前述の纏向デジタルミュージアムのサイトでは、纏向古墳群の盟主的古墳「箸墓古墳」を卑弥呼の墓と決定したい様子が見て取れるが、そもそも邪馬台国が大和のこの地に展開する国ではあり得ないからその見解は否定せざるを得ない。
墓を管轄する宮内庁ではこの古墳の名を「大市墓」とし、書紀の崇神紀に見える有名な「三輪山伝説」に登場するヒロイン「倭迹迹日百襲姫命(やまと・と・と・ひももそ・ひめ)」の墳墓に指定している。
これは崇神天皇の代にあった三輪山の主と皇女の神話伝承をそのまま踏襲しているのだが、戦後は神話などは歴史学の上からは否定され、それに代わって考古学がこうした神話時代の「迷妄」に対して大きな武器となり、遺構と遺物によって科学的に解明しなければ、という認識が一般化した。
ところがその路線には大きな壁があり、上のような「宮内庁の管轄」に加えて「国の指定」という規制が考古学的に必要な発掘をさせないでいる。
大和の纏向地方に邪馬台国があり、箸墓を卑弥呼の墓と考えたい研究者は隔靴掻痒のじれったい思いでいるに違いない。その思いがより一層、箸墓を卑弥呼の墓だ、と叫ばせるのだろうが、卑弥呼の墓に関しては倭人伝という文献にあるだけなのだ。
まずはその部分を見て行かなくてはならない。
卑弥呼は南にある宿敵「狗奴国」が北進して来るのを抑えようと、魏王朝に救援を求めている。西暦238年に最初の朝貢をした際は、そのような点は微塵も感じさせないような「外交」だったが、正始元年(240)に魏王朝からの多量の返礼品と詔書・印綬が届けられたことが狗奴国を刺激したようである。
「親魏倭王」という称号を貰った卑弥呼に対し、狗奴国の男王は危機感さえ抱き、侵攻を開始したのかもしれない。
その結果、邪馬台国では正始4(243)年、2度目の朝貢を行い、その中で狗奴国が邪馬台国を襲おうとしている旨を伝え、その2年後の245年、魏王朝は黄幢(錦の御旗)を使者の大夫・難升米に授けることにした。
実際に黄幢(錦の御旗)を、魏の皇帝からの詔書とともに邪馬台国にもたらしたのは、帯方郡の官吏、塞曹掾史・張政たちであったが、それはさらに2年後の247年のことであった。そして同じ年のうちに卑弥呼は亡くなっている。
その部分は次の通り(読み下し文にしている)。
<その(正始)8年(247年)、太守・王頎、官に到る。倭女王・卑弥呼は狗奴国男王・卑弥弓呼ともとより和せざれば、倭の載斯烏越らを遣わして郡に詣でしめ、相攻撃する状を説けり。塞曹掾史・張政らを遣わし、因りて詔書・黄幢をもたらしむ。難升米に授け、檄文をつくって告諭せり。卑弥呼は自死し、大いに墓を造れり。その直径は100歩余り、殉葬の奴婢は100人余りなり。>
帯方郡の長官として王頎が到着すると、女王から遣わされていた「倭の載斯烏越(人物名。サイシウエか)」と言う人物が邪馬台国と狗奴国が戦争状態になったことを伝えた。邪馬台国女王と狗奴国の男王とはかねてから不和であったというのだ。
そこで塞曹掾史・張政と言う官吏を邪馬台国に遣わし、皇帝からの詔書と黄幢(錦の御旗)を持って行かせたが、卑弥呼は詔書と黄幢を自分自らではなく大夫・難升米に受け取らせた。塞曹掾史・張政がはげしく告諭すると、卑弥呼は自死した。
「卑弥呼以て死す」の解釈だが、「以て」は「直ちに・間もなく」の意味だから、張政が姿を見せずに祈祷だけをし、皇帝からの詔書を受け取るのは人任せにした卑弥呼に対して、張政は怒りさえ覚えたのだろう。
「祈るだけで戦いに勝つなんてことは有り得ない。もっと人民の前に姿を見せて戦士を励ましなさい。」というような趣旨のことも伝えたのではないか。
その結果、卑弥呼は死を選んだのだろう。
彼女が死ぬと、人民は大いに墓を造った。その直径は100歩余り、殉葬の奴婢は100人余りだった。
卑弥呼の死の真相は明確ではないが、とにかく247年のうちには死に、国内は後継者をめぐって争いが起こり、千人余りが死んでしまったが、かつての卑弥呼のように13歳の一族の少女が王に立てられて収まったという。
卑弥呼の死による邪馬台国内の争乱に、狗奴国はどうしていたのかが気になるが、おそらく魏王朝からの使者たちと黄幢の前に、侵攻の手を止めたのだろう。
さて、この時に造られた卑弥呼の墓だが、直径は100歩余りということと殉死者がいたという情報だけである。「径百余歩」だから円墳だろうということは分かる。
期間はどれくらいかかったのか、全く不明であるが、おそらく帯方郡からの使者たちが帰るまでには完成していたに違いない。
私は彼らが到来した247年の翌年、つまり248年のうちには帯方郡に帰ったと考えており、そうすると1年以内には完成しているはずで、纏向の箸墓の直径が150mもあるのを造るのは無理である。
もとより箸墓古墳は「前方後円墳」であるから、円墳である卑弥呼の墓に適うことはない。
情報は限られているが、以上の点から箸墓古墳が卑弥呼の墓であることは有り得ない。
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