岩戸山古墳を探訪
畿内大和に邪馬台国があり、247年に死んだ女王卑弥呼の墳墓は纏向古墳群を代表する「箸墓古墳」である――と考えるのが邪馬台国畿内説のダメ押しの感があるが、そもそも畿内説は成り立たないのでそれは不可である。
では、九州説ではどこに卑弥呼の墓があるとするのか?
畿内説を支持する研究者の多くはそう考えるに違いない。九州説の論者で卑弥呼の墓を特定したというのはほとんど聞いたことがないのだ。
私は2003年に『邪馬台国真論』を書き、福岡県の八女市郡域に邪馬台国があったと結論付けたのだが、実はその時点で卑弥呼の墓については結論を避けていた。
八女市にはかつて2回訪れていて、1回目は有名な「岩戸山古墳」を見物し、そのあと卑弥呼の墓をそれとなく探しつつ「童男山古墳群」などを見て回った。
その時は岩戸山古墳は前方後円墳であるから卑弥呼の死後に「径100余歩」という円墳が築かれたという倭人伝の記述に合わないので、論外とした。
また童男山古墳群は墳丘の小ささには不釣り合いな横穴式石室がサイドから入れるようになっていて、これも卑弥呼の時代にはあり得ないとして論外だった。
ところが8年か9年前に大隅地区の大崎町と言う所で地元の古墳群についてのシンポジウムがあって聴きに行った時、考古学マニアとして有名な俳優・苅谷俊介がパネリストとして招かれており、彼の口から「邪馬台国は畿内にあり、卑弥呼の墓は箸墓です。ただ、卑弥呼の墓は最初は円墳でしたが、前方部は後から付けたしたんですよ」と聞いて唖然としたのを覚えている。
そんなことがあるもんか――と瞬間、私は心中吐き捨てるよう言っていた。
箸墓が「初期の定型的な前方後円墳であり、その大きさも初期最大の古墳」と「定型的な」という形容が付く以上、前方部を後から付け足したとすれば矛盾もいいところではないか。
ところがその後5年ほどして、卑弥呼の墓の所在を再考した時に浮かんだのはこの「前方部付けたし説」であった。
折しもその頃、2回目に八女を訪れた時、岩戸山古墳の資料館が新しくなっており、資料館の中から壮大な岩戸山古墳がすぐそこに見え、資料館から後円部に登る道さえできていた。
後円部に登ると、墳頂には石囲いがあり、その中の中心には花崗岩でできた石柱が立てられていた。
刻字を読むとかつてこの場所には伊勢神社という社があったという。それが大正15年に移設され、今は墳丘の下にへばりつくように創建された「吉田大神宮」という神社になっているそうだ(西日本新聞によると今年創建100周年を祝う行事があった)。
後円部を下りて前方部に向かうのだが、その傾斜は先ほど資料館側から登って来た傾斜と変わらず大きいものだった。
下りきるとそこからは前方部なのだが、まるで小高い丘の尾根筋のように平らであった。行き着いた前方部の墳頂には小さな社が建ち、そこから左手に下りの石段があり、前方部のふもとまで降りることができた。
そこから左手へ50mほどで吉田大神宮の鳥居に到るのだが、神社に参ることはせずに資料館に引き返した。
岩戸山古墳について従来説への疑問
さて、日本書紀によると、継体天皇の時代に半島国家の新羅が任那への圧迫を強め、いくつかの国境地帯の地方が侵攻され始めたというので、継体天皇が物部アラカビに命じて6万の大軍を差し向けようとした時、それを察した新羅が当時筑紫の君であった磐井に賄賂を贈ってヤマト王府軍を抑えるよう画策した一件が発生した。
そのことでヤマト王府軍対磐井の戦いが勃発する。継体天皇の21年、西暦527年のことであった。継体紀によると、翌年の11月には筑紫国御井郡(現在の三井郡)で物部アラカビ自らが磐井を討ち取ったという。
この「磐井の乱」については『筑後風土記(逸文)』にも詳しく載っているが、こちらの記事では「磐井は討ち取られることなく逃げて豊前国の上膳県(かみつみけのあがた)に到り、さらに南の山岳地帯に入って終わった」とあり、死んだには違いないが継体紀とは描写に大きな違いがある。
そしてここが大事なのだが、筑後風土記にはさらに「筑紫君磐井は暴虐でヤマト王権の意向に従わず、生きている時にあらかじめこの墳墓を造っていた」と土地の古老の証言まで載せている。
「岩戸山古墳の被葬者は筑紫君磐井である」と多くの解説がなされているが、その論拠が下線の部分である。
