より良き明日の為に

人類の英知と勇気を結集して世界連邦実現へ一日も早く

父母追憶(2)

2020-08-30 19:41:29 | セピア色の日々

 毎年旧盆のこの季節になると亡き両親の思い出に浸ります。その多くは二人の運命を大きく翻弄した先の大戦に纏わるエピソードです。

軍艦愛宕と褌 父は戦争中の話を殆ど私にしませんでした。例外は自慢話の類ばかりです。東北地方の農家の三男だった父は1930年に19歳で志願兵として海軍に入りました。横須賀では内燃機関などを学んだそうです。後に軍艦愛宕の機関兵となり、最後は舞鶴で新兵教育の教官を務めて終戦を迎えました。

 軍艦愛宕は艦隊の旗艦を務め、日本の近海では皇族が乗船することもあったようです。父が夜勤をしたその朝も皇族が乗っていました。特別船室の窓が開いて白い物が投げ出されました。それはひらひらと舞いながら暗い海面に落ち、やがて沈んでいきました。機関兵の仲間内ではそれは褌だろうとの噂でした。皇族は下着を洗濯に出すのではなく、毎朝暗いうちに海に捨てるのでした。

 この話を聞いたのは私が中学生の頃です。父にとっては旗艦愛宕に皇族を迎えたことは名誉なことだったのでしょう。父は幼い頃から教育勅語を暗唱して育った帝国軍人でした。私が30歳の頃世界連邦運動に参加し、片山哲元首相の筆による現憲法前文の額を家の玄関に飾った時、父は反対しました。日本社会党の片山氏も、或いは現憲法にも反対だったのかも知れません。私が結婚して家を出た後もその額はそのままでしたが、父は床の間に教育勅語の額を掲げ、昭和天皇の写真も飾っていました。それは帽子を掲げてにこやかに微笑む姿でした。

 私は父の心の深層を知ってつくづく教育の怖さを感じたのです。戦前の道徳教育「修身」は天皇を神格化して国の主とし、国民には滅私奉公を強いたのでした。2012年に自民党が公表した憲法改定草案は現憲法の3本柱である主権在民、基本的人権の尊重、平和主義を悉く弱め、父が教育を受けた時代の大日本帝国憲法に引き戻そうとするものです。更に安倍政権は道徳教育を強化しました。「郷土愛」などの押し付けです。道徳という心の範疇に政治が踏み込んではなりません。安倍政権は終戦までの教育がもたらした結果を反省をしていないのです。また地理・歴史教科書の中で戦争・領土に関して安倍政権の見解を記述することとしました。しかし歴史の真実は一つです。相手国との見解の相違は互いに事実を擦り合わせて解消しなければなりません。どうしても解消出来なければ両論を公平に併記するしかありません。さもなくばこの教科書で学んだ日本の若者は将来この問題で間違った判断を下し、我が国のみならず世界に災いしかねないのです。

 

 

 


父母追憶

2020-08-30 19:25:12 | セピア色の日々

 毎年旧盆のこの季節になると亡き両親の思い出に浸ります。その多くは二人の運命を大きく翻弄した先の大戦に纏わるエピソードです。

鱶とながーい褌 これは私の幼い頃の母の寝物語です。南の青い海に棲む鱶は獰猛で人を襲って食べてしまうのです。しかし鱶は自分より大きいものは襲いません。そこでここに行く兵士たちは鱶に襲われないように自分の背丈の何倍もあるながーい褌を締めて船に乗るのです。私は聞きながら夢うつつの中で兵士になって青い海の中を泳いでいます。背丈の何倍もある白い褌は長々と伸びてひらめいています。鱶たちは遠巻きにして私を眺めるだけで襲ってはきません。

 母の最初の夫は太平洋戦争の最中、南方の海で戦死しました。その公報を受け取ってから母は後悔したのかも知れません。戦地に赴く夫に千人針は持たせましたがながーい褌は持たせなかったのです。南方の海を泳ぐ獰猛な鱶の話は東北地方の片田舎では兵士の妻たちの間でまことしやかに語られていたようです。被弾した船から海に飛び込んだ兵士の多くがこの鱶の餌食になるのだと・・・。もしも飛び込む際に軍服を脱ぎ捨て、ながーい褌の仕付糸を抜けば、褌はながーく後ろに伸びて背丈の何倍にもなり、鱶が襲うのを躊躇ううちに、僚船に引き上げられるのだと・・・。

 母のもとに届いた夫の骨壺には小石だけが入っていたそうです。骨はまだ南方の島の土に埋もれているか、海の底に沈んだままかも知れません。母は終戦後数年して父と再婚し、私が生まれました。70年代前半にグアム島から横井さん、フィリピン・ルバング島から小野田さんが帰還すると私は心配になったのです。もしも母の前夫が帰還したら我が家はどうなるのかと・・・。この心配は母が亡くなる97年まで続きました。我が家の心の中の戦争はその日まで続いていたのでした。

