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歯周病患者の皆さんへ

2017-11-24 17:17:23 | 多発性骨髄腫と共に
 歯周病患者の皆さん、歯周病に専門医が居ることを御存じですか。私は最近まで知りませんでした。歯医者には40年ほど前から通ってきましたが、どこでも同じと考えていたのです。

 1年ほど前にトウモロコシを齧っていて下側前歯がぐらつきました。多発性骨髄腫患者は骨が解ける傾向があり、私も骨を強くする薬(BP剤)を処方されていました。ところがこの薬の副作用として顎の骨が解けること(顎骨壊死)が有るのです。主治医は「下側前歯がぐらついた」と聞いて即この薬の処方を中止しました。

 しかし私は自分が歯周病患者であることを承知していました。顎骨壊死よりも歯周病のせいだろうと察していたのです。そこで長年通っているA歯科に行き、「下側前歯がぐらついた」と告げました。しかし「貴方のブラッシングは完璧なのでこのまま継続して歯茎を引き締めてください」との見立てでした。

 それではこれまでと何ら変わらず、歯の劣化は止まりません。そう考えた私はネット上であれこれ検索するうちに「歯周病専門医」なる言葉を見つけたのです。「こんなものがあったのか」という思いでした。更に調べると地方の我県内に数カ所有り、何とそのうちの1カ所が更に田舎の我市内に有ったのです。

 背骨の圧迫骨折で遠出の出来ない私にはとてもラッキーでした。早速そのB歯科を訪ねたのがこの春のことでした。そこでは歯茎のレントゲンを撮り、歯槽ポケットを測定し、赤色染色で磨き残し検査をし、ブラッシング指導を受けました。使う歯ブラシまで変更されました。その後数回の磨き残し検査とブラッシング指導を繰り返し、今ではすっかり免許皆伝の腕前になりました。

 同じ市内にありながらなぜもっと早くからここを知り、ここに通わなかったのかとつくづく思うこの頃です。歯周病患者の皆さん、専門医にかかっていますか?もしまだなら是非最寄りの専門医を探して訪ねてみることをお勧めします。 

闘病10年を振り返って

2016-06-11 16:19:59 | 多発性骨髄腫と共に
 2006年春の多発性骨髄腫診断から10年が過ぎました。
 途中の10年夏から12年夏までの2年間はアミロイドーシスも併発しました。ただし結果的には誤診だったのです。歯痕舌をアミロイドーシスの症状と疑い、胃粘膜の採取生検、心電図や心エコーなどを重ねた結果、アミロイドーシスと診断されたのです。アミロイドーシスは特定疾患に指定されている難病であり、思わず目の前が真っ暗になったのを憶えています。
 治療としてメルファラン、プレドリン、サリドマイド併用のMPT療法、続いてレナリドミド、デキサメタゾン併用のRd療法を実施しました。
 11年秋から新規に保険適用されたフリーライトチェーン(FLC)検査を実施した結果が正常値だったので、アミロイドーシスの診断そのものを疑い始めました。骨髄腫患者の会を通じてその顧問医師を紹介して頂き、私の主治医との間でメールを介した変則セカンドオピニオンを実施した結果、2年前のアミロイドーシス診断は誤診だったことが判明しました。2年間のトンネルから抜け出て日差しを浴びた心地でした。
 08年投稿の「早期発見とQOL」にも記しましたが、当地の様な過疎地の医療体制にはつくづく悲哀を感じています。骨髄腫による多発性圧迫骨折で東京までの移動が困難なばかりに先進医療を受けられず、経皮的椎体形成術(PVP)やバルーン椎体形成術(BKP)を受けてQOL改善を図れなかったのが残念でなりません。また東京の専門医ならアミロイドーシスの誤診そのものも無かった事でしょう。
 しかし、06年夏に受けたたった一回の末梢血幹細胞移植(PBSCT)が奏功してこの10年間、骨髄腫細胞は大人しくしてくれました。有り難いことです。これからもこの地で主治医を信頼し、自らも準主治医になったつもりで主体的にこの病と付き合って行くつもりでいます。
 

