鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

タギシミミはなぜ殺されたのか(記紀点描⑥)

2021-07-05 15:27:16 | 記紀点描
タギシミミとは神武天皇(イワレヒコ)が「東征」を敢行する前、まだ南九州にいた時に生まれた皇子の名である。漢字で書くと古事記では「多芸志美美」で、日本書紀では「手研耳」だが、以下ではタギシミミと片仮名で書いて行く。

古事記ではこの長子タギシミミのほかに弟の「岐須美美(キスミミ)」がいたとしており、日本書紀にはキスミミについては省かれている。

この省かれた理由を「記紀点描⑤」の中で、キスミミは「神武東征」に加わらず、南九州に残り、その子孫が南九州で王権を維持していたのだが、律令制による国家統一の過程で南九州(古日向)を分割して薩摩国・大隅国を分立した際に、大和王府に叛逆を繰り返したので祖先のキスミミを抹消した――と考察した。

タギシミミはキスミミと違い父イワレヒコについて大和への東征を果たすのだが、橿原王朝樹立後にイワレヒコが娶ったイスケヨリヒメとの間に生まれたカムヌナカワミミ皇子、つまり腹違いの弟に殺害された、と記紀は記す。

その経緯は「綏靖天皇(カムヌナカワミミ)紀」に次のように記されている。

〈 (カムヌナカワミミが)48歳に至りて、カムヤマトイワレヒコ(神武)は崩御せり。時にカムヌナカワミミ、孝(親に従う)性にして悲しみ慕うこと已む無し。特に心を喪葬(葬儀)の事に留めり。
 そのまま兄(腹違いの兄)タギシミミ、行年すでに長けて、久しく朝機(みかどまつりごと)を歴たり。(中略)
 ついに諒闇の際に、禍心(まがごころ)を蔵(かく)して、二柱(二人)の弟を害せんと図る。〉

第一段落では、綏靖天皇になったカムヌナカワミミの孝心が篤く、48歳の時に亡くなった父イワレヒコの葬儀について心を砕いていたと、カムヌナカワミミを持ち上げている。

第二段落では、タギシミミが当時高齢であり、久しく朝の機(はたらき=まつりごと)を経ていたと書く。

第三段落では、そのタギシミミが腹違いの弟二人を害(そこな)おうとしていた、とする。

この第三段落こそがタギシミミを殺害する理由なのだが、その前の第二段落が不可解なのである。この一文を解釈すると、何と「タギシミミはイワレヒコが亡くなった当時、すでに高齢になっており、それまで長い間、朝廷のハタラキ(天皇のハタラキ)を行っていた」となるのだ。

つまり南九州から父とともにやって来たタギシミミは、実は天皇位に居た、と解釈できるのである。

綏靖天皇から第9代の開化天皇までは天皇としての事績はなく、后と皇子皇女の名、及び御陵くらいの記事しかないので、よく言われるように「欠史八代」なのだが、綏靖天皇紀にはこの看過できない一文があった。

実は私はこの一文を以て「神武天皇=タギシミミ」説を提唱している。

名に「ミミ」を持つのは魏志倭人伝上の「投馬国」の王であり、その投馬国は「半島の帯方郡から南へ船で20日の行程」にある南九州(古日向)であることが分かり、これと記紀の神武の皇子にも「ミミ」が付くことから、南九州からの「神武東征」は史実であり、しかも神武とはタギシミミその人ではないか――と。

ではその天皇位に居た神武ことタギシミミが、なぜ腹違いの弟に殺害されるという不名誉極まる死に方をしたのか。

これについては上で触れた「日本書紀にはキスミミを省いているが、それは大和王府が律令制による列島統一しようとする過程で、叛逆した南九州の豪族(具体的には肝衝難波を指す)の祖先がキスミミでは困るので抹消して書かなかった」のとダブるのだが、こっちの方は省くどころか「殺害して抹消」したのであった。

これはより強い「南九州否定」なのだが、そうであるのならば初めから南九州から大和へ行ったなどと書かずに、つまり南九州(古日向)からの東征など省いてしまえばよいではないか。

また「神武東征」が全くの造作であるならば、神武の子に、タギシミミだの、カムヌナカワミミだの、カムヤイミミなどという珍妙な名を付けず、例えば「大和入彦」「大和足彦」「若大和彦」などそれらしい名はいくらでも付けられるはずである。

