鴨着く島

大隅の風土と歴史を紹介していきます

ノーマザー、ノーライフ!

2021-11-25 10:20:01 | 母性
「ノーマザー、ノーライフ!」。これを英語のスペルにすると「No mother, no life!」となる。

日本語の訳は次の3つに分けられる。

 (1)母親がいなければ、命は継がれない。

 (2)母親の関与が少ないと、人生は灰色だ。

 (3)おっかさん、大好きだよ。

(1)のは、科学的な訳である。母親(母胎)がなければ、子供は絶対に生まれてこない。 
 
これは誰が何と言おうと、絶対的な真理である。地球上の多種多様な生命体系の最高峰と言われる人類は、有性生殖をする哺乳動物に属しており、子は生まれ落ちた瞬間から母親(母性)によって育まれる。

生きる糧として母乳が与えられ、下の世話をうけて、清潔を保たれながら生育する。この「取り扱い」には「説明書」はないが、世代を超えて口述で引き継がれていく。

いかなる英雄、偉人といえども、この母性が無視されては存在しない。生きていけない。

お釈迦様は母の摩耶夫人の母胎に3年いて、脇の下から生ま落ちるや「天上天下唯我独尊!」と叫んだという。つまり生まれた時はもう「おしめ」も付けず、食物も母乳の必要のない一般食だったというのである。

これは生物学的には全くあり得ない話で、同じく偉大な人物であるかのイエスキリストでさえ、母のマリアから普通に生まれ、普通の乳児として育てられたのだから。(※ただし、イエスが生まれ落ちた時に天上の大きな星による奇瑞があったというが・・・)

(2)のは、私の人生経験からの訳である。

我が家は核家族の4人兄弟であった。両親ともに教師(東京都)で、共働きであった。どうやって家庭を運営していたかというと、住み込みの女中さんを雇って回していたのだった。

父親は中学校の教員であったから各地の中学校を転勤していたが、東京では転居する必要はなくすべて電車による通勤で済んでいた。

他方、母親は小学校教員であり、我が家の近隣の2校(結婚前まで入れると3校)を徒歩で通勤していた。

70年前のその頃、産休という制度があるにはあったが、「産前2週間、産後4週間」併せて6週間(約1月半)という短いものだった。1女3男の兄弟にとって、これは非情な制度だった。生まれてからたった4週間で母親の寄り添いがなくなるのである。

お乳も碌に吸わせてもらえず、言葉も掛けてもらえない乳児期であった。一番上の姉と長兄との間が5年空いていたので、二人目までは何とか凌げたのだろう。(※と言っても、姉にしろ兄にしろ、母との接触が少ないというハンディはあった。)

母親との接触の少ない幼児期を寂しく思いながらも何とか過ごし、末子の弟が無事に小学校に上がった時、長兄は6年生、私は3年生であった。

今から思えば、やんちゃな男三兄弟が、日常、母の見守りのない近隣で遊んだりしていたわけで、よくぞ輪禍に遭わなかったものだ。今更ながらゾッとするというか、いや運が良かったのだというべきか、溜息が出る。往時は東京でも自動車はバスとトラック以外は稀であったのが幸いした。

小学校に入って余計に寂しく思ったのが、母の「行ってらっしゃい。気を付けてね」も「お帰り、今日はどうだった?」もなかったことだ。これは見事に一日たりとゼロであった。

というのも、兄弟が登校する時、母はもう出勤しているし、下校した時、母はまだ帰宅していないからで、夏休みや春休みは自分たちが休みなら、母も休みだったからである。(※夏休みなど長いから母親の寄り添いはあったわけだが、それが平日の母の不在による寂しさを補うことはなかった。)

極めつけは、入学式にも卒業式にも母の姿がなかったことだ。ガッカリするはずだが、その頃にはもう慣れっこになっていた気がする。「他の同級生の親たちは付いて来るのになあ」などと恨めしく思った記憶はない。すでに諦めの境地に達していたのだろうか。

こんな状態は中学まで続いた。高校になって初めて部活動に参加するようになり、母親より早く家を出たり、帰宅も母親より後になる回数が増えた。

しかしそれで過去の「寂しい体験」が埋め合わせられたかというと、そんなことは全くない。もちろん高校からの帰宅時に母親が家にいて「お帰り」と言ってくれることが嬉しくないわけではない。だが、もう、「今さら」という気が先に立ってしまい、喜んで受け入れることができなくなっていた。

