今日は午後からK俳句教室の日でしたが、天気予報通りの暴風雨となり、帰る頃にはチラチラと白いものまで…そう、初雪でした。でももう寒くって、寒くって…初雪の気分なんて全くありませんでしたね。
昨日も午後から雨が久し振りにザーザーと降ってイヤな天気でした。ところが、一昨日のナンと暖かで風もなくよい日和だったこと!なんて書くと…そうなんです、定例の吟行会でした。いつもの第1水曜日が、都合の悪い人がいて第3水曜日に変更になったんです。
さて、今回の目的地は宇部市小野地区。ここは宇部市街から北東に27㎞離れた中山間地域。基幹産業である農業の中でも特徴的なのはお茶で、小野茶園は、「西日本一の規模を誇る大茶園」とも言われています。
また、平成17年にダム湖100選に選ばれた宇部市の水源「小野湖」は、豊かな自然に囲まれ、知る人ぞ知る日本でも有数のオシドリの飛来地となっているんですよ。また、湖と隣接する環境教育と交流の拠点施設「アクトビレッジおの」を活用して、毎年夏期には交流ボート大会が開催され、市内外から多数の参加があるという、そんな大自然の恵みを四季折々にたっぷり味わうことができる所なんです。
もちろん吟行の一番の目的は〝鴛鴦(おしどり)〟の観察なんですが、こればかりは絶対観られるという保証はありませんので、その前にもう1箇所、当番さんが吟行するところを用意してくれていました。
それは、「毛利秀就(ひでなり)公誕生の地」といわれている所で、そこには出産に用いられたという、今でも綺麗な湧き水がたゆまなく注いでいる「産湯の池」、毛利輝元の側室・二の丸様とその子を毛利家の後継者問題のお家騒動から守るために作られたといわれる「穴蔵(隠れ穴)」などがあります。
この二の丸様の隠棲と出産の役を命じられたのが、ここ長門の国小野村の代官であった財満就久(ざいまなりひさ)で、ここにその館があったということなんです。そして、その子孫の方々がその史跡をずっと守ってこられて、今に伝えているのだと。
以前にも見学に来たことがありますが、今回はそれが単なる伝承ではなく実証されたというお話やその資料までも見せていただきました。
その資料というのが、下松市在住の県地方史学会理事、田村悌夫さん(84)と宇部市の毛利秀就公誕生地史跡保存会の平山智昭会長(91)の共著「長州藩初代藩主毛利秀就公 誕生の真実追究 総括版」です。
平山さんは元小学校長で、毛利輝元の子で広島城で生まれたとされる秀就が、実は宇部市小野で生まれたことを小野に残る史跡などを長く研究して突き止め、この真実を世に広めようと秀就公と徳山藩の初代藩主、就隆の母でもある「二の丸」様や二の丸を守った財満家ゆかりの現地の史跡を整備して石碑も建立したのだそうです。田村さんは平山さんの小野誕生説を知り、その活動に協力したのだと。
今回の「毛利秀就公」はA5判244ぺージ。これまでの平山さんらの研究の成果と活動を一冊にまとめたもの。田村さんは前書きで、「小野村誕生説を定着させ、日本の歴史を正したい」と本書の出版の目的を述べ、今年2月に平山さんと一緒に防府市の毛利博物館の柴原直樹館長を訪問し、広島誕生説、小野村誕生説とも「保留」と言われたと紹介しています。
ところで、二の丸様というのは、毛利家家臣児玉元良の娘・周姫(かねひめ)のことで、初めは杉元宣の妻、後に毛利輝元の側室。広島城二の丸に住んだために「二の丸殿」と呼ばれた人で、初代長州藩主毛利秀就、初代徳山藩主毛利就隆、吉川広正正室の竹姫の生母。法号は清泰院(せいたいいん)。
「古老物語」によると、幼少の周姫が自宅門前で遊んでいたところ、美少女故に通りがかった輝元の目に留まり、その後、輝元はしばしば元良の広島時代の自宅を訪問するようになる。輝元のこの行動を快く思わない元良は、天正12年(1584)に13歳の周姫を杉元宣に嫁がせた。しかし、輝元は諦めることなく佐世元嘉らに命令し、強奪して側室とした。これに立腹した元宣は、天正17年(1589)の大坂の豊臣秀吉への直訴を計画するが、事の重大さに気付いた小早川隆景により野上庄沖にある大島の船隠で殺害された。
不本意ながらも輝元の側室となった周姫は、広島城二の丸に住み「二の丸殿」として輝元の寵愛を受けるが、輝元正室である南の方には嫡男がおらず、その嫉妬を恐れていたことから、(通説では秀就を広島城で生ん.だとされる)、懐妊後に密かに長門国の小野村(現・山口県宇部市)の財満就久の屋敷に匿われ、密かに出産したという説もある。(Wikipediaより)
下の写真が財満家館の跡地に建って、史跡を伝えている家。ここの庭に「産湯の池」、裏山には「隠れ穴」があります。
また、また、長くなりましたので、今日はここまでにしますね。ではオヤスミナサイ!