それをそうしなかったということは、そう出来なかったということ、すなわち南九州からの「神武東征」は真実であったということであろう。

(※ただし私見の神武東征は「タギシミミ東征」であり、それはまた「投馬国による東遷」に他ならない。また、「タギシミミ」とは「船舵王」のことであり、キスミミは「岐(港)の王」のことである。)

梅雨末期の豪雨災害

2021-07-05 09:33:25 | 災害
7月3日に静岡県熱海市で土石流が発生し、多数の死傷者と行方不明者が出ている。

土石流は、熱海市北部の伊豆山地区を流れる逢初(あいぞめ)川という和歌に詠まれそうな風雅な名の長さ2キロほどの川を、源流の稜線部分から流れ出したようだ。

源流部の標高は400メートル足らずで、そこから海までが2キロというのだから、逢初川の平均傾斜は20パーセントになる。これは川というには急過ぎる。谷川というべき急流である。

地元の人も「普段はほんの小さな流れ」と言っている。そこへもってきて3日前から北上して来た梅雨前線に向かって太平洋側から湿った空気がどんどん送り込まれ、いわゆる「線状降水帯」というやつが生まれ、源流部分に宅地開発だか、道路の造成だかで積まれた盛り土が、水分過剰に耐え切れず一気に崩落したらしい。

完全に「人災」である。その証拠に土石流がすさまじい勢いで流れ下る視聴者の撮影したビデオがテレビ画面に映されたが、流れ下る泥流に家屋が破壊されてバラバラになった柱や屋根や看板などは見えるのだが、生木(たいていは植林された杉が多い)は一切流されていないのだ。

山津波とも言われる山中で発生した土石流なら、スギなどの生木が多数混じっていなければならないのに、この熱海の土石流にはそれがない。標高400メートル近い山のてっぺんまで宅地造成されたための「人災」ということになる。

約130棟が罹災しており、このうち住民票から判断して140名くらいの人たちがいただろうとされているが、見つかった3人の遺体と救助された30数名を除くと、まだ100名以上の人の安否が分からないという。

このあたりは東京や神奈川県民の別荘地帯でもあり、週末だけの住民も多いのだろう。そのことが安否確認に大きな障害となっている。

土石流の起きたのが3日の土曜日。前日の金曜日に東京などから週末を過ごそうとしてやって来た人が多かったはずだ。発生が午前10時半というから多くの週末住民はすでに起床はしていただろうが、朝食後、まだのんびりしていたに違いない。

気分良く目覚めた別荘で、大きな伸びでもしている時に、突然襲ってきた泥流はまさに悪夢だったろう。

傾斜地の田んぼは「段々田」(千枚田)で、保水が命なのでまず崩れ去るようなことはないが、今度の「段々宅地」に保水性はなく、あっという間に呑み込まれた。段々宅地なら家屋がひな壇式に建てられ、海の眺めも素晴らしいので、都会人には垂涎だったのだろうが、それが全く裏目に出てしまった。

7年前の夏(平成26年8月)に、広島市安佐南区で同じような住宅地帯を裏山からの「鉄砲水」が襲い、相当な死者を出している。広島は平地の少ない所で、そこは一般の住居用の宅地造成地だった。これも人災の部類に入るのか。

人によってはまっ平らな場所にできた分譲宅地を嫌い、わざわざ自然に近い風景があるこのような宅地を選んだりするのだが、地球温暖化による気象災害が激しさを増している昨今、新たに宅地を購入しようと考えている人は避ける方が賢明だろう。

今度の災害は「梅雨末期の豪雨」の範疇に入るのだろうか。

鹿児島では昔から「人がけ死まんと、梅雨(なげし)が上がらん」と言って、必ずやって来る梅雨末期の豪雨災害を表現しているのだが、もうここ10年くらい、鹿児島での梅雨末期の豪雨被害は数えるほどになった。むしろ梅雨末期の豪雨自体が北上して、今度の伊豆半島、九州北部、同中部などで災害に見舞われている。去年7月の熊本県人吉市の豪雨災害は記憶に新しい。

今年の梅雨明けは沖縄が7月2日、奄美が同3日と平年より遅かった。南九州もこの10日くらいは「梅雨の中休み」状態が続いている。もう間もなく明けるのではないかと思う。