あの70年前の当時、まだ紙おむつも洗濯機も冷蔵庫もない時代、核家族で1女3男の4人兄弟を抱えていたら、普通なら専業主婦だけでは足りずにお手伝いさんを雇うのが当たり前のように思うのだが、どうしてそうしなかったのか。

あの頃よく言われていたのが、「教員の給与は男女同一賃金、退職後は恩給(共済年金)も出る」であったが、母は(父も)それを優先させていたのだろうか。子供にすれば全くナンセンスかつ迷惑な話であった。

結局、母が私たち兄弟の前に当たり前の主婦として舞い戻ったのは、一番下の弟がもうじき成人となる直前だった。すべてが遅かった。弟は精神科の常連になっていた。

母親の不在(感)は、子供にとって「自分は望まれていない子なのか」という疑心を生むのだ。

日本の古来の考え方として「中今(なかいま)」と「節折(よおり)」がある。

「中今」とは、「今に中(あた)る」ということで、「いま現在、最優先すべきことに全力を尽くせ」という意味で、我が家に照らせば、「子供の幼児時代は幼児らしく全力で育てなければならない」ということだ。

だから、子供の幼児時代、母親は「父親と同じように家を空けていてはならない」のだ。

また、「節折(よおり)」とは、「成長の節目(ふしめ)、節目には、これまでを省みて、反省すべきは反省して次につなげる」ということである。七五三や入学式・成人式がこれに当たる。

「中今」と「節折」のうち、「節折」は有難いことに「入学式」や「成人式」という社会的な行事として行われているので、親はさほどの義務感は感じないかもしれないが、「中今」は親がやらずして誰がやるのか。

残念ながら過去をさかのぼって省みた時、我が家の親の在り方には、今となってはもう遅いが、猛省を促したいと思うのである。

「何を今さら育ててくれた親に文句を言うのか」という気持ちはあるにはあるのだが、「♯ me too」ではないが、事実として語っておかなければ気が済まない。

(3)は、母への「讃歌」である。

母親に大切に育てられたと思う子が、成人の後に結婚をして家庭を持ち、改めて母親の偉大さ、懐かしさに思いを致すような場合に吐露される心情だ。

中には、嫁よりも母親の方が大事だと思っているような男がいる。

演歌の世界だが、吉幾三などはその典型である。

『かあさんへ』という歌など、まるで母親は恋人のようだ。

旅先の見知らぬ駅で降りた時、「その街中に母に似た人がいた」というようなフレーズは、石川啄木の「町で恋人に似た女性に出会い、君が偲ばれ、心が躍るようだ」という歌そのものである。

極め付けは、犬童球渓が訳出して今なお歌い継がれている『旅愁』の原曲を創作したアメリカ人オードウェイだろう。

原曲の詞は、母親を恋人どころかまるで女神のように想い出されるという内容なのだ。母親もここまで慕われたら「母親冥利に尽きる」というものだ。
(※残念ながら犬童球渓の訳出した(というより創作した)『旅愁』にはその片鱗さえ見えないが、それはそれで当時日本が置かれていた「富国強兵」の時代にマッチすべく改作するほかなかったに違いない。詳しくは当ブログの「人吉と旅愁」を見てもらいたい。)

母親が「神のごとき存在」だったという稀有だが有り得ないことのない時代を反映しているのだ。とにかく、母親を慕う男は多い。

懐かしくも「古き良き時代」だったのだ。









色々あらァな(南天に赤と白の実?)

2021-11-23 21:33:55 | 日記
「色々あらァな」という捨て台詞で一世を風靡した「東京ぼん太」という芸人がいた。あのキャッチフレーズを今風に表現すると「人間は多様性があって当たり前なんだヨ」ということになろうか。

