より良き明日の為に

人類の英知と勇気を結集して世界連邦実現へ一日も早く

地震、宗教そして食事

2008-05-06 18:55:54 | ジェットの丸窓から

 私の職場だった技術研修センターには世界のいろいろな地域からの研修生がVTRやビデオカメラの技術研修のためにやってきました。 そこでは研修の傍ら、土地柄や宗教、食べ物などの相異で思いがけない事態に遭遇します。 まずは地震から・・・。

 先輩講師に聞いた話ですから1970年代後半のお話です。 アジア・アフリカ・オセアニア地域からの一団が研修に来ていましたが、ある日の午後たまたま地震がありました。 震度4クラスで地震慣れしている講師でも「少し大きいかな。」と感じて研修生に机の下に隠れるように指示したそうです。  しかし一人だけ制止の声を振り切って教室から廊下を通り屋外に飛び出した人がいました。 揺れが収まった後に講師が迎えに行くと、彼は顔面蒼白でがたがた震え、眼には涙さえ滲んでいたそうです。 その人はシドニーの人で、地震は初めての体験だったようです。 生まれて初めて建物が揺れ、大地までもが揺れる恐怖に遭遇してパニックを起こしてしまったのでした。 他の研修生も飛び出すことだけは思いとどまったものの、一様に青ざめた顔をしていました。 悪いことにその日はもう一度余震があり、彼らの顔は再びひきつったそうです。

 宗教にかかわるエピソードもいくつかありますが、まずは先輩講師から聞いたイスラム教です。 やはり1970年代後半の頃、イスラム国の中でも特に戒律の厳しいサウジアラビアから研修生を迎えたときのことです。 彼らの求めに応じてカリキュラムの中に3回の礼拝の時間を設け、隣室を礼拝室に仕立てたそうです。 天井の中央に画用紙で矢印を張り付け、その向きをメッカの方角つまり西に向けました。 彼らは時間が来るたびに隣室に行き、天井の矢印の方角に敷物を敷いて、その上で敬虔な祈りを捧げていたそうです。 ところでそのサウジには私も現地出張教育をしたことがあります。 1998年のことです。 来日教育では他の国の研修生と一緒なので安息日を気にせずにカリキュラムを組みますが、現地に乗り込んでいくときは金曜日を避けて研修カリキュラムを組まざるを得ません。 その代り土・日曜日に普段通りの研修をすることになります。

 次にキリスト教です。 フィリピン、中米などのカトリックの国からの研修生が来ると休日にはたいてい隣の街まで案内することになります。 なぜなら彼らは教会に行くことを希望し、それはカトリック教会であり、近場にはなく、隣の街までいかないと無いのです。 もちろんプロテスタントの研修生のほうが数多く来て、その教会はわが街にもいくつかあるのですが、なぜかそこに案内したことは一度もありません。

 最後に研修生の食事ですが、これは担当講師の最も苦労する仕事の一つです。 研修の内容もさることながら、食事で不満を与えてはならないからです。 担当講師は研修生全員の食事の嗜好を事前に調査します。 特に肉類で食べられないもの、あるいはベジタリアンか否か、アルコールOKか否かが重要です。 この調査結果にもとづいて研修中の昼食やレセプションでのメニューを決めます。 ところで彼らは当然のことながら麺類やてんぷらなど日本ならではの食事を喜びます。 うどんやそばを食べる前に、「ずるずる音を立てても良い、熱さも軽減する」と説明し、実演もして見せるのですが、そう簡単にはできません。 彼らは普段の習慣のままに、まるでパスタでも食べるかのように熱いのをこらえながら静かに口の中に運びます。 また欧米人で何回も来日している人程刺身、寿司を好みます。 しかし板長が図に乗ってそのうちの一人スミスさんに白魚の踊り食いを勧めたことがありましたが、これは後悔しました。 スミスさんはためらいながらも笑顔で口に含みましたが、やがて顔色が変わりました。 飲み込むか吐き出すか明らかに迷っているのです。 なんとか飲み込んでいただき、事なきを得ましたが、やはり踊り食いは行き過ぎでした。


ドライな国のお客さん

2008-05-03 21:05:09 | ジェットの丸窓から

 これも先輩講師から聞いた話で1978年頃の梅雨時のことです。 教育センターに中近東諸国からVTRの技術研修に来ていた技術者が数人いました。 その頃のVTRには録画の後、音声だけを別のものに入れ替える“アフレコ”という機能がありました。 研修生はアフレコの実習のために耳にイヤホンを差し込んで新しい音声を確認していました。 無事に終わって全員イヤホンを外した後のことです。 サウジのAさんが何やら叫び声を発しました。 顔色も変り冷汗も流れて非常に狼狽しています。 やっとのことでわけを聞いてみると、耳に違和感を感じているのでした。 イヤホンを差し込んだ方の耳が聞こえず、「耳が壊れた」と叫んでいます。

 とりあえずAさんを連れて診療所に行き、他の人は研修を続けました。 診療所の医師はAさんの耳をペンライトで覗くとニヤリと笑って言いました。 ものすごい量の耳垢がペースト状になって耳穴を完全に塞いでいるというのです。 Aさんの住むリヤドは砂漠の中の街で非常に乾燥しています。 Aさんは生まれてこのかた耳の掃除などしたことがないそうです。 耳垢は多量についていたのですが、音の通る道は長い間細々と保たれていたのでしょう。 梅雨のさなかの日本に来て、耳垢は適当に湿り気を帯びました。 そこに持ってきてイヤホンを耳に差し込んだのですから、ペースト状になった耳垢が変形して完全に耳穴を塞いでしまったのでした。 

