今朝のNHK「あさイチ」では、篠山輝信(輝をアキと読むので通称アッキー。父は写真家篠山紀信、母は沖縄出身のアイドル歌手南沙織)が母の故郷沖縄を縦断する旅に出て、様々な見聞をするという内容だった。
といってもただの沖縄旅行ではなく、今年の5月15日が沖縄の本土復帰記念50周年だったことに焦点を当てていた。
とある個人タクシーを使い、南部戦跡以外の那覇から最北端の辺土岬までの国道58号線の途上にあるポイントでは車を降りてその周辺を歩いてレポートしていた。
記憶に残っている所では那覇の首里城跡、コザ(現在はうるま市)の旧繁華街、本部町の沖縄海洋博記念公園の「美ら海水族館」そして最北端の辺土岬だったが、一番興味を誘ったのは何と言っても2019年12月に全焼した首里城がどうなっているかだった。
現在は3年後の竣工を目指して工事中だが、工事中の様子を一般人が見学できるように安全なコースを整備してあったのには驚いた。(※見物料金が必要なのかどうかは聞き漏らした。)何にしても瞼に焼き付いているあの朱塗りの壮麗な正殿の完成が待たれる。
この写真は2009年に姪が沖縄で結婚式を挙げた時に参列し、式の前後にいくつかの史跡を巡った時の一枚。この時の正殿は、あの全焼した改修工事時点の前の姿である。
首里城の工事現場の後はやはりコザが記憶に残る。1970年に有名な「コザ騒動」が発生した町だ。
ひとりの日本人が夜中に米軍兵士の運転する車にはねられるという事故が起きたが、基地からやって来た米軍憲兵はその米兵を一時拘束したが、すぐに釈放したため目撃していた日本人がその事故車や憲兵の車をはじめ、近くに駐車してあった米兵の車両をことごとくひっくり返し、近くのスタンドで手に入れたガソリンをぶっかけて燃やした事件である。
近くに住んでいたという70歳くらいの同級生だという男性が二人、その目撃情報をかなり詳しく語っていた。ひとりはちょうど受験勉強の最中だったというから、自分と同じ世代だろう。一台の車を6人がかりでひっくり返そうとしていたのに加勢したというから生々しい。
このコザ騒動(1970.12.20)の2年後、正確には1年と5か月後の1972年5月15日が本土復帰の日だった。この事件は復帰を早めたのかもしれない。
本土復帰については、沖縄県民に大きな期待を持って迎えられたのだが、「米軍基地の本土並み返還」という沖縄県民の願いはかなえられなかった。このことはアッキーを乗せて案内した個人タクシーの運転手(確か78歳)も残念がっていた。あまりに急な返還だったゆえ、基地の縮小(本土並み)がスルーされてしまったことへの憤りのようであった。
この憤りはよく分かる。この4年前の沖縄県民による初の行政主席(首長)選挙では、「沖縄基地の即時・無条件・全面返還」を訴えた屋良朝苗氏が当選したにもかかわらず、米軍基地はそのまま存続したからである。
(※しかしながら戦後の歴史を顧みると、1949年10月に大陸で毛沢東率いる共産中国が建国されたのを受けて、よく1950年1月6日に何と英国が共産中国を承認してしまい、慌てた米国は沖縄を中国の脅威に対する防波堤にすべく動き出している。
同じ1950年1月31日にアメリカの統合参謀本部議長であるブラッドレーが、沖縄基地の強化を提言し、それを受けて翌2月10日、GHQは沖縄に恒久的な基地建設をする旨の声明を出しているのがその対応である。
沖縄基地の恒久化――この戦略はすでに本土復帰の20年以上前から取り上げられ、練られていたことになる。歴史の闇の部分と言ってよい。「本土復帰」が真の本土復帰ではないのは、実にここを淵源とするのだ。・・・これについてはさらに深めて取り上げたい。)
さて、ゲストに出ていた沖縄出身の芸人「ガレッジセール」のゴリは、復帰の日の1週間後に生まれたという。沖縄では当時、1972年生まれの子を「復帰っ子」と呼んでいたそうで、小学校に上がれば「復帰っ子も小学生に」とか「復帰っ子が成人式を迎えた」とか、よくニュースに取り上げられたらしい。
母の店が国際通りにあったとかで、子どものころ遊ぶと言えば国際通り界隈だったようだ。だから国際通りっ子。鹿児島なら天文館っ子。東京なら銀座っ子?か。
(※「ふっきっこ」とはいかにも言いにくいが、沖縄言葉ならどういうのだろう。「復帰」のほうは本土復帰だからそのままの方が良いが、「子」は沖縄では「ワラビ・ワラバ」だから「復帰ワラビ」ではなかろうか? 本土並みに本土言葉(大和言葉)風に仕立てたのだろうか・・・)