我が家の庭の西北に高さ1メートル半くらいの南天が植わっている。

西風の強く当たる場所なのだが、健気というか「ぼっけもん」(一本気な強情者)というか、柳に風と受け流してまっすぐに生い立っている。

「これが南天の生きる道」と、もしこの南天が真情を吐露したら、間違いなくそう言うに違いない。

それほど厳しい環境でも健気に生い立っているのを見ると、いい歳ながら励まされる。

この南天に異変が起きている。というのは同じ株なのに赤い実と白い実を同時に付けていることだ。

この南天は基本は赤い実なのだが、後から叢生して来た二本の株に白い実がなっている。

何年か前に確か植木市で求めたものだと思うのだが、ほぼ植えっぱなしで過ごして来た。

ウイキペディアによると、南天の本来の実は赤で、のちに白南天が生まれたらしい。

しかし同じ叢生仲間の株に赤と白とがあるのは解せない。

一株だと思っていたのだが、白南天の苗が紛れ込んでいたのか、それともいわゆる「アルビノ」だろうか。

アルビノとは一言でいえば「色素がない」ことで、皮膚に内包しているメラニン色素をどういうわけか持たないので、人間であれば肌の色は真っ白である。また髪の毛については同じように黒であれ、金髪であれ、これも真っ白になる。カラスや蛇でもアルビノが存在する。

だが、植物にアルビノはないはずだ。例外として「斑入りの葉」というのがあるが、あれは葉緑素がまだらに抜けたもので、葉っぱ全体が白いというのは有り得ない。光合成ができなくて枯れてしまう。


玄関に近い花壇の中の南天は西北のより一回り大きいが、こちらの実はすべて赤い。今年はいつもより多目に身を付けた。

南天には葉にも実にも毒があると聞いている。そのせいか鳥や昆虫の食害はないようだ。

南天が「難転」との語呂合わせで「難を転じる」と解釈され、縁起物として取り扱われているが、この食害が無いことがひとつの理由だろう。

また、一株一株は細身でありながら根元から分株して叢生するため、まるで家族のように寄り添い合い、雨風を凌いでいるように見えるのも縁起物たるゆえんに違いない。


史話の会11月例会(邪馬台国関連㉗)

2021-11-21 23:43:25 | 邪馬台国関連
「史話の会」の11月例会を開催した。(鹿屋市東地区学習センターで、午後1時半から4時まで)

今月は日本書紀に見えるいわゆる「欠史8代」についての話であった。

【欠史ではなかった綏靖天皇紀】

「欠史8代」というのは、大和王朝初代の神武天皇の次の綏靖天皇から第9代開化天皇まで8代の記述に「事績」(具体的な記事)がないことから、通称として名付けられた用語である。(※ほぼ正式な歴史用語として通用している。)

この8代は事績(具体的な記事)がなく、宮殿の名及び皇后と皇子皇女たちの名前だけが記されているのだが、実は第2代の綏靖天皇の即位前紀には事績があるのだが、忘れ去られている。その事績とは次のようである。

<時にカムヌナカワミミのミコト(綏靖天皇)、孝たる性、純に深く、(亡くなった神武天皇を)悲慕すること止む事なし。特に心を喪葬の事に留め給えり。その庶兄(ままあに)タギシミミノミコト、行年すでに長じ、久しく朝機(あさのまつりごと)を歴たり。故にまた、事を委ねて自らせしむ。>

神武天皇が大和王朝を開いたのちに娶ったイスケヨリヒメの子である綏靖天皇にとっては庶兄(ままあに)であったタギシミミのミコトは、結構な年回りで、すでに久しく「朝機を歴ていた」つまり「朝廷のハタラキをしていた」のであった。

要するにタギシミミは綏靖天皇が皇位につくまでの間、長らく朝廷を支配していたというのだ。つまりはタギシミミは天皇だったのである。

以上が事績のひとつ。もう一つがタギシミミの暗殺である。

このタギシミミを「禍心(まがこころ)」すなわち汚い心を持っていたとして、長兄のカムヤイミミのミコトを差し置いて弟のカムヌナカワミミノミコト(第2代の綏靖天皇)が殺害する。これも事績のうちに入る。

これらは3代安寧から9代開化までの残りの天皇紀には見られない点で、一括りに「欠史八代」とするのは誤りである。

【タギシミミ殺害記事の意味】

南九州古日向から神武天皇とタギシミミが東征し、大和に最初の王朝を開いたとした記紀の記述を、私は南九州投馬国王のタギシミミ(神武ではない)が移住的な東遷を果たした結果大和に王権を築いたと解釈するのだが、記紀編纂時代の690年頃から710年頃にかけて、大和王権が南九州を含む種子島など南西諸島を大和王権下に包摂しようとした際に、現地「隼人」(南九州人)を刺激して反抗が繰り返されていた。