父の思い出軍艦愛宕と褌はこの続編予定とします。

 

 


手ぬぐい浴衣

2016-12-31 16:01:32 | セピア色の日々
 1955年私が小学校に上がる頃のことです。母は家族の布団や褞袍、ちゃんちゃんこ、寝巻などを手作りしていました。ただし材料は新品では無く、大抵は古着をほどいて洗い張りした布や打ち直した綿を使っていました。綿入れの際には私も手伝わされたものです。
 夏も近づく頃、母は私の為に浴衣を拵えました。布地は珍しく古着では無く新品でした。ただし新品は新品でも全て手ぬぐいです。それも「北西酒造」と大きく紺色に染め抜かれていました。これを何枚もつなぎ合わせて浴衣にしたのです。
 北西酒造は我が家に醤油を収めていました。醤油が残り少なくなったころ、藍色の前掛けをしてメガネを掛けたおじさんが醤油ダルを担いでやって来ます。新しい木樽の平面外周近くに直径3センチほどの丸穴をあけ、古い樽の栓をコンコンと叩いて外してはそれを新しい方の穴に取り付けます。その作業はガラガラ声での世間話の合間に終わるのでした。「まいどあり!」と言って古い樽を担いで帰る時、例の手ぬぐいを置いて行くので、我が家にはかなり新品が溜まっていたのです。
 仕上がったのはまるで「北西酒造」の宣伝用のような浴衣でした。それでも私は新品の浴衣を気に入り、それを着て夏祭りに出掛けたのです。盆踊り会場で同じ年恰好の女子とすれ違いました。先方は色鮮やかな花柄の浴衣を着ていました。
 「それ寝巻?」その子は私に尋ねたのです。彼女から見れば寝巻にしか見えなかったのでしょう。私はそれに答えず、黙って踊りの輪に入りました。踊りながらも少し離れていた母にそれが聞こえたかどうかが気がかりでした。
 弾んでいた心が急に落ち込んでしまったあの夜の光景は今でも脳裏に浮かびます。しかし1997年に亡くなった母には勿論ずっと内緒で通し、母もそれに触れることはありませんでした。
 

麦畑と茹で卵

2015-05-25 19:10:47 | セピア色の日々
 1957年春、私は小学3年生でした。学年の日帰り遠足が好天に恵まれて終わり、仲良しの小林君と家に向かって歩き始めたのです。
 しかし途中から気になっていた物があって、立ち止まりリュックサックの底からその新聞包みを取り出しました。包みの中に白い紙袋があり、中を覗くと卵が二つ見えました。しかしそれはどちらも殻が網目模様にひび割れていたのです。一日中歩き通したリュックの中で握り飯や水筒やらにさんざん押された結果でした。
 1個目の卵を掴むと私はそれを思い切り放り投げました。何故なら今にも完全に割れてリュックを汚しそうに見えたからです。親戚から借りた大切なリュックでした。卵は青々とした麦畑の中に消えていきました。
 更に2個目の卵を掴んだところで小林君に止められました。「それは茹で卵だぞ!」初めて聞く名前です。「ユデタマゴ?」私はその時まで卵と言えば生卵しか知らなかったのです。小林君はそれを手に取ると丁寧に殻を剥き、袋の底にあった塩をまぶして私の手に戻しました。口に含めば白身も黄身も生卵とはまるで違う初めての味と食感でした。
 我が家は当時6人家族で、次兄と3番目の私とは7歳の差がありました。朝の食卓に生卵が2個出て、醤油を加えて増量し、良くかき混ぜ、等分して卵かけご飯にします。勿論生卵の等分など上手くいく筈もなく、黄身が多いもの白身が多いもの様々で自分の好きな方をとりたくて毎朝大騒ぎでした。一人で1個の卵を独占することなど考えられない暮らしぶりだったのです。
 今にして思えば母は兄たちには茹で卵を食べさせたことがあったのでしょう。しかし7歳年下の私にはそれを食べた記憶が有りませんでした。そして母はうかつにもそれに気づかず、大奮発して2個もの卵をリュックに忍ばせたのです。それは一家6人の一日分の量でした。またそのことを私に告げなかったのは、まずは私を驚かし、次に喜ばせようとしたのだと思います。確かに私は驚きましたが、それは母の意図したものとは少し違います。また喜びもしましたが、ひとつ捨ててしまった悲しみの方がまさりました。
 あれから58年の歳月が経ちます。母も18年前に他界しました。「麦畑と茹で卵」の一件は母には勿論、誰にも内緒で通しました。小林君もとうに忘れていることでしょう。今も時々昼の食卓に茹で卵が出てきます。勿論一人1個丸ごと。殻を剥きわずかに塩をまぶして口に運ぶその度に、遠いあの日のことを思い出すのです。