といってもただの沖縄旅行ではなく、今年の5月15日が沖縄の本土復帰記念50周年だったことに焦点を当てていた。
とある個人タクシーを使い、南部戦跡以外の那覇から最北端の辺土岬までの国道58号線の途上にあるポイントでは車を降りてその周辺を歩いてレポートしていた。
記憶に残っている所では那覇の首里城跡、コザ(現在はうるま市)の旧繁華街、本部町の沖縄海洋博記念公園の「美ら海水族館」そして最北端の辺土岬だったが、一番興味を誘ったのは何と言っても2019年12月に全焼した首里城がどうなっているかだった。
現在は3年後の竣工を目指して工事中だが、工事中の様子を一般人が見学できるように安全なコースを整備してあったのには驚いた。(※見物料金が必要なのかどうかは聞き漏らした。)何にしても瞼に焼き付いているあの朱塗りの壮麗な正殿の完成が待たれる。
この写真は2009年に姪が沖縄で結婚式を挙げた時に参列し、式の前後にいくつかの史跡を巡った時の一枚。この時の正殿は、あの全焼した改修工事時点の前の姿である。
首里城の工事現場の後はやはりコザが記憶に残る。1970年に有名な「コザ騒動」が発生した町だ。
ひとりの日本人が夜中に米軍兵士の運転する車にはねられるという事故が起きたが、基地からやって来た米軍憲兵はその米兵を一時拘束したが、すぐに釈放したため目撃していた日本人がその事故車や憲兵の車をはじめ、近くに駐車してあった米兵の車両をことごとくひっくり返し、近くのスタンドで手に入れたガソリンをぶっかけて燃やした事件である。
近くに住んでいたという70歳くらいの同級生だという男性が二人、その目撃情報をかなり詳しく語っていた。ひとりはちょうど受験勉強の最中だったというから、自分と同じ世代だろう。一台の車を6人がかりでひっくり返そうとしていたのに加勢したというから生々しい。
このコザ騒動(1970.12.20)の2年後、正確には1年と5か月後の1972年5月15日が本土復帰の日だった。この事件は復帰を早めたのかもしれない。
本土復帰については、沖縄県民に大きな期待を持って迎えられたのだが、「米軍基地の本土並み返還」という沖縄県民の願いはかなえられなかった。このことはアッキーを乗せて案内した個人タクシーの運転手(確か78歳)も残念がっていた。あまりに急な返還だったゆえ、基地の縮小(本土並み)がスルーされてしまったことへの憤りのようであった。
この憤りはよく分かる。この4年前の沖縄県民による初の行政主席(首長)選挙では、「沖縄基地の即時・無条件・全面返還」を訴えた屋良朝苗氏が当選したにもかかわらず、米軍基地はそのまま存続したからである。
(※しかしながら戦後の歴史を顧みると、1949年10月に大陸で毛沢東率いる共産中国が建国されたのを受けて、よく1950年1月6日に何と英国が共産中国を承認してしまい、慌てた米国は沖縄を中国の脅威に対する防波堤にすべく動き出している。
同じ1950年1月31日にアメリカの統合参謀本部議長であるブラッドレーが、沖縄基地の強化を提言し、それを受けて翌2月10日、GHQは沖縄に恒久的な基地建設をする旨の声明を出しているのがその対応である。
沖縄基地の恒久化――この戦略はすでに本土復帰の20年以上前から取り上げられ、練られていたことになる。歴史の闇の部分と言ってよい。「本土復帰」が真の本土復帰ではないのは、実にここを淵源とするのだ。・・・これについてはさらに深めて取り上げたい。)
さて、ゲストに出ていた沖縄出身の芸人「ガレッジセール」のゴリは、復帰の日の1週間後に生まれたという。沖縄では当時、1972年生まれの子を「復帰っ子」と呼んでいたそうで、小学校に上がれば「復帰っ子も小学生に」とか「復帰っ子が成人式を迎えた」とか、よくニュースに取り上げられたらしい。
母の店が国際通りにあったとかで、子どものころ遊ぶと言えば国際通り界隈だったようだ。だから国際通りっ子。鹿児島なら天文館っ子。東京なら銀座っ子?か。
(※「ふっきっこ」とはいかにも言いにくいが、沖縄言葉ならどういうのだろう。「復帰」のほうは本土復帰だからそのままの方が良いが、「子」は沖縄では「ワラビ・ワラバ」だから「復帰ワラビ」ではなかろうか? 本土並みに本土言葉(大和言葉)風に仕立てたのだろうか・・・)