鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

史話の会11月例会(邪馬台国関連㉗)

2021-11-21 23:43:25 | 邪馬台国関連
「史話の会」の11月例会を開催した。(鹿屋市東地区学習センターで、午後1時半から4時まで)

今月は日本書紀に見えるいわゆる「欠史8代」についての話であった。

【欠史ではなかった綏靖天皇紀】

「欠史8代」というのは、大和王朝初代の神武天皇の次の綏靖天皇から第9代開化天皇まで8代の記述に「事績」(具体的な記事)がないことから、通称として名付けられた用語である。(※ほぼ正式な歴史用語として通用している。)

この8代は事績(具体的な記事)がなく、宮殿の名及び皇后と皇子皇女たちの名前だけが記されているのだが、実は第2代の綏靖天皇の即位前紀には事績があるのだが、忘れ去られている。その事績とは次のようである。

<時にカムヌナカワミミのミコト(綏靖天皇)、孝たる性、純に深く、(亡くなった神武天皇を)悲慕すること止む事なし。特に心を喪葬の事に留め給えり。その庶兄(ままあに)タギシミミノミコト、行年すでに長じ、久しく朝機(あさのまつりごと)を歴たり。故にまた、事を委ねて自らせしむ。>

神武天皇が大和王朝を開いたのちに娶ったイスケヨリヒメの子である綏靖天皇にとっては庶兄(ままあに)であったタギシミミのミコトは、結構な年回りで、すでに久しく「朝機を歴ていた」つまり「朝廷のハタラキをしていた」のであった。

要するにタギシミミは綏靖天皇が皇位につくまでの間、長らく朝廷を支配していたというのだ。つまりはタギシミミは天皇だったのである。

以上が事績のひとつ。もう一つがタギシミミの暗殺である。

このタギシミミを「禍心(まがこころ)」すなわち汚い心を持っていたとして、長兄のカムヤイミミのミコトを差し置いて弟のカムヌナカワミミノミコト(第2代の綏靖天皇)が殺害する。これも事績のうちに入る。

これらは3代安寧から9代開化までの残りの天皇紀には見られない点で、一括りに「欠史八代」とするのは誤りである。

【タギシミミ殺害記事の意味】

南九州古日向から神武天皇とタギシミミが東征し、大和に最初の王朝を開いたとした記紀の記述を、私は南九州投馬国王のタギシミミ(神武ではない)が移住的な東遷を果たした結果大和に王権を築いたと解釈するのだが、記紀編纂時代の690年頃から710年頃にかけて、大和王権が南九州を含む種子島など南西諸島を大和王権下に包摂しようとした際に、現地「隼人」(南九州人)を刺激して反抗が繰り返されていた。

特に古日向からの薩摩国および多禰国の分立、かつ令制国化への反発は大きく、大和王権はかつては最初の王朝を築いたがゆえに人皇の初代を神武天皇と諡号し、東征の経緯を詳しく記述したほどなのだが、結局は反大和王権を掲げる南九州の反逆を目の当たりにして、南九州からの「神武東征」までは否定しないが、当事者(功労者)であったタギシミミは切り捨てたのだろう。

タギシミミは南九州生まれであるから、列島全域に律令制を推し進める大和王権に対して反抗止むことの無い南九州からやって来たとはしたくない記紀の編纂者が、タギシミミを「禍心(まがこころ)」もった輩と断定し、亡き者に仕立て上げた(改変した)のだろう。皇子のカムヌナカワミミは大和生まれであるから、大和王権としては問題視しなかったのである。

以上がタギシミミ殺害についての私見だが、そもそも神武も神武東征も、もちろんタギシミミもカムヌナカワミミも、すべてが造作に過ぎないとするのが古代史学者の定説だが、それなら南九州から父の神武天皇とともに行った皇子の名がタギシミミという奇妙な名であり、また大和で新たに生まれた皇子たちに、カムヤイミミ、カムヌナカワミミと、これまた不可思議な名ばかりを付けたのはどういうわけだったというのだろうか。

タギシミミという名を最初に造作したから、それに因んで、大和生まれであるにしてもやはり「ミミ」なる名を付けた方が造作っぽくないからだ――という理屈になるのだろうか。

大和生まれであるなら「大和彦」「大和足(たらし)彦」などと大和の地名を冠した名にするのが、大和王朝の初期天皇としてはふさわしいのではないか。

それとも記紀の編纂者たちは実は南九州が投馬国であることを知っており、その国王の名には「ミミ」が使われていたから、「タギシミミ」「カムヤイミミ」「カムヌナカワミミ」という投馬国に由緒を持つ本物っぽい名を創作したとでもいうのだろうか。

これはこれで面白い見解だが、記紀の編集者は神功皇后を邪馬台国女王卑弥呼になぞらえており、邪馬台国大和説を採っているので、投馬国の比定地は南九州では有り得ず、この見解は成り立たない。

この大和生まれの皇子たちにも「ミミ」名を付けていることが、私見の「神武東征=投馬国王タギシミミ東征」説のひとつの根拠であり、また南九州からの東征(実は移住的東遷)の史実性を担保するのである。

