「ノーマザー、ノーライフ!」。これを英語のスペルにすると「No mother, no life!」となる。
日本語の訳は次の3つに分けられる。
(1)母親がいなければ、命は継がれない。
(2)母親の関与が少ないと、人生は灰色だ。
(3)おっかさん、大好きだよ。
(1)のは、科学的な訳である。母親(母胎)がなければ、子供は絶対に生まれてこない。
これは誰が何と言おうと、絶対的な真理である。地球上の多種多様な生命体系の最高峰と言われる人類は、有性生殖をする哺乳動物に属しており、子は生まれ落ちた瞬間から母親(母性)によって育まれる。
生きる糧として母乳が与えられ、下の世話をうけて、清潔を保たれながら生育する。この「取り扱い」には「説明書」はないが、世代を超えて口述で引き継がれていく。
いかなる英雄、偉人といえども、この母性が無視されては存在しない。生きていけない。
お釈迦様は母の摩耶夫人の母胎に3年いて、脇の下から生ま落ちるや「天上天下唯我独尊!」と叫んだという。つまり生まれた時はもう「おしめ」も付けず、食物も母乳の必要のない一般食だったというのである。
これは生物学的には全くあり得ない話で、同じく偉大な人物であるかのイエスキリストでさえ、母のマリアから普通に生まれ、普通の乳児として育てられたのだから。(※ただし、イエスが生まれ落ちた時に天上の大きな星による奇瑞があったというが・・・)
(2)のは、私の人生経験からの訳である。
我が家は核家族の4人兄弟であった。両親ともに教師(東京都)で、共働きであった。どうやって家庭を運営していたかというと、住み込みの女中さんを雇って回していたのだった。
父親は中学校の教員であったから各地の中学校を転勤していたが、東京では転居する必要はなくすべて電車による通勤で済んでいた。
他方、母親は小学校教員であり、我が家の近隣の2校(結婚前まで入れると3校)を徒歩で通勤していた。
70年前のその頃、産休という制度があるにはあったが、「産前2週間、産後4週間」併せて6週間(約1月半)という短いものだった。1女3男の兄弟にとって、これは非情な制度だった。生まれてからたった4週間で母親の寄り添いがなくなるのである。
お乳も碌に吸わせてもらえず、言葉も掛けてもらえない乳児期であった。一番上の姉と長兄との間が5年空いていたので、二人目までは何とか凌げたのだろう。(※と言っても、姉にしろ兄にしろ、母との接触が少ないというハンディはあった。)
母親との接触の少ない幼児期を寂しく思いながらも何とか過ごし、末子の弟が無事に小学校に上がった時、長兄は6年生、私は3年生であった。
今から思えば、やんちゃな男三兄弟が、日常、母の見守りのない近隣で遊んだりしていたわけで、よくぞ輪禍に遭わなかったものだ。今更ながらゾッとするというか、いや運が良かったのだというべきか、溜息が出る。往時は東京でも自動車はバスとトラック以外は稀であったのが幸いした。
小学校に入って余計に寂しく思ったのが、母の「行ってらっしゃい。気を付けてね」も「お帰り、今日はどうだった?」もなかったことだ。これは見事に一日たりとゼロであった。
というのも、兄弟が登校する時、母はもう出勤しているし、下校した時、母はまだ帰宅していないからで、夏休みや春休みは自分たちが休みなら、母も休みだったからである。(※夏休みなど長いから母親の寄り添いはあったわけだが、それが平日の母の不在による寂しさを補うことはなかった。)
極めつけは、入学式にも卒業式にも母の姿がなかったことだ。ガッカリするはずだが、その頃にはもう慣れっこになっていた気がする。「他の同級生の親たちは付いて来るのになあ」などと恨めしく思った記憶はない。すでに諦めの境地に達していたのだろうか。
こんな状態は中学まで続いた。高校になって初めて部活動に参加するようになり、母親より早く家を出たり、帰宅も母親より後になる回数が増えた。
しかしそれで過去の「寂しい体験」が埋め合わせられたかというと、そんなことは全くない。もちろん高校からの帰宅時に母親が家にいて「お帰り」と言ってくれることが嬉しくないわけではない。だが、もう、「今さら」という気が先に立ってしまい、喜んで受け入れることができなくなっていた。
あの70年前の当時、まだ紙おむつも洗濯機も冷蔵庫もない時代、核家族で1女3男の4人兄弟を抱えていたら、普通なら専業主婦だけでは足りずにお手伝いさんを雇うのが当たり前のように思うのだが、どうしてそうしなかったのか。
あの頃よく言われていたのが、「教員の給与は男女同一賃金、退職後は恩給(共済年金)も出る」であったが、母は(父も)それを優先させていたのだろうか。子供にすれば全くナンセンスかつ迷惑な話であった。
結局、母が私たち兄弟の前に当たり前の主婦として舞い戻ったのは、一番下の弟がもうじき成人となる直前だった。すべてが遅かった。弟は精神科の常連になっていた。
母親の不在(感)は、子供にとって「自分は望まれていない子なのか」という疑心を生むのだ。