だが磐井が被葬者であるとすると、いったいどうやって彼の遺体をこの墓に埋葬したのだろうか。
継体紀では戦死、筑後風土記では行方不明になりどこかの山中で終わって(死んで)いるのだ。
戦死なら賊軍の大将であるから八つ裂きにされてあちこちに埋められるし、どこか分からない山中で死んだのなら、遺体の回収のしようがない。仮に遺体(の一部)が見つかったにせよ、ヤマト王府軍が待機している八女に持って来て「生前墓」に埋葬するのは不可能であろう。
以上から、岩戸山古墳に磐井が埋葬されていると考えるのは不可解である。それに、反逆者磐井が生前に造ったのであるならば、ヤマト王権軍によって破壊されそうなものだ。
岩戸山古墳の後円部こそが卑弥呼の墓だ
そこでもう一度岩戸山古墳の姿を振り返ると、後円部の頂にはかつて(大正15年まで)「伊勢神社」があったということに思い至る。
伊勢神社であるから、無論、祭神は天照大神である(創建100年を迎えた吉田大神宮の祭神でもある)。
ここで私は次のように考えてみた。
――後円部にヤマト王府が尊崇する伊勢の大神つまり天照大神が祭られていたからこそ、ヤマト王府軍は古墳を破壊することなく引き上げたのではないか。
そして、後円部には天照大神に匹敵するほどの人物が眠っている。だからこそ伊勢神社と名付け、ヤマト王府軍による破壊を回避したのではないか。
その人物こそが女王卑弥呼だ――と。
前方部だけが磐井の築いた「生前墓」
そうなると前方部は何故あるのか?
ここで持ち出すのが先に述べた「前方部付けたし説」である。
磐井の出自を私はかつての狗奴国と考えており、狗奴国はほぼ現在の熊本県域であった。卑弥呼が247年に死に、後継者の台与の時に侵攻して八女邪馬台国を支配して以来、磐井まで250年ほどは続いたと考えている。
この磐井はもちろん岩戸山古墳(当時は円墳)が卑弥呼の墓だと知っていた。そして筑紫君(古事記では筑紫国造)として北は粕屋の三宅を掌握するほどになっていた。
ほぼ大王と言ってよいくらいの一大勢力であり、これはかつての邪馬台国に匹敵する。
そこで磐井は卑弥呼の眠る円墳に付け足すように前方部を築き、自分が死んだらそこに埋葬され、後円部の卑弥呼と霊的に結ばれるよう願ったのではないか。
「天円地方」という考え方も磐井の脳裏にあったのかもしれない。「天」は卑弥呼、「地」は自分である。
しかし現実にはそうならなかった。ヤマト王府への反逆者になってしまったから、そこに埋葬されることはなかったのである。
倭人伝によると、後円部が卑弥呼の眠る円墳だとしたら「径100余歩」に一致しないと思われよう。一般的に「一歩」は漢尺では人の歩く2歩分、つまり約150センチとされ、そうすると100余歩は150mにもなる。
だが岩戸山古墳後円部の現有の直径は60mほどで、仮に経年による縮小でかつてはもう一回り大きかったとしても70m程度である。
これでは倭人伝の100歩の半分でしかない。しかしこう考えられないだろうか。この墓を造ったのは倭人であり、倭人は「一歩」を今日の我々でも使っている1歩、すなわち片足分の1歩を「一歩」として後円部の直径を測って帯方郡からの使者に伝えたのではないか。
魏人にすれば50歩だが、倭人は倭人の測り方で100歩と報告したのだろう。それならば60mから70mと言う距離に適うのである。
まとめ
岩戸山古墳の被葬者は筑紫君磐井ではない。
後円部は元は倭人観念の100歩(60~70m)の円墳であり、そこには邪馬台国女王卑弥呼が眠っている。
筑後風土記が言うように磐井が生前に造った生前墓(寿陵)ではあるが、磐井は後円部に卑弥呼が埋葬されるのを知っていて、自分は前方部を付けたし、死後はそこに埋葬されるのを願った。
継体天皇の22年、王府軍と戦うことになり、磐井は戦死、または行方不明になっており、いくら生前墓と言えども磐井が埋葬されることはなかった。
岩戸山古墳が王府軍によって破壊されなかったのは、おそらく後円部に天照大神に匹敵するような人物が埋葬されていることを知り、手を付けずに残したのだろう。
その代わり、磐井が好んで墳墓に並べた石人石馬などの造作物は王府軍によって破壊された(完全破壊ではない)。
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