久し振りにブログを2日間も休んでしまいました。何やかやと忙しさに追われ…書こうかなと思った時にはもう12時を回っていて、眠くって仕方がなかったりで、まあいいかと…。訪問して下さった方には、ゴメンナサイ!
ところで、どうしたことか、あれほど降っていた雨がやんで、昨日今日と続けての、快晴とまではいきませんが、しっかりお日様マークでしたよ。早速溜まった洗濯物をこの2日で全部解消しました。ヤッター、すっきり!
昨日は美容院にも行って、髪をキレイにして貰ったし、午後からのリハビリにも行って運動もしてきたし…もう、リフレッシュ完璧。というわけで、今日は主人を誘って、9月の吟行会の下見に山口市へ出掛けました。紹介は吟行会の時にしたいので、ここでは止めておきます。後日をお楽しみに! まあ、ちょっと言うなら、山口市は観光地ですので、それぞれ瑠璃光寺やサビエル記念聖堂、雪舟庭、一ノ坂川周辺、中原中也記念館など見所はたくさんあります。しかし、殆どどこも何度か行ったことがありますので、始めての人ならいいのでしょうが、私にはちょっと飽きたかな…。そこで今まで行ったことのない穴場を探しに行ったんです。
もちろん有名な所ではありませんので、ナビにも出てこないし、立て看板もなし…。主人と、〝これは3流クラスの名所(?)旧跡なので、なかなか見つからんわね~〟と言いながら、でも何とか見つけました。下見に来てよかったです。ホント!当日探しながら行ったんでは時間ばかり掛かって、吟行が中途半端になるか、句会ができなくなるかで、お手上げでしたよ。よかった!
さて、さて、先日の兼題〝朝顔〟の句に、〈朝顔の観察日記見つけたり〉というのがありました。昔我が家の子供たちも小学校の時、夏休みの宿題が朝顔の観察日記でしたから、今でもそうなのでしょうか?この句、よく分かりますが、〈見つけたり〉とあるので、〝作者のお子さんのを?〟と聞くと、〝いや、僕のです〟と。〝じゃあ、あなたのをお母さんがどこかに仕舞っていたのを見つけたのね。それは遺品か何かから出て来たの?〟〝いや、母はぴんぴんしていますよ〟と。(大笑)〝エエッ、それはゴメンナサイ!〟〝じゃあお母さんが保管していたのは何?〟〝ああ、段ボール箱です〟と。ウウ~ン、それは困りました。じゃあ〝行李〟とでも…いや、古くさいわね。なら〈母の函より朝顔の観察記〉とでもしますか?エヘッ…
よくあるんですよ。生きているのにまるで亡くなったかのように詠んである句が…。俳句は〝あり得るウソ〟はいいと言われていますが、私はこれだけはウソをついてはいけませんと言うんです。そう、生きている人を俳句の上であっても〝殺す〟のは!イケンよ!
ところがまた、次のような句、〈朝顔や老犬の亡き庭広し〉がありました。確か先月添削した句に〈老犬の歩みに合はす青田風〉というのがありましたので、作者に〝あの老犬とうとう死んだの?カワイソウね〟と言うと、〝いや、まだ死んでいないのですが、そう詠んだ方がいいかなと思って…〟と。もう、ビックリ!これもいけませんよ。なんぼ犬だからといっても殺すのは…。本当は近所の犬で姿が見えなかったので死んだのかと思ってですって。だったら〈老犬の今朝は見えざり牽牛花〉ぐらいで、どう?そうすると〝いつもの姿が今朝は見えず、もしかしたら死んだのかも…〟という意味になり、作者の心配する気持が伝わるのではと。ちなみに、〝牽牛花〟(けんぎゅうか)とは、朝顔の別称です。
かつて秋櫻子が唱えた〝文芸上の真〟ということばが確かにありますので、〝あり得るウソ〟も創り出す場合があるとは思います。しかし、小説や戯曲などのようなストーリー性のある創作ならまだしも、俳句は小説とは違うような気がします。上手くは言えませんが、やはり俳句というものは、〝今〟を〝生〟を〝真〟を詠むものだと、私は思っています。だからわざわざ生きているものを殺してまで、詠まなくても…ある意味それは人の気を引くためなのではとつい私は思ってしまうのです。みなさん、どう思われます?
難しいことは抜きにして、自分の眼でしっかりとこの世の〝真実〟を見詰めて、自然とともに〝生きる〟、人を含めてあらゆるものの姿を十七文字のことばで表現できたらいいと、私は考えます。ウ~ウン、イヤイヤそんなこと考えてたら俳句なんかとても詠めませんよね。どうぞ全部忘れて下さい。いいんですよ、詠みさえすれば。アッハッハ…(笑)
写真は、〝藪蘭の花〟。〝蘭〟は秋の季語になっていますから、これもいいかしら?