日本の古来の考え方として「中今(なかいま)」と「節折(よおり)」がある。
「中今」とは、「今に中(あた)る」ということで、「いま現在、最優先すべきことに全力を尽くせ」という意味で、我が家に照らせば、「子供の幼児時代は幼児らしく全力で育てなければならない」ということだ。
だから、子供の幼児時代、母親は「父親と同じように家を空けていてはならない」のだ。
また、「節折(よおり)」とは、「成長の節目(ふしめ)、節目には、これまでを省みて、反省すべきは反省して次につなげる」ということである。七五三や入学式・成人式がこれに当たる。
「中今」と「節折」のうち、「節折」は有難いことに「入学式」や「成人式」という社会的な行事として行われているので、親はさほどの義務感は感じないかもしれないが、「中今」は親がやらずして誰がやるのか。
残念ながら過去をさかのぼって省みた時、我が家の親の在り方には、今となってはもう遅いが、猛省を促したいと思うのである。
「何を今さら育ててくれた親に文句を言うのか」という気持ちはあるにはあるのだが、「♯ me too」ではないが、事実として語っておかなければ気が済まない。
(3)は、母への「讃歌」である。
母親に大切に育てられたと思う子が、成人の後に結婚をして家庭を持ち、改めて母親の偉大さ、懐かしさに思いを致すような場合に吐露される心情だ。
中には、嫁よりも母親の方が大事だと思っているような男がいる。
演歌の世界だが、吉幾三などはその典型である。
『かあさんへ』という歌など、まるで母親は恋人のようだ。
旅先の見知らぬ駅で降りた時、「その街中に母に似た人がいた」というようなフレーズは、石川啄木の「町で恋人に似た女性に出会い、君が偲ばれ、心が躍るようだ」という歌そのものである。
極め付けは、犬童球渓が訳出して今なお歌い継がれている『旅愁』の原曲を創作したアメリカ人オードウェイだろう。
原曲の詞は、母親を恋人どころかまるで女神のように想い出されるという内容なのだ。母親もここまで慕われたら「母親冥利に尽きる」というものだ。
(※残念ながら犬童球渓の訳出した(というより創作した)『旅愁』にはその片鱗さえ見えないが、それはそれで当時日本が置かれていた「富国強兵」の時代にマッチすべく改作するほかなかったに違いない。詳しくは当ブログの「人吉と旅愁」を見てもらいたい。)
母親が「神のごとき存在」だったという稀有だが有り得ないことのない時代を反映しているのだ。とにかく、母親を慕う男は多い。
懐かしくも「古き良き時代」だったのだ。
日本語の訳は次の3つに分けられる。
(1)母親がいなければ、命は継がれない。
(2)母親の関与が少ないと、人生は灰色だ。
(3)おっかさん、大好きだよ。
(1)のは、科学的な訳である。母親(母胎)がなければ、子供は絶対に生まれてこない。
これは誰が何と言おうと、絶対的な真理である。地球上の多種多様な生命体系の最高峰と言われる人類は、有性生殖をする哺乳動物に属しており、子は生まれ落ちた瞬間から母親(母性)によって育まれる。
生きる糧として母乳が与えられ、下の世話をうけて、清潔を保たれながら生育する。この「取り扱い」には「説明書」はないが、世代を超えて口述で引き継がれていく。
いかなる英雄、偉人といえども、この母性が無視されては存在しない。生きていけない。
お釈迦様は母の摩耶夫人の母胎に3年いて、脇の下から生ま落ちるや「天上天下唯我独尊!」と叫んだという。つまり生まれた時はもう「おしめ」も付けず、食物も母乳の必要のない一般食だったというのである。
これは生物学的には全くあり得ない話で、同じく偉大な人物であるかのイエスキリストでさえ、母のマリアから普通に生まれ、普通の乳児として育てられたのだから。(※ただし、イエスが生まれ落ちた時に天上の大きな星による奇瑞があったというが・・・)
(2)のは、私の人生経験からの訳である。
我が家は核家族の4人兄弟であった。両親ともに教師(東京都)で、共働きであった。どうやって家庭を運営していたかというと、住み込みの女中さんを雇って回していたのだった。
父親は中学校の教員であったから各地の中学校を転勤していたが、東京では転居する必要はなくすべて電車による通勤で済んでいた。
他方、母親は小学校教員であり、我が家の近隣の2校(結婚前まで入れると3校)を徒歩で通勤していた。
70年前のその頃、産休という制度があるにはあったが、「産前2週間、産後4週間」併せて6週間(約1月半)という短いものだった。1女3男の兄弟にとって、これは非情な制度だった。生まれてからたった4週間で母親の寄り添いがなくなるのである。
お乳も碌に吸わせてもらえず、言葉も掛けてもらえない乳児期であった。一番上の姉と長兄との間が5年空いていたので、二人目までは何とか凌げたのだろう。(※と言っても、姉にしろ兄にしろ、母との接触が少ないというハンディはあった。)
母親との接触の少ない幼児期を寂しく思いながらも何とか過ごし、末子の弟が無事に小学校に上がった時、長兄は6年生、私は3年生であった。