早期発見とQOL

2008-04-29 18:51:16 | 多発性骨髄腫と共に

 2005年11月、くしゃみをした瞬間腰に鋭い痛みを感じました。 市内のA病院の整形外科にかかり、第一腰椎の圧迫骨折と判明、3週間ほど入院して年末に退院しました。 翌年1月、戸棚の一番下の引き出しから、書類を取り出した後、背中に違和感を感じました。 以後背筋が伸びず、呼吸も苦しく、食欲が低下し、吐き気を感じる日々が続きました。 2月、新たに第七胸椎の圧迫骨折も判明し、再び入院しました。 血中カルシウム過多で透析を実施し、腎不全と診断されました。 約1カ月かけて内科で精密検査を受けましたが原因がわからず、3月に隣市のB病院に転院して多発性骨髄腫BJPκタイプ病期Ⅲaと診断されました。

 その後B病院に約6か月間入院し、VAD療法3クールと自己造血幹細胞移植を一回実施して退院しました。 移植後の造血力の回復があまりに遅かったために二回目の移植は見合わせとなりました。 また治療の最中の6月には、血液過粘凋のため眼底出血、血管新生が起こり、レーザー治療の結果、左眼は視界に歪みが残り、視力0.03で固定しました。 これが右眼にも及んだら、本も読めなくなるのでゾッとします。

 2006年9月にB病院を退院し、以後その血液内科への通院を続けています。 胴体コルセットをつけ、T字杖を突いての生活です。 骨がかなり脆いので外出はほぼ通院のみ、車の運転もドクターストップがかかり、自分の車を廃車しました。 車が必須の田舎暮らしにとってはかなり不便です。 介護保険は現在要介護3の認定を受けています。 介護保険で電動ベッドと電動座椅子のレンタルを受け、浴室椅子を購入、玄関・浴室・トイレに手すりを新設しました。 また通院は(妻も病弱のため)介護ヘルパーに車椅子を押してもらい、介護タクシーで往復しています。 

 2008年2月に“日本骨髄腫患者の会”に入り、実名でのEメールによる情報交換を始めました。 それによれば私のように病期Ⅲで発見され、骨折などでQOL(生活の質)が低い患者も散見されますが、病期Ⅰで自覚症状なしで発見され、QOLの高い患者がかなり多いことが分かりました。 彼らは健康診断や人間ドックの血液検査で疑いをかけられ、精密検査をして発見されたのです。

 しかし人間ドックなら私も毎年大枚をはたいてB病院で受けていました。 その中で血小板数、ヘマクリット(血液中の赤血球割合)及び白血球数の3データは共に2000年頃から徐々に低下し、とうとう’04年、’05年と連続して下限値を下回りました。 しかしドックの医師はアラームを出してはくれませんでした。 思うにドックの医師は毎年変わります。 そして常に前年との比較しかしないので4、5年前から一貫して下がってきた傾向をつかむことができなかったのでしょう。 ’05年6月、気になった私はこの3データを方眼紙にプロットし、掛かり付けのA病院の内科医に見てもらいました。 しかしここでもアラームは出ませんでした。 そしてその年の11月、冒頭に書いたくしゃみで全てが始まったのです。

 上記3データが低下し始めた2000年頃から私は多発性骨髄腫にかかっていたのだと思います。 そろって下限値を下回った’04年に、あるいはせめて’05年の5月のドックで、さらには6月にデータを見てもらった主治医からアラームを受けていたら、私は多発性圧迫骨折を避けられたと思います。 脆い骨に気をつけながらも自分で車を運転して多発性骨髄腫患者としてB病院に通院していることでしょう。 マスクをつけ、人混みを避けながらも銀行や図書館、レストランなどにも行けたことと思います。 つまり現状よりもはるかに高いQOLを享受できたと推測するのです。

 早期発見はQOLだけに影響するのではありません。 余命も左右します。 この病の場合、病期ⅠとⅢでは短くて数年、長くて十数年の差が出ると思われます。 59歳にして一人っ子がまだ中学生という私(結婚が遅れ、さらに出産も遅れたのは自分の責任ですが)にとっては、1年でも、いやひと月でも長く生きていたいのです。

 ところで私がドックの医師やかつての主治医を恨んでいると取られたらそれは本意ではありません。 決して過去には戻れないのですから。 私は今後“患者の会”から病理や治療の知識はもちろん、メンタル的な癒しまでいただきながら、最良の治療を求めて現在の主治医と共に、この病ととことん付き合っていく覚悟です。 ただし、ドックや健診に携わる医師の皆様には、心身ともに厳しい職務状況を重々承知の上で、さらにお願いするのは恐縮ですが、血液の異常値を決して見逃すことなく、アラームを発していただいて、二度と私のような思いをする患者を出さないようにしていただきたく、この拙文を掲げる次第です。