特に古日向からの薩摩国および多禰国の分立、かつ令制国化への反発は大きく、大和王権はかつては最初の王朝を築いたがゆえに人皇の初代を神武天皇と諡号し、東征の経緯を詳しく記述したほどなのだが、結局は反大和王権を掲げる南九州の反逆を目の当たりにして、南九州からの「神武東征」までは否定しないが、当事者(功労者)であったタギシミミは切り捨てたのだろう。

タギシミミは南九州生まれであるから、列島全域に律令制を推し進める大和王権に対して反抗止むことの無い南九州からやって来たとはしたくない記紀の編纂者が、タギシミミを「禍心(まがこころ)」もった輩と断定し、亡き者に仕立て上げた(改変した)のだろう。皇子のカムヌナカワミミは大和生まれであるから、大和王権としては問題視しなかったのである。

以上がタギシミミ殺害についての私見だが、そもそも神武も神武東征も、もちろんタギシミミもカムヌナカワミミも、すべてが造作に過ぎないとするのが古代史学者の定説だが、それなら南九州から父の神武天皇とともに行った皇子の名がタギシミミという奇妙な名であり、また大和で新たに生まれた皇子たちに、カムヤイミミ、カムヌナカワミミと、これまた不可思議な名ばかりを付けたのはどういうわけだったというのだろうか。

タギシミミという名を最初に造作したから、それに因んで、大和生まれであるにしてもやはり「ミミ」なる名を付けた方が造作っぽくないからだ――という理屈になるのだろうか。

大和生まれであるなら「大和彦」「大和足(たらし)彦」などと大和の地名を冠した名にするのが、大和王朝の初期天皇としてはふさわしいのではないか。

それとも記紀の編纂者たちは実は南九州が投馬国であることを知っており、その国王の名には「ミミ」が使われていたから、「タギシミミ」「カムヤイミミ」「カムヌナカワミミ」という投馬国に由緒を持つ本物っぽい名を創作したとでもいうのだろうか。

これはこれで面白い見解だが、記紀の編集者は神功皇后を邪馬台国女王卑弥呼になぞらえており、邪馬台国大和説を採っているので、投馬国の比定地は南九州では有り得ず、この見解は成り立たない。

この大和生まれの皇子たちにも「ミミ」名を付けていることが、私見の「神武東征=投馬国王タギシミミ東征」説のひとつの根拠であり、また南九州からの東征(実は移住的東遷)の史実性を担保するのである。

【欠史時代の天皇名に見える不可解】

第10代崇神天皇の前の天皇の諡号を眺めていると、不可解なことに気付かされる。以下に天皇名を列挙する。

初代 神武(じんむ)
2代 綏靖(すいぜい)
3代 安寧(あんねい)
4代 懿徳(いとく)
5代 孝昭(こうしょう)
6代 孝安(こうあん)
7代 孝霊(こうれい)
8代 孝元(こうげん)
9代 開化(かいか)
10代 崇神(すじん)

不可解というのは、これらのうち、5代から8代までの天皇名(漢風諡号)を見ると「孝」の連続であることだ。

5代孝昭、6代孝安、7代孝霊、8代孝元がそれで、この「孝」の意味は「親に従う」であり、これがなぜ揃いも揃って連続して付けられているのかが不可解である。初代から4代および9代以下とは明らかに異質である。

しかもこの4世代の天皇名から共通の「孝」を取り除くと、「昭」「安」「霊」「元」となる。一見してどうも大陸王朝の皇帝名に似ている。

そこで調べてみると、確かに大陸王朝で使われる皇帝名には、この4字のほかに「武」「文」「明」などがよく使われている。

詳しく見ていくと、何と、この「昭」「安」「霊」「元」の全てを持っている王朝があった。それは漢王朝である。

「昭」帝・・・前漢の第8代  「安」帝・・・後漢の第6代  「霊」帝・・・後漢の第12代  「元」帝・・・前漢の第11代

以上のように漢王朝には「昭」「安」「霊」「元」すべての皇帝名がある。

この他とは違う異質な天皇名がなぜ5代から四世代にわたって付けられたのか、しかも漢王朝の皇帝名を借用して・・・。

【渡来王朝系譜の橿原王朝系譜への接合】

渡来王朝とは簡単に言えば「崇神王権」のことであり、橿原王朝は初代神武(実はタギシミミ)から始まる南九州由来の「投馬国王権」のことである。

結論から言うと、橿原王朝の系譜は初代から4代目までで、そこに渡来王朝たる崇神王権の父祖王たち四世代を「孝昭」「孝安」「孝霊」「孝元」として繰り入れ、接合したのだ。

