(1)では邪馬台国の位置を述べ、統治組織に見られる「4等官」官制のうち、第一等官である「伊支馬」(イキマ=イキメ=活目)は、邪馬台国自生の官ではなく戦乱(倭国乱れ、暦年主なし=後漢書)に勝利した「大倭」による軍事顧問的な地位の官であるとした。
<北部九州の一大勢力「大倭」と伊都(イツ)国>
この「大倭」とは別名「五十王国」と言え、糸島を本拠に北部九州では最大の勢力となったのちの「崇神王権」の淵源である。
崇神は和風諡号で「ミマキイリヒコ・イソニヱ」といい、ミマキ(御間城)とは「天孫の王城」であり、イソニヱ(五十瓊殖)とは「五十(イソ)地方において王権を殖やす(伸長させる)」の意味で、朝鮮半島の狗邪韓国(のちの任那=伽耶)を経て、糸島(五十)に定着したことを示している。
その皇子である垂仁は和風諡号を「イキメイリヒコ・イソサチ」といい、こちらは邪馬台国に「イキメ(伊支馬)」として赴任したことがあったことを表している。またイソサチ(五十狭茅)とは「五十(イソ)において王宮とも呼べぬ狭い茅屋のような環境で生まれた、あるいは育った」ことを示している。
この「大倭」こと崇神王権(五十国王権)は、朝鮮半島で西暦204年に公孫度が帯方郡を設置した頃から風雲急を告げだし、代わって魏王朝の楽浪郡・帯方郡支配が始まると半島に別れを告げたようである。そして王宮を糸島こと「五十(イソ)」に移したのだろう。そこで垂仁が生まれた。
五十(イソ)王権が北部九州一帯から南へ勢力を伸ばして来ると、広大な天山山麓の佐賀平野部や筑前の甘木平野にはオオクニヌシ系の「厳(イツ)奴」が勢力を張っていた。必然的に両勢力は干戈を交えた。これが「倭国乱れ、暦年主なし」の状況である。
佐賀平野部から筑前朝倉までを支配していた「伊都(イツ)国」王権の大国主(別名八千矛命)は敗れ、一部が厳木(イツキ)町に追いやられ、大部は出雲(イツモ)に流された。
この時、邪馬台国女王の卑弥呼は軍事力ではなく霊能力で(神のお告げで)、疲弊した北部九州の勢力の間に立って矛を収めさせたに違いない。
しかし南部には虎視眈々と北進を狙う「狗奴国」(菊池川以南の熊本県域を統治)の存在があり、これを危惧した女王卑弥呼は「大倭」による軍事介入を願い、その証として第一等官に「伊支馬(イキマ=イキメ=活目)」という最高顧問を置いたのだろう。
第二等官「彌馬升」
これは「ミマショウ」と読めるが、「ミマ」は天孫、皇孫の「孫」(みまご)であり、一般的には「血筋、血統」が該当する。
「升」は「ショウ」だが、私は「シヲ」の転訛だと考える。つまり漢字化すると「~之男」になると思うのである。
この解釈で行くと「彌馬升」(ミマシヲ)は「血筋の男」となり、卑弥呼の一族から選ばれた男子が二等官になっていたと解せられる。
倭人伝では女王国のこれら官制を記したあとに国内の風俗・風習・物産などがかなり詳しく書かれるのだが、最後の方で、
「その国、元また男子をもって王と為す。(中略)相攻伐すること暦年、すなわち共に一女子を立てて王と為す。名付けて卑弥呼、鬼道につかえ、よく衆を惑わす。年すでに長大、夫婿なし。男弟ありて、国を治むるを佐(たす)けり(後略)」
とある。ここに登場する「男弟」こそが二等官の「彌馬升(ミマシヲ)」に違いない。
鬼道というシャーマン的な神のお告げを述べる卑弥呼には当然、行政的な能力はないから補佐役の者が必要で、その任を担っていたのが卑弥呼の一族どころか親族である弟だったということが読み取れる。
第三等官「彌馬獲支」
これは「彌馬(ミマ)」までは二等官と同じ「一族の」の意味だが、次の「獲支」がまずどう読むのかが定まらない。
「獲」はどう読んでも「カク」であり、そうすると「獲支」は「カクシ」もしくは「カクキ」だろう。
倭人語としての「カクシ」も「カクキ」もその意味は思いつかないのだが、二等官の「彌馬升」の解釈で引用した倭人伝の部分を引用してみると、先の続きは次のようになっていた。
「(卑弥呼は)王となって以来、まみ(見)え有る者少なく、婢千人をもって自らに侍らせり。ただ男子一人有りて飲食を給せしめ、辞を伝えて出入りさせり。(後略:このあと宮室・楼観・城柵の記述が続いて終わる)」
男弟が王国の統治を補佐していたとある後に、宮室に籠って人目に触れることはないが、婢千人を自分のまわりに置いていたという。
本当に千人もいたのかは極めて疑問で、多くは召使なのだろうが、中には卑弥呼同様の霊能力者がいて卑弥呼の霊能力発揮の加勢をしていたのかもしれない。その千人の婢を取り仕切る女官長がいてもおかしくはない。それを邪馬台国では「彌馬獲支」(ミマカクシ)と呼んでいたのだろう。
この「彌馬獲支」も「彌馬」を冠しているので、卑弥呼の一族から選ばれた女性(女官長)だったはずである。
第四等官「奴佳鞮」
最初の「奴佳」は「ナカ」と読める。最後の「鞮」は「テイ」と読むが、そうすると「ナカテイ」となる。
この官職も先の「彌馬獲支」解釈で引用した部分の「ただ男子一人有りて、飲食を給せしめ、辞を伝えるに出入りさせり。」という役職に当たる官だろう。
この官職は卑弥呼及び卑弥呼に仕える女官たちが神懸かりで得た言葉を受け止めて、邪馬台国自生のトップ官僚である男弟と卑弥呼の間を取り持ち、卑弥呼らの言葉を王国の施策に及ぼす重要な役目だと思われる。
私は「奴佳」を「ナカ(中)」に取り、「鞮」は「テ」と考える。つまり「ナカテ」で、漢字化すれば「中手」である。
「手」はあの仲哀紀と筑前風土記に登場する「五十迹手」(イソトテ)の「手」すなわち「ある役目の人物」の意味に取りたい。後の「中臣」(ナカツオミ)に相当する役職であり、神事を司る役目であろう。
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