2005年11月、くしゃみをした瞬間腰に鋭い痛みを感じました。 市内のA病院の整形外科にかかり、第一腰椎の圧迫骨折と判明、3週間ほど入院して年末に退院しました。 翌年1月、戸棚の一番下の引き出しから、書類を取り出した後、背中に違和感を感じました。 以後背筋が伸びず、呼吸も苦しく、食欲が低下し、吐き気を感じる日々が続きました。 2月、新たに第七胸椎の圧迫骨折も判明し、再び入院しました。 血中カルシウム過多で透析を実施し、腎不全と診断されました。 約1カ月かけて内科で精密検査を受けましたが原因がわからず、3月に隣市のB病院に転院して多発性骨髄腫BJPκタイプ病期Ⅲaと診断されました。
その後B病院に約6か月間入院し、VAD療法3クールと自己造血幹細胞移植を一回実施して退院しました。 移植後の造血力の回復があまりに遅かったために二回目の移植は見合わせとなりました。 また治療の最中の6月には、血液過粘凋のため眼底出血、血管新生が起こり、レーザー治療の結果、左眼は視界に歪みが残り、視力0.03で固定しました。 これが右眼にも及んだら、本も読めなくなるのでゾッとします。
2006年9月にB病院を退院し、以後その血液内科への通院を続けています。 胴体コルセットをつけ、T字杖を突いての生活です。 骨がかなり脆いので外出はほぼ通院のみ、車の運転もドクターストップがかかり、自分の車を廃車しました。 車が必須の田舎暮らしにとってはかなり不便です。 介護保険は現在要介護3の認定を受けています。 介護保険で電動ベッドと電動座椅子のレンタルを受け、浴室椅子を購入、玄関・浴室・トイレに手すりを新設しました。 また通院は(妻も病弱のため)介護ヘルパーに車椅子を押してもらい、介護タクシーで往復しています。
2008年2月に“日本骨髄腫患者の会”に入り、実名でのEメールによる情報交換を始めました。 それによれば私のように病期Ⅲで発見され、骨折などでQOL(生活の質)が低い患者も散見されますが、病期Ⅰで自覚症状なしで発見され、QOLの高い患者がかなり多いことが分かりました。 彼らは健康診断や人間ドックの血液検査で疑いをかけられ、精密検査をして発見されたのです。
しかし人間ドックなら私も毎年大枚をはたいてB病院で受けていました。 その中で血小板数、ヘマクリット(血液中の赤血球割合)及び白血球数の3データは共に2000年頃から徐々に低下し、とうとう’04年、’05年と連続して下限値を下回りました。 しかしドックの医師はアラームを出してはくれませんでした。 思うにドックの医師は毎年変わります。 そして常に前年との比較しかしないので4、5年前から一貫して下がってきた傾向をつかむことができなかったのでしょう。 ’05年6月、気になった私はこの3データを方眼紙にプロットし、掛かり付けのA病院の内科医に見てもらいました。 しかしここでもアラームは出ませんでした。 そしてその年の11月、冒頭に書いたくしゃみで全てが始まったのです。
上記3データが低下し始めた2000年頃から私は多発性骨髄腫にかかっていたのだと思います。 そろって下限値を下回った’04年に、あるいはせめて’05年の5月のドックで、さらには6月にデータを見てもらった主治医からアラームを受けていたら、私は多発性圧迫骨折を避けられたと思います。 脆い骨に気をつけながらも自分で車を運転して多発性骨髄腫患者としてB病院に通院していることでしょう。 マスクをつけ、人混みを避けながらも銀行や図書館、レストランなどにも行けたことと思います。 つまり現状よりもはるかに高いQOLを享受できたと推測するのです。
早期発見はQOLだけに影響するのではありません。 余命も左右します。 この病の場合、病期ⅠとⅢでは短くて数年、長くて十数年の差が出ると思われます。 59歳にして一人っ子がまだ中学生という私(結婚が遅れ、さらに出産も遅れたのは自分の責任ですが)にとっては、1年でも、いやひと月でも長く生きていたいのです。
ところで私がドックの医師やかつての主治医を恨んでいると取られたらそれは本意ではありません。 決して過去には戻れないのですから。 私は今後“患者の会”から病理や治療の知識はもちろん、メンタル的な癒しまでいただきながら、最良の治療を求めて現在の主治医と共に、この病ととことん付き合っていく覚悟です。 ただし、ドックや健診に携わる医師の皆様には、心身ともに厳しい職務状況を重々承知の上で、さらにお願いするのは恐縮ですが、血液の異常値を決して見逃すことなく、アラームを発していただいて、二度と私のような思いをする患者を出さないようにしていただきたく、この拙文を掲げる次第です。