今日は朝からしとしとと雨が…、このところ二,三日おきには雨が降ったりして、天気予報がよく当たりますね~。
昨日の句会場は山口宇部空港の近くでしたので、仲間たちと〝薔薇〟を見て帰ることにしました。結構風が強くて、車から降りた途端に薔薇のよい香がふあ~と漂ってきました。いい香り!
わあ!今が一番見頃のようです。もう夕方でしたが、私たちのように薔薇を観に来ている人たちがあちらこちらに…。評判になってから来たことはありますが、今年久し振りです。よく手入れされていて、どこもかしこも薔薇、ばら、バラ…見事というほかはありません。〝福山なんかに薔薇園があるけど、観に行かんでもここで十分やね~〟〝いや、ここの方がいいかもよ~〟などという声も…。
ところで、この薔薇で一句詠もうとすると、これは難しい!一筋縄ではとてもとても…。
俳句では薔薇を「ばら」ともよみ「そうび」ともよむ。つまり二音にも三音にも使えるわけである。花の色は白だけがとり入れられる。「白ばら」または「白そうび」というように。ーー「紅ばら」は語感がわるくてほとんど使えない。「紅そうび」も同じことである。花壇の薔薇、垣に這わせた薔薇、瓶に挿した薔薇、みな詠める。ことに垣の薔薇は近代的でいい。
花壇の薔薇(鉢植の薔薇を含む)は雨の降っている日も趣があるが、やはり晴れた日がいい。芝がすっかり青く、如露の水が光って、いかにもこの花にふさわしい気分だ。どこからか虻がたくさんやってきて、花にすがりついている。不思議なことに薔薇には蝶よりも虻の方がたくさんやってくる。もちろん夏蝶が鮮やかな翅をひらめかして来るのもわるくない。しかし虻が飛び立ったり、休んだり、花粉にまみれて芝を這っていたりする方が、見ていて飽きない。したがって俳句の種にもなろうというものだ。
蝶をきらうのは、夏蝶があまりにきれいなためで、それを詠むとかんじんの薔薇の美しさは閑却されてしまうからである。虻ならばそんな心配はなく、立派に花の美しさを引き立ててくれる。このことは俳句作者が常に心得ていなければならぬことで、同じ美しさのものを二つ句の中にとり入れると、それは互いの美しさを削り合うことになって、結局損をするのである。一つの美しさを中心とし、これを引き立てるものを使う方がずっと効果が大きい。虻はこの場合、引立役である。
これは、水原秋櫻子『俳句作法』(昭和60年・朝日新聞社刊)の「薔薇」の項の文章です。ここまで考えて…イヤ、計算して、俳句は詠まないといけないのかしら…と思ってしまうのですが、俳句作者たるものはやはりこうでなくては?なんですかね~。でも、この計算が読む人にすぐ分かってしまうようでは、これもまたいけないのですよ。単純に見たままをそのまま…なんていうのは素人の時。やっぱり〝玄人〟は〝くろう〟して詠まなくっちゃ…ということでしょうか。
写真は、空港と薔薇です。写真を撮っていたら東京行の飛行機が飛び立ちました。宙に浮いた瞬間…撮れませんでした。残念!薔薇が多すぎて…その写真はまた明日にでも。