「渡来王朝とは簡単に言えば崇神王権のこと」と上述したが、この崇神王権の歴史を若干書いておかなければならない。

崇神天皇は半島南部の辰韓(のちの新羅。668年からは統一新羅となる)の王統であった。

最初は楽浪の地にいたが、紀元前200年頃に秦末の混乱で南下して来た衛満に国を奪われて、馬韓(のちの百済)に避難した。そのに「月支国」を与えられ、次第に東南部を開拓して辰韓12国を成立させた。

ところが紀元前108年に漢王朝によって楽浪郡が置かれ、さらに紀元後204年には帯方郡が置かれると、半島南部の馬韓・弁韓・辰韓の「三韓諸国」は圧迫を受けはじめ、辰韓王になっていた崇神天皇の父祖は南下を余儀なくされた。

漢王朝に代わった三国のひとつである魏が、帯方郡を置いた公孫氏を排除してみずから植民地化する(237年頃)と、さらに圧迫は大きくなり、辰韓王はさらに南下、つまり朝鮮海峡を渡るべく王宮の移動を開始した。

そしてその5代目に当たるのが崇神天皇であり、この天皇時代に王宮そのものを半島から完全に九州北端の糸島(五十=イソ)後に移し終えた。これが五十王国(イソおうこく)であり、崇神の和風諡号「ミマキイリヒコ・イソニヱ」はそのことを端的に示している。

五十王国は糸島を本拠として北部九州倭人(奴国など)の支持を集め、やがて北部九州倭人連合の意味の「大倭」の盟主となった。

この「大倭」が半島に触手を伸ばして来た魏の侵入を危惧し、ついに大和への東征を果たした。南九州由来の投馬国王権(橿原王朝)樹立の100年ほど後の260年代ではなかったかと考える。この時の東征期間は日本書紀の記している3年余りで、古事記の記す東征期間16年以上とは明白に区別される。

これは二つの東征、つまり、古事記の記す東征は南九州投馬国からであり、日本書紀の記す東征は北部九州の「大倭」からであったことを示していると考えるほかない。

記紀の編纂方針は「日本の王統は列島において自生し、しかも万世一系であった」であるがゆえに、南九州からの初代王権に対して崇神が後から大和に入ってその王権を打倒したとは書けないから、両王統が一系になるように融合させたのがこの「孝昭」「孝安」「孝霊」「孝元」の4代の天皇であろう。

「昭」「安」「霊」「元」という父祖の王名は、半島の辰韓時代に漢王朝と朝貢関係にあった際に、漢王朝の皇帝名を記録しておいたのを援用したのではないかと思われる。あるいは実際にその名を崇神の父祖が名乗っていたのかもしれない。

いずれにしても、南九州由来の大和王権と、100年ほど遅れてやって来た北部九州由来の大和王権とを一系に接合したのが、「欠史8代」時代の真相であろう。もちろんどちらも「造作のおとぎ話」ではない。


霧島神宮の三殿が国宝に

2021-11-20 10:35:15 | 鹿児島古代史の謎
昨日「霧島神宮の神殿のうち拝殿・幣殿・本殿が国宝に指定された」というニュースが流され、今朝は地元の新聞の一面トップにその記事が掲載された。

建造物としては鹿児島県では初の指定である。県にはもう一件の国宝があり、それは「国宗銘の太刀」だそうだが、その由緒など詳しくは分からない。

今度国宝に指定された神宮の拝殿・幣殿・本殿は江戸時代の鹿児島藩第5代藩主・吉貴(浄国公=島津氏第22代)が、正徳5(1715)年から10年ほどかけて造営させたもので、本殿の「龍柱」など装飾の豪華さと、琉球から大陸につながる東アジアの建築様式の精華をいかんなく発揮しているという。