明けてしまえば「梅雨末期の豪雨」からは解放されるが、その分、台風の襲来が早くなりはせぬかと気がもめる。

古事記と日本書紀の齟齬(記紀点描⑤)

2021-07-01 13:21:33 | 記紀点描
古事記は、天武天皇の「帝紀を選択して記録し、旧辞をよく検討して真実を後世に伝えよ」との詔により、太安万侶と稗田阿礼が取捨選択して編纂したのを当時(712年)の元明天皇に献上した日本最古の歴史書である。

一方、日本書紀は同じく天武天皇に発した歴史書の編纂命令を受けて、天武天皇の皇子の舎人親王を中心に編纂し、720年に元明天皇の娘である元正天皇に上納した編年体の歴史書で、こちらが「正当な国史」(正史)となった。

同じ時期になぜ二書の「国史」が選上されたのか、日本書紀が正史であるならば古事記などは不要として抹消してしまえば良かったのではないか、など疑問を感じるはずである。

事実、鎌倉時代に古事記の最古の写本が見つかっても、江戸時代の半ばまで古事記は偽書扱いされていた。(※『先代旧事本紀』も偽書の扱いを受けた。今日でも偽書とする研究者がいる。)

幕末近くに及んで皇国史観が芽生えると再び古事記は日の目を見たが、明治以降は西洋の歴史観が主流を占めるようになり、またしても好事家以外、古事記を顧みる者がいなくなった。そしてほぼ偽書扱いのまま戦後に及んだ。

ところが昭和54年(1879年)に奈良県奈良市の山中の茶畑で、ぽっかり空いた穴の中から灰と少しばかりの焼骨が見つかった。そして何とその穴の中には『墓誌」があったのである。記された太安万侶の名と没年月日と位階により、紛れもなく太安万侶の墓と判明した。

太安万侶は古事記を元明天皇に献上した和銅5(712)年には確実に生きていた人物であり、これにより太安万侶の編纂したという古事記は偽書ではないことが確定した。

その結果昭和50年代には、奈良朝以前の歴史を振り返る際に日本書紀に加えて古事記も研究の対象になった。

とは言っても古事記には日本書紀にはある「紀年」(〇〇天皇〇年という年号の記載)がなく、そもそもそこが歴史書としては失格であった。ただ古事記には歴史以前の神話体系が明瞭に記されており、その分野においてはすこぶる研究に裨益したのである(※日本書紀にはほぼ出雲神話がない)。

そこで勢い奈良朝以前の歴史は日本書紀をベースに研究されることになるわけだが、古事記も参照程度に読まれてはいる。

私なども主に日本書紀を歴史研究の座右に置いているのだが、古事記を参照した時に、同じ天皇の時代の記録なのにどうしてここが違うのだろうかと首をかしげる箇所が多いのである。

【古事記と日本書紀の齟齬】

これを「古事記と日本書紀の齟齬」としてここで取り上げるのだが、この「記紀点描⑤」では、神武天皇と崇神天皇の時代における齟齬に限定して考察する。

これから挙げるのは、

①古事記には神武天皇の子としてタギシミミとキスミミの二人がいたと書くが、日本書紀ではタギシミミだけであるが、これは何ゆえか。

②神武天皇の兄弟には、長兄イツセノミコト、次兄イナヒノミコト、三兄ミケヌノミコトがいたが、イツセノミコトは「東征」中に戦死するのは記紀に共通だが、イナヒノミコトとミケヌノミコトを古事記は「東征」の前に、それぞれ海原と常世国へ渡海して行ったとするが、書紀では「東征」中の紀州熊野灘から渡海している。この違いはなぜか。

③東征で河内国に到るまでに要した期間が、古事記の方は16年余りだが、日本書紀の方はたったの3年半なのは何故か。

④日本書紀の崇神天皇紀で「船は必要なものなので、初めて船を作らせた」とあるが、同じ書の神武天皇紀では東征に出発するときの描写では「天皇、みずから、諸皇子、舟師を率いて、東に征きたもう」と、すでに「舟師(船を操る者)」を率いているのである。9代後の崇神天皇が初めて船を作らせたというのはおかしいが、これはなぜか。