私は、歴史に弱いので人物はわかりませんが
毛利元就は、大河ドラマで放送されたような。
一族なんでしょうか。それにしても穴蔵が現存するなんて@@
奥の方に、トンネルのようになっているのですか?
ここで、どんな句が出来たのでしょうね・・・
毛利元就は、中国地方一帯を収めた戦国時代の大名として、ドラマにもなりましたし、有名ですよね。
特に「三本の矢」の教訓が…
その3人の息子の、長男の毛利隆元の子が毛利輝元、その嫡男がこの毛利秀就ですから、いわば元就のひ孫になります。それで名前に〝就〟という字を貰ったのでしょう。
この穴蔵は人工的に掘って作られたもののようで、奥は人が二人入れる程度です。
乳母と秀就公が入ったら入口を塞いで分らないようにするものだったそうで、実際に使われたかどうかは不明と。
一応一人五句作りましたし、事後投句も五句ですから、しめて十句作ったことになりますが、…
それはよければ、今後の俳誌に投句しますのでここに発表出来ないんですよ。ゴメンなさいね!
当地も真冬日で寒いですねえ。
積雪になりました。
今年は灯油が高いので、暖冬であれと願っていましたが、おもうようにはいきません。
「隠れ穴」というのは、真田幸村の上田城にありました。
意味合いは違うかもしれませんが、そこから逃走用の地下通路があるとか、出口はかなり離れたところにとか・・・
つわものどもの夢の跡、戦国好きの自分に浪漫は尽きませぬ。
<夕凍てのもののふのゐし隠れ穴>
宿題、「て」は楽しようとおもうと、つい出てきてしまう助詞です。
冬夕焼をわざわざ眩しいと詠まなくてもいいということでしょうか。
<献血を終ふるかひなへ冬夕焼>
今日はオークションに出てた「雲母」3冊をゲット。
届くのが楽しみです。
<落札の品届くまで年の暮>
おやすみなさいませ。
お返事が遅くなりゴメンなさい。
暖房は灯油のストーブですか?
薪ストーブとかは?何となく信州には似合いそうですが…
我家はここではオール電化なので、灯油を買うことがなくなりました。
でも、車に乗りますのでガソリンの値段には敏感です。最近こちらではレギュラーで150円前後です。一時よりは安くなりましたが…そちらではいかがですか?
<夕凍てのもののふのゐし隠れ穴>…
〈夕凍て〉はちょっと苦しいかな…それに〈ゐし〉と報告しなくてもいいのでは…。当然今居るはずはないのですから。何を伝えたいのかを考えて推敲してみて下さい。
<献血を終ふるかひなへ冬夕焼>…
眩しいというのには作者の誇らしげな気持…それで冬夕焼も眩しい?
そんな心が見えてきて邪魔なんですよ。ここは上五中七までと季語を切ることです。〈かひな〉も不要。また考えてみて!
<落札の品届くまで年の暮>…
これは品では分りませんので、古書としましょう。〈まで〉が今一つですので、〈…古書を待ちをり…〉とするととてもいいと思いますよ。季語も効いてきますものね。