【欠史時代の天皇名に見える不可解】

第10代崇神天皇の前の天皇の諡号を眺めていると、不可解なことに気付かされる。以下に天皇名を列挙する。

初代 神武(じんむ)
2代 綏靖(すいぜい)
3代 安寧(あんねい)
4代 懿徳(いとく)
5代 孝昭(こうしょう)
6代 孝安(こうあん)
7代 孝霊(こうれい)
8代 孝元(こうげん)
9代 開化(かいか)
10代 崇神(すじん)

不可解というのは、これらのうち、5代から8代までの天皇名(漢風諡号)を見ると「孝」の連続であることだ。

5代孝昭、6代孝安、7代孝霊、8代孝元がそれで、この「孝」の意味は「親に従う」であり、これがなぜ揃いも揃って連続して付けられているのかが不可解である。初代から4代および9代以下とは明らかに異質である。

しかもこの4世代の天皇名から共通の「孝」を取り除くと、「昭」「安」「霊」「元」となる。一見してどうも大陸王朝の皇帝名に似ている。

そこで調べてみると、確かに大陸王朝で使われる皇帝名には、この4字のほかに「武」「文」「明」などがよく使われている。

詳しく見ていくと、何と、この「昭」「安」「霊」「元」の全てを持っている王朝があった。それは漢王朝である。

「昭」帝・・・前漢の第8代  「安」帝・・・後漢の第6代  「霊」帝・・・後漢の第12代  「元」帝・・・前漢の第11代

以上のように漢王朝には「昭」「安」「霊」「元」すべての皇帝名がある。

この他とは違う異質な天皇名がなぜ5代から四世代にわたって付けられたのか、しかも漢王朝の皇帝名を借用して・・・。

【渡来王朝系譜の橿原王朝系譜への接合】

渡来王朝とは簡単に言えば「崇神王権」のことであり、橿原王朝は初代神武(実はタギシミミ)から始まる南九州由来の「投馬国王権」のことである。

結論から言うと、橿原王朝の系譜は初代から4代目までで、そこに渡来王朝たる崇神王権の父祖王たち四世代を「孝昭」「孝安」「孝霊」「孝元」として繰り入れ、接合したのだ。

「渡来王朝とは簡単に言えば崇神王権のこと」と上述したが、この崇神王権の歴史を若干書いておかなければならない。

崇神天皇は半島南部の辰韓(のちの新羅。668年からは統一新羅となる)の王統であった。

最初は楽浪の地にいたが、紀元前200年頃に秦末の混乱で南下して来た衛満に国を奪われて、馬韓(のちの百済)に避難した。そのに「月支国」を与えられ、次第に東南部を開拓して辰韓12国を成立させた。

ところが紀元前108年に漢王朝によって楽浪郡が置かれ、さらに紀元後204年には帯方郡が置かれると、半島南部の馬韓・弁韓・辰韓の「三韓諸国」は圧迫を受けはじめ、辰韓王になっていた崇神天皇の父祖は南下を余儀なくされた。

漢王朝に代わった三国のひとつである魏が、帯方郡を置いた公孫氏を排除してみずから植民地化する(237年頃)と、さらに圧迫は大きくなり、辰韓王はさらに南下、つまり朝鮮海峡を渡るべく王宮の移動を開始した。

そしてその5代目に当たるのが崇神天皇であり、この天皇時代に王宮そのものを半島から完全に九州北端の糸島(五十=イソ)後に移し終えた。これが五十王国(イソおうこく)であり、崇神の和風諡号「ミマキイリヒコ・イソニヱ」はそのことを端的に示している。

五十王国は糸島を本拠として北部九州倭人(奴国など)の支持を集め、やがて北部九州倭人連合の意味の「大倭」の盟主となった。

この「大倭」が半島に触手を伸ばして来た魏の侵入を危惧し、ついに大和への東征を果たした。南九州由来の投馬国王権(橿原王朝)樹立の100年ほど後の260年代ではなかったかと考える。この時の東征期間は日本書紀の記している3年余りで、古事記の記す東征期間16年以上とは明白に区別される。

これは二つの東征、つまり、古事記の記す東征は南九州投馬国からであり、日本書紀の記す東征は北部九州の「大倭」からであったことを示していると考えるほかない。

記紀の編纂方針は「日本の王統は列島において自生し、しかも万世一系であった」であるがゆえに、南九州からの初代王権に対して崇神が後から大和に入ってその王権を打倒したとは書けないから、両王統が一系になるように融合させたのがこの「孝昭」「孝安」「孝霊」「孝元」の4代の天皇であろう。

「昭」「安」「霊」「元」という父祖の王名は、半島の辰韓時代に漢王朝と朝貢関係にあった際に、漢王朝の皇帝名を記録しておいたのを援用したのではないかと思われる。あるいは実際にその名を崇神の父祖が名乗っていたのかもしれない。

いずれにしても、南九州由来の大和王権と、100年ほど遅れてやって来た北部九州由来の大和王権とを一系に接合したのが、「欠史8代」時代の真相であろう。もちろんどちらも「造作のおとぎ話」ではない。