⑤崇神天皇の和風諡号を古事記では「御真木入日子印惠(ミマキイリヒコイニヱ)命」とし、日本書紀では「御間城入彦五十瓊殖天皇」とする。後半部分の「印惠」と「五十瓊殖」という違いは何故なのか。(※次代の垂仁天皇も同様な違いがあるので、これも取り上げる。)

以上の5点が嫌でも目に付く齟齬である。それらはたまたまだろうか、それとも故意にであろうか。私見では「故意説」なのだが、以下に考察していく。

①=古事記では神武天皇の皇子としてタギシミミ、キスミミがいるとしてあるが、日本書紀でキスミミを省いている理由は決してうっかりミスではない。たった二人の皇子の一方を書き落とすことはあり得ない。

ではどうして日本書紀はキスミミを省いたのか。そこには当時の政治状況がかかわって来る。

古事記を選上した712年から日本書紀を撰修した720年までの間に、実は南九州で大きな出来事があった。それは「大隅国」の分立である。宮崎県域と大隅半島域を併せた日向国(古日向)から大隅半島側が切り離され新たに「大隅国」が誕生した。

誕生したと言えば聞こえがよいが、南九州側としては「無理やり誕生させられた。しかも国府は大隅半島からは遥か北の内陸だ(今日の霧島市)。戸籍を作れ、米を上納せよ、仏教を取り入れよだと、冗談じゃない。我等には我らの生き方がある。」という反発が起きるのは致し方ないだろう。しかも大隅半島部には「神武東征」には参加せず、故郷を支配するために残ったキスミミの後裔である「肝衝難波(キモツキナニワ)」という大首長がいた。

肝衝難波は大隅国設立を迫って来る王府軍と戦ったが敗れてしまった。その結果置かれたのが「大隅国」であった。「吾こそ大隅の国主である」との叫びも空しく、肝衝難波は断罪されたのである。

このように大和王府に叛逆した首長の出自が、かつて南九州から「東征」に出発した神武の一族、つまり天皇のルーツである一族などということは承認できなかったので系譜から抹消したのであろう。それがキスミミを省いた理由であった。

その一方で古事記にはタギシミミと並んでキスミミを神武の子として挙げてある。古事記の方が真実なのだが、いま述べた理由で正史である日本書紀からは抹消されたのであろう。

古事記の編集者である太安万侶は神武の子「カムヤイミミ」の後裔であるから、ルーツは南九州(古日向)であり、先祖の一人であるキスミミは落とせなかったのだ。

②=神武の兄弟イナヒノミコトとミケヌノミコトはそれぞれ海原に入ったり、常世に行ったりしているが、古事記では南九州にいるうちにそうしているのだが、日本書紀では行く先は古事記と同じだが、その渡海の時期を東征後の紀州熊野灘で困苦にあえいでいる時に渡海しているが、その時期のずれは何故なのか。

私は古事記の描写の方が真実だと思う。というのは南九州の特性の航海民、つまり鴨族としての活動を考えるからである。南九州を私は魏志倭人伝の記述から「投馬国」(帯方郡から南へ水行20日の場所)と比定したが、逆に言えば南九州から九州の西岸周りで20日ほどもあれば朝鮮半島の南部まで渡れると考えてよい。(※北部九州へはその半分の10日の行程になる。)

そうした条件を考えると南九州から半島へは、定期航路とまではいかずともそれに近い交易船が運航していたと思われる。この状況を描写したのが古事記のイナヒノミコトとミケヌノミコトの「南九州からの渡海」だろう。

これに対して日本書紀は、南九州からの半島渡海という事実をカモフラージュしたいがために、わざわざ南九州から遠く離れた紀州の海岸から「困苦に耐えがたく、やむを得ず海に逃れた」というように記述したと考えられる。

③=河内国までの「東征」に要した期間が、古事記では16年余、日本書紀ではわずか3年半なのはなぜか。

この点については「二人のハツクニシラスの謎」で書いているのだが、簡単に言えば、神武天皇の南九州からの「東征」とは別に、北部九州からの「崇神東征」があり、古事記は神武東征における期間を日本書紀は崇神東征における期間をそれぞれ表したもので、どちらも真実だと考えている。