さらに霧島神宮は、霧島山の裾野のなだらかな傾斜そのままを無理なく取り入れて建築されており、霧島山の持つ自然景観の中で、周囲との調和が見事にとれていることが、重要文化財から国宝へ昇格した理由だろう。

寺社建築の専門家は「霧島山と一体化した、国宝にふさわしい建物だ」と太鼓判を押している。

確かに霧島神宮の後背の霧島山麓のしたたる緑の中で一幅の絵のようで、見る者を森厳とさせるに十分だ。

正徳5(1715)年からの造営の前の神宮の建物の様子は残念ながら残されたものがないが、あるいは霧島市隼人町にある鹿児島神宮の姿に近いのかもしれない。鹿児島神宮は今回の指定で重要文化財になったが、それなりに高い技術で建てられてはいるが、霧島神宮のような「龍柱」を含む極彩色の装飾はさほど施されてはいない。

再建の途中で焼失してしまった沖縄の首里城の正殿の内部を見たことがあるが、あそこも極彩色の柱や欄間の彫刻は見事だった。おそらく薩摩が琉球を支配下に置いて、向こうには薩摩側の出先機関、本土には琉球館を置いて交流が進むにつれ、文化交流があり、大陸的、沖縄的な装飾様式が取り入れられたのだろう。

島津吉貴の時代は薩摩が「琉球征伐」を決行してちょうど100年目に当たっており、植民地的な支配とともに文化的支配(交流)はかなり進み、琉球様式が取り入れるのに十分な時間はあった。

【霧島神宮建立の謎】

今度国宝に指定された正徳5(1715)年に造営されたのは神社建築としての神殿だが、そもそも霧島神宮の起源がいつで、建立の経緯はどうだったのかについては謎である。

「いつなのか」については、鹿児島藩で幕末に記録奉行などを歴任した国学者五代秀堯と橋口兼柄が天保14年(1843)に編纂した『三国名勝図会』の「曽於郡之ニ」によれば、欽明天皇時代(540~571年)には存在したらしい。

霧島山の高千穂峰は天孫二ニギノミコトが降り立ったという伝承があり、その頂に何かしら祠のようなものが造立されていたのを欽明天皇の時代に高僧が祭るようになったのだという。高僧の名は慶胤上人といい、神宮の事務をつかさどる別当寺「霧島山錫杖院華林寺」の開祖である。

この説の出処は「華林寺」の開基記録によるもので、信用するしかないだろう。

「建立の経緯」については、霧島山の特殊性を考慮すべきである。

この霧島山への信仰は古くからのもので、生き物のように火を噴く火山連峰あることと、平地に水をもたらす水源であることとの両方で、殊に崇拝されていたから、おそらく平地で米作りが普遍的に開始された弥生時代までさかのぼると思われる。

雲を起こし雨を降らせ、水をもたらすだけでなく、火の恵もあるのが火山地帯の特徴である。直接的には温泉の湧出が恵みをもたらす。

しかし活火山であるから山頂付近で噴火が起これば、頂に祭ってある神祠は下へ下へと祭る場所を変えざるを得なかった。欽明天皇時代以降の巨大噴火では「延暦の大噴火(788年)」「文暦の大噴火(1234年)」「宝永の大噴火(1705年)」などがあり、その間の小噴火などは枚挙にいとまないほどあった。

この三大噴火の最後の宝永の大噴火が1705年で、この時代には現在の神宮のある場所にまで神社は降りて来ていたが、噴火によって大きな被害を受けたために藩主島津吉貴が「正徳5年の大造営」を施行した。その結果新装なったのが、今回国宝に指定された神殿である。

完成後300年が経過しているが、幸いに、今日まで大きな噴火には遭遇していない。

『三国名勝図会』によれば江戸期以前の正式な名称は「西御在所霧島六所大権現社」である。

「西」が冠せられているのは、都城側に「東(つま)霧島権現社」があり、この神社と区別するために「西」を付けたようである。

「六所」というのは、祭神が6座(柱)あるためで、正殿に4座(二ニギ・ホホデミ・ウガヤ・神武の皇孫4代)、及び東殿に1座、西殿に1座の合計6座の神霊を祭ることから名付けられたといい、また別の解釈として二ニギ夫婦・ホホデミ夫婦・ウガヤ夫婦の6柱を祭るからという説もあるという。