今から思えば、やんちゃな男三兄弟が、日常、母の見守りのない近隣で遊んだりしていたわけで、よくぞ輪禍に遭わなかったものだ。今更ながらゾッとするというか、いや運が良かったのだというべきか、溜息が出る。往時は東京でも自動車はバスとトラック以外は稀であったのが幸いした。
小学校に入って余計に寂しく思ったのが、母の「行ってらっしゃい。気を付けてね」も「お帰り、今日はどうだった?」もなかったことだ。これは見事に一日たりとゼロであった。
というのも、兄弟が登校する時、母はもう出勤しているし、下校した時、母はまだ帰宅していないからで、夏休みや春休みは自分たちが休みなら、母も休みだったからである。(※夏休みなど長いから母親の寄り添いはあったわけだが、それが平日の母の不在による寂しさを補うことはなかった。)
極めつけは、入学式にも卒業式にも母の姿がなかったことだ。ガッカリするはずだが、その頃にはもう慣れっこになっていた気がする。「他の同級生の親たちは付いて来るのになあ」などと恨めしく思った記憶はない。すでに諦めの境地に達していたのだろうか。
こんな状態は中学まで続いた。高校になって初めて部活動に参加するようになり、母親より早く家を出たり、帰宅も母親より後になる回数が増えた。
しかしそれで過去の「寂しい体験」が埋め合わせられたかというと、そんなことは全くない。もちろん高校からの帰宅時に母親が家にいて「お帰り」と言ってくれることが嬉しくないわけではない。だが、もう、「今さら」という気が先に立ってしまい、喜んで受け入れることができなくなっていた。
あの70年前の当時、まだ紙おむつも洗濯機も冷蔵庫もない時代、核家族で1女3男の4人兄弟を抱えていたら、普通なら専業主婦だけでは足りずにお手伝いさんを雇うのが当たり前のように思うのだが、どうしてそうしなかったのか。
あの頃よく言われていたのが、「教員の給与は男女同一賃金、退職後は恩給(共済年金)も出る」であったが、母は(父も)それを優先させていたのだろうか。子供にすれば全くナンセンスかつ迷惑な話であった。
結局、母が私たち兄弟の前に当たり前の主婦として舞い戻ったのは、一番下の弟がもうじき成人となる直前だった。すべてが遅かった。弟は精神科の常連になっていた。
母親の不在(感)は、子供にとって「自分は望まれていない子なのか」という疑心を生むのだ。
日本の古来の考え方として「中今(なかいま)」と「節折(よおり)」がある。
「中今」とは、「今に中(あた)る」ということで、「いま現在、最優先すべきことに全力を尽くせ」という意味で、我が家に照らせば、「子供の幼児時代は幼児らしく全力で育てなければならない」ということだ。
だから、子供の幼児時代、母親は「父親と同じように家を空けていてはならない」のだ。
また、「節折(よおり)」とは、「成長の節目(ふしめ)、節目には、これまでを省みて、反省すべきは反省して次につなげる」ということである。七五三や入学式・成人式がこれに当たる。
「中今」と「節折」のうち、「節折」は有難いことに「入学式」や「成人式」という社会的な行事として行われているので、親はさほどの義務感は感じないかもしれないが、「中今」は親がやらずして誰がやるのか。
残念ながら過去をさかのぼって省みた時、我が家の親の在り方には、今となってはもう遅いが、猛省を促したいと思うのである。
「何を今さら育ててくれた親に文句を言うのか」という気持ちはあるにはあるのだが、「♯ me too」ではないが、事実として語っておかなければ気が済まない。
(3)は、母への「讃歌」である。
母親に大切に育てられたと思う子が、成人の後に結婚をして家庭を持ち、改めて母親の偉大さ、懐かしさに思いを致すような場合に吐露される心情だ。
中には、嫁よりも母親の方が大事だと思っているような男がいる。
演歌の世界だが、吉幾三などはその典型である。
『かあさんへ』という歌など、まるで母親は恋人のようだ。
旅先の見知らぬ駅で降りた時、「その街中に母に似た人がいた」というようなフレーズは、石川啄木の「町で恋人に似た女性に出会い、君が偲ばれ、心が躍るようだ」という歌そのものである。
極め付けは、犬童球渓が訳出して今なお歌い継がれている『旅愁』の原曲を創作したアメリカ人オードウェイだろう。
原曲の詞は、母親を恋人どころかまるで女神のように想い出されるという内容なのだ。母親もここまで慕われたら「母親冥利に尽きる」というものだ。
(※残念ながら犬童球渓の訳出した(というより創作した)『旅愁』にはその片鱗さえ見えないが、それはそれで当時日本が置かれていた「富国強兵」の時代にマッチすべく改作するほかなかったに違いない。詳しくは当ブログの「人吉と旅愁」を見てもらいたい。)
母親が「神のごとき存在」だったという稀有だが有り得ないことのない時代を反映しているのだ。とにかく、母親を慕う男は多い。
懐かしくも「古き良き時代」だったのだ。