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(2)邪馬台国論における2番目の誤謬

2024-08-16 09:14:06 | 邪馬台国関連
(1)では邪馬台国に至る行程のうち、九州北端にある末盧国(佐賀県唐津市)に上陸したあと「東南陸行して伊都国に至る」という行程を曲解して、東北にある福岡県糸島市に行き、糸島こそが「伊都国だ」と比定したことが最大の誤謬だと指摘した。

この伊都国糸島説はほとんどの研究者が信じて疑わないのだが、まず唐津市から糸島市への方角は東南ではなく東北であること。また糸島市なら唐津市(末盧国)などに上陸せず、壱岐国(一大国)から船を直接向かわせればよいのであって、なにも王のいない末盧国に上陸して山が海に迫る悪路を歩く必要は全くないのである。

東南なのに東北が正しいと考えた伊都国糸島説では、以後、南は東の誤りとして邪馬台国への行程を東へ東へと曲解した末に、ついに畿内こそが邪馬台国の在処だと断定してしまった。

邪馬台国は大和国の前身だと考えるのも畿内論者の定番的思考である。

しかし畿内説が成り立たないのは帯方郡から末盧国(唐津市)までの行程は「水行1万里」(帯方郡・狗邪韓国間の7千里+狗邪韓国・末盧国間の3千里)である。そして倭人伝の行程記述の最後に「郡より女王国に至る、1万2千里」と書かれており、この総行程から「水行1万里」を引けば残りは「2千里」しかなく、2千里では畿内に至るすべもなく畿内説は成り立たないのだ。

もう一つ畿内説が成り立たない大きな理由がある。

それは伊都国(自説では佐賀県厳木町)から徒歩で東南に100里の「奴国」(自説では佐賀県多久市~小城市)、さらに徒歩で東へ100里の「不彌国」(自説では佐賀県佐賀市の北、大和町)まで記されている。

しかしその次は急に「南、投馬国に至る、水行20日」と書かれ、さらに「南、邪馬台国、女王の都する所に至る、水行10日、陸行1月」と「水行の日数」が現れるのだ。

行程論では方角についての誤謬の最たるものが末盧国から伊都国への行程上の東南を東北に曲解したことだが、同じ行程論の水行の日数について多くの研究者は戸惑いを隠せないでいる。

その挙句、畿内論者は「投馬国は不彌国から船に乗って東へ20日行った所にある」と曲解し、私のように不彌国は佐賀平野にあると考えた者でも、佐賀平野の港から南へ20日航行したところが投馬国で、そこはおおむね南九州だとする。

畿内説のように南を東に改変してしまうのはもとより誤謬で論外だが、倭人伝の記述通り伊都国を末盧国の東南に比定し、奴国と不彌国を佐賀平野の西部に比定する九州説でも「不彌国から南へ水行20日で投馬国だから、投馬国は宮崎県の都万(おおむね西都原市)を含む一帯であり、女王国に敵対している狗奴国はクマソ国だから南九州でも鹿児島県が該当する」とする論者がある。

これは九州説の中でも比較的理にかなっている説だが、佐賀平野の港から水行20日もしたら、天草を通過して南九州南端の坊津からはるか南の太平洋の上まで行く距離(日数)である。

また次の邪馬台国も不彌国・投馬国間と同様に、投馬国から南へ水行10日かつ陸行1月だ考えると、南九州からさらに南へ10日船で行き、さらにどこかに上陸して1月行く場所になるが、そのような場所(島)は存在しない。

では不彌国の後に続く「南投馬国水行20日」さらに「南邪馬台国水行10日、陸行1月」という行程記述はどう捉えたらよいのだろうか。

ここで次の論理を提示しよう。

【海峡渡海1000里は一日行程である】

繰り返すまでもなく、帯方郡から唐津市の末盧国まで水行距離は1万里であった。

このうち最初の7千里は帯方郡治の港から朝鮮半島の西岸を航行し、西南端の珍島島を回って朝鮮海峡に入り、そのまま半島の南部沿岸を洛東江の港町「狗邪韓国」に至る。

ここから船は南を目指し、対馬国、壱岐(一大)国を経て末盧国(唐津市)に到達するのだが、狗邪韓国・対馬間、対馬・壱岐間、壱岐・末盧国間の三つの海峡はすべて距離は全く違うのに同じ千里で表されている。

ここに疑問を感じた私は、この同じ距離の千里とはどういうことなのか、第一海の上の距離は測れないはずなのだが――などと考えていてふと気づいたのである。

それは距離が同じということではなく、渡る日数が同じということなのではないか――と。

では何日か?

それは一日である他ない。なぜなら朝鮮海峡の流れの速さはかなりのもので、狗邪韓国から対馬までがもっとも距離があるのだが、渡っているうちに寝ることはできない。漕ぎ手が手を休めたが最後、船はどんどん東に流され日本海へ抜けてしまうのだ。

この狗邪韓国・対馬間は直線距離にして80キロはあり、ここが航行上の最大の難関だろう。それでも海が凪いでいる日を見計らって早朝東が白み始めたら船を出し、その日の夕刻日が沈みかけるまでの10から12時間漕げば渡り切ることは可能だ(理論上は時速8キロ程度)。

対馬から壱岐間、壱岐から唐津間は狗邪韓国・対馬間に比べたらかなり楽だろう。こうして朝鮮海峡を渡るのにようする期間は3日(ただしこれは理論値で、漕ぎ手の休息や天候による出航見合わせの日数は考えない)。

つまり倭人伝では、この4地点間の最短日数の各1日を「水行千里」で表したものと考えられ、したがって狗邪韓国から末盧国までの水行要する日数は3日と換算できる。(以上が「水行千里一日行程説」である。)

この「水行千里=一日行程」を帯方郡から狗邪韓国までの水行7千里に当てはめると、要する日数は7日となる。そしてこれに海峡渡海の3千里を換算した3日を加えると「水行10日」が得られる。

この「水行10日」こそが投馬国の直後に記述された「南、邪馬台国女王の都する所、水行10日、陸行1月」のうちの「水行10日」に該当する。

要するに「南、邪馬台国女王の都する所・・・」という記述は直前の投馬国からの「南、・・・」ではなく、帯方郡からの「南、・・・」だったのである。

このことと倭人伝の行程記述の最後にある「郡より女王国に至る、万2千余里」とを勘案すると、この中の1万里とは帯方郡から末盧国の1万里に合致し、その所要日数は10日でまさに「南、邪馬台国女王の都する所、水行10日、陸行1月」のうちの水行10日に該当する。

つまり「南、邪馬台国女王の都する所、水行10日、陸行1月」と「郡より女王国に至る万2千余里」とは同値だったのだ。

このことから邪馬台国は帯方郡から距離表記で1万里を南下して末盧国まで、水行つまり船で10日かかって至り、九州島に着いてからは東南方向に1か月歩いて到達できる場所にあるということになる。

このことからも畿内説の成り立つ余地は全くないのである。


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