同じ「東征」だが、神武(タギシミミ)のは「安芸国に7年」「吉備国に8年」も滞在しているから「移住的な東遷」であり、崇神のは文字通りの「東征」であったと思われる。

④=日本書紀の崇神天皇紀で「初めて船を作らせた」というのはおかしい。

神武東征が「舟師(海軍)」による船団だったと日本書紀には記されているにもかかわらず、崇神天皇の時代になって「初めて船を作らせた」はないであろう。これは書紀編纂上のミスなのだろうか。

編纂上のミスとすれば何ら疑念は起こらないが、私のように神武天皇とは別に北部九州からの「崇神東征」があったと考える立場からすれば、書紀編纂の上で神武天皇の9代目の子孫としてある崇神は、ずっと内陸の大和地方を治めていたわけで、船についてははるか9代も前の神武天皇が船団を組んで来たにしても、「もうすっかり忘れていた」ことにしたかったのだろう。

つまり崇神は先祖の神武が大和入りして以来、ずっと内陸大和を支配していた天皇であったことをことさら強調し、自身が北部九州から、それこそ船団で畿内に攻め入ったことを消去するための造作であると考える。

⑤=崇神天皇の和風諡号は古事記では「御真木入日子印惠(ミマキイリヒコイニヱ)命」だが、日本書紀では「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイソニヱ)天皇」である。和風諡号の後半が古事記が「印惠(イニヱ)」とあるところを、書紀では「五十瓊殖(イソニヱ)」だが、その違いは何故なのか。

これについては書紀の「五十瓊殖」について「五十」を「イソ」と読まずに「イ」と読んで「ソ」を脱落させ、古事記の読みに合わせるテクニックが使われているが、この「五十」は「ゴジュウ」と読まなければ「イソ」と読むしかない。現に書紀では「八十」と書いて「ヤソ」と読ませているではないか。

では「五十(イソ)」とは何か。これには二つの文献でそう読むように慫慂されているのである。

それは書紀の「仲哀天皇紀」と風土記「筑前風土記逸文」である。どちらも仲哀天皇が糸島を訪れた際に、当地の豪族「五十迹手(イソトテ)」が天皇にまめまめしく仕えたので、「伊蘇志(いそし)」き人物であるから、当地を「伊蘇国」とせよと国名を賜ったという。それから後世になって「伊蘇」が「伊頳(イト)」と呼ばれるようになったが、それは転訛で間違いである――と記す。

そしてさらにこの豪族の五十迹手(イソトテ)は「自分の祖先はは半島南部の意呂山に天下りました」と半島由来の豪族であるとも述べているのである。つまりはこの「五十(イソ)」を名に有する人物のルーツは半島だったということである。

古事記がこの「五十」をあえて「印」などとして隠したのは、崇神王家のルーツが半島南部であることもだが、編集者の太安万侶が南九州由来の神武天皇の長男家の系譜に連なっていることが大きい。何しろ最初の神武王朝を打倒したのがこの「五十王国」こと崇神王家だったのである。我が祖先の一族を亡き者にした崇神王家の九州島における根拠地「五十王国」について、書きたくはなかったに違いない。

また日本書紀でも「五十」と書いたはいいが、「イソ」と読ませず「イ」としたのは、糸島を根拠地にして北部九州に一大勢力を築き、その挙句、東征をして南九州由来の初代橿原王朝を打倒して天皇位に就いたことをカモフラージュし、10代目の崇神王権も初代神武天皇から一系でつながっていることを強調したかったからに他なるまい。

(※崇神天皇の次の11代垂仁天皇も和風諡号に同じような齟齬がある。古事記では「伊久米伊理日子伊佐知(イクメイリヒコイサチ)命」であり、日本書紀は「活目入彦五十狭茅天皇」と書く。例によって古事記は「五十」をわざと書かない。糸島の「五十王国」を認めたくないのだ。

日本書紀の和風諡号に従えば、崇神は「五十」(糸島)において「瓊(ニ、玉)」(王権)を「殖」やした天皇であり、垂仁は「五十」(糸島)において「狭」い「茅」(かや)葺きの王宮で生まれた皇子だったと解釈できる。そして垂仁は皇子だった頃に邪馬台国や投馬国に「活目」(目付、都督)という役目で入っていたのかもしれない。

南九州がルーツの太安万侶は「五十」も「活目」もどちらも無視したかったために、「伊久米伊理日子伊佐知」というような「日子」以外は訳の分からない漢字を当てて表現したのだろう。)