後の方の解釈のほうが、一見して了解しやすいが、いずれにしても天孫降臨のニニギノミコト以下、古日向に伝わる伝承の神々が祭られていることに変わりはない。

霊峰富士と並んで霊峰にふさわしいのが霧島連峰であり、特にその連邦の東端に聳える高千穂の峰だろう。この山こそがニニギノミコト降臨の山ということになっているが、現代科学からすればそれは有り得ない。

しかし弥生人は山を神々の宿る場所と考え、また父祖が死ぬとその山に還るという考えがあったことは否めず、山は天上界と地上世界との間の通路であったということだったのだろう。

赤子が天から降りて来る(授かる)とはよく言われることだが、天から降りて来るにしても、最も秀麗な姿をした「霊峰」は、皇孫のような高貴な赤子が降りて来るにふさわしいではないか。


 霧島神宮の全景。一番高い屋根が本殿(神殿)。そこは山麓の傾斜地の一番上に建立されている。手前に移っている杉の巨木はおそらく当地に最初に神宮が建てられた当時の杉だろう。樹齢500年は下らない。
 また神宮を取り囲むように杉の巨木が立ち並んでいるが、この姿こそが日本の神殿(神社建築+信仰)の持つ特徴である。





プリンセスの『М』

2021-11-19 09:11:20 | 日記
10月以降、鹿児島全体もだが、当地鹿屋でも新型コロナ感染者がほぼ皆無となっている。

それで、1年4か月ぶりにカラオケルームに通い始めた。1週に一回のペースで通っているが、一昨日はそのカラオケルームで、珍しい曲を聴いた。

プリンセス・プリンセスという女性バンドグループの『М』という曲である。

BGМと歌詞をテロップで映し出す大きなモニター画面に『М』と表示された時は、「?」と思ったが、歌い手が歌いだすと、歌詞は、今風のわかりにくい歌詞ではない。曲調も突飛ではなく、至極ありふれたポピュラーソングのようだ。

歌の内容は、これも一般の演歌では定番の失恋ソングだが、後半で「消せないアドレスМのページを指でたどって」という部分に来た時、はっと思った。

「あれ、待てよ。Мって眞子さんのこと?」と連想したのである。

しかしこの歌は女性グループで、ボーカリストももちろん女性だ。そうであればМは男性でなければならない。

家に帰ってからパソコンで検索すると、確かにМは失恋相手の男性のことだ。

それをなぜ自分は「眞子さん」と結びつけてしまったのか? 答えはこのグループ名「プリンセス」にあった。(※正式なグループ名は英語のスペルでプリンセスを2回書く。)

要するに「プリンセスМ」と聴き取り、「ああ、プリンセス眞子さま、だな」と早とちりしたわけである。

ちなみに歌詞をここに書いておこう。ただし、上で触れた「消せないアドレスМのページを指でたどって」を含む後半部だけである。

<出会った秋の写真には はにかんだ笑顔ただ嬉しくて
 こんな日が来ると思わなかった
 ああ、瞬きもしないで あなたを胸に焼き付けてた 恋しくて
 あなたの声聞きたくて 
 消せないアドレスМのページを 指でたどってるだけ
 so once again
 ああ、夢見て目が覚めた 黒いジャケット後姿が 
 誰かと見えなくなっていく
 so once again
 星が森へ帰るように 自然に消えて 小さな仕草も
 いつまでも あなたしか見えない 私も>

この曲のプロフィールによると、グループのメンバーでもある作詞者の富田京子という人の実体験のようである。

もちろん富田さんはこのМとは結ばれなかった。

МをKに代えてみたらどうか?

眞子さんはKとは結ばれてしまったが、アメリカに行った以上、向こうの50パーセントを超える離婚率からいって、眞子さんとKもそうならないとは限らない。いやそうなって欲しい。離婚は決して恥ずかしいことではない!

眞子さんの前から、Kが最後から二行目のフレーズのように「星が森に帰るように 自然に消えて」くれたらなァ。

いや、したたかなKのこと、眞子さんの次はアメリカの大富豪の令嬢か女優か。

Kは戻らずともよし、眞子さんはお帰りなさい。