第に疲弊しつつあった。

この状況を反映したのが、髪長媛の入内とその子のオオクサカ皇子殺害であろう。

髪長媛とは「神長媛」であり、神を主宰する能力を持ったヒメということであるから、そのヒメを入内させるということは、日向の祭祀権を奪う(取り上げる)ことでもあったし、併せて天皇就任に近かった日向の血筋のオオクサカ皇子は亡き者にされた。これで神功皇后及び応神時代に復活するかと思われた日向は埋没する羽目になってしまったのである。