 美人の看護師に耳を掃除してもらったAさんはこう言いました。 「イヤホンも耳の掃除も生まれて初めて。 耳の掃除は最初は怖いけどあとは気持ちいいね。」


白夜の国のお客さん

2008-05-03 18:28:49 | ジェットの丸窓から

 先輩講師から聞いた話ですから1980年頃の夏のお話です。 教育センターにVTRの技術を学びにきたスカンジナビア3国からの数人の技術者がいました。 5時に初日の研修を終えた彼らはそこから5キロ程離れた海岸に向かったのです。 朝のオリエンテーションで講師が近場の観光地として地図を渡し、交通手段も教えていたのでした。 ただし講師は休日に訪れる場所として教えたつもりであり、まさか5時過ぎから出かけるとは思ってもいませんでした。 彼らは郊外電車に乗って海岸の駅に着きました。 そこから渚までは歩いてすぐです。 寄せ来る波の背が夕日に赤く染まり、はるか沖合の白い船も夕日に映えてゆっくりと動いて行くさまを眺めては、しばしエキゾチックな気分に浸っていたのだそうです。

 しかしそれも束の間だんだんにあたりが暗くなり、あれよあれよという間もなく夜になってしまいました。 これは彼らにとって全くの予想外でした。 だってまだ7時になったばかり、彼らの国ならまだ夕方に差し掛かった程度で、10時くらいまでは明るいはずでした。 周りでは店じまいも始まり、あわてた彼らは駅にとって返しましたが、すでに終電は出た後で、終バスも同様でした。 しばし途方に暮れた彼らでしたが、やがて駅員さんらの助けを借りて公衆電話から担当講師の自宅へ電話を掛けることになんとか成功しました。 もしもの時の電話番号は彼らに教えられていたのです。 自宅で夕食の最中に電話を受けた講師が自家用車で駆けつけ、彼らを無事宿舎に送り届けたのは9時近かったそうです。 


序文・ジェットの丸窓から

2008-05-02 20:33:51 | ジェットの丸窓から

 職業柄多くの国を尋ねました。 VTRなどの映像商品の設計者として、さらにはそれらの技術教育講師として。 中にはNGOの役員として出かけた旅もあります。 そして妻との新婚旅行もありました。

 ただしそのいずれもが短くて1週間、長くても3週間の旅であり、あたかもジェットの丸窓から垣間見た様な、ごく浅い見聞録です。 それでも思わぬ出来事、景色そして食べ物、習慣の違いなどで驚いたり、考えさせられたりの連続でした。

 技術教育講師としての私の職場には外国からの研修生も数多く来ました。 先輩講師から伝え聞いたかなり古い話もふくめ、風土や習慣の違いからくる数々のエピソードも書いてみたいと思います。 


その命私にくださーい!

2008-05-02 18:46:15 | より良き我国のために

 1,2ヵ月前だったでしょうか。 TVから「そんなに安い命なら、私にくださーい!」という声が耳に飛び込んできました。 声の主は私と同年輩のおじさんで、末期の癌患者でした。 いじめなどを苦に、とりわけ若い世代の自殺が相次ぐことを憂い、多くの学校を訪ねては生徒に向かって呼びかけていたのでした。

 そのおじさんの訴えの細かい部分は覚えていませんが、今生きている命の尊さを語り、つらさを乗り越えた後の人生の豊さを語りました。 そして自分ががんに侵され、余命いくばくもないことを語った上で、「私はもっと生きたい。 自ら捨ててしまうような、そんな安い命なら私にくださーい」と叫んでいたのです。

 このところにわかに硫化水素による自殺が多発しています。 先月の死者が50人とのことで由々しきことです。 やはり若者が多いですね。 ネット上で広まっているようです。 硫化水素が漏れて、助けに入った人や周りの人にも被害が及んでいます。 死に急ぐ彼らには他人を巻き添えにする愚も見えなくなるのでしょうか。

 ネット上で自殺を助長する有害コンテンツの除去が検討されているようです。 それはそれで必要ですが、それだけでは不十分です。 自殺する彼らには“何のために生きるのか”あるいは“自分の人生の目的”が見いだせていないのでしょう。 目的をもって一生懸命生きる大人の姿がもっともっと見えていれば、彼らも生きる目的を捉えやすいでしょう。 そうして生きた大人たちがもっともっと報われる姿も見えていれば、自殺する若者は減っていくと思います。

 戦後の窮乏期に育ってハングリー精神の塊だったこの私でさえ、自殺を考えたことがあります。 私の場合は“より良い明日、より良い日本、より良い世界”のために少しでも役に立ちたいという希望があって乗り越えることができました。 そしてその希望は両親を含む周りの人々や、多くの書物や映画を通して見た人たちの一生懸命生きる姿から教わったものでした。 彼らに生きる希望と勇気を与えるのは政治とそして彼らを取り巻く大人たちの大事な役割です。

 冒頭のおじさんと同様、私も多発性骨髄腫の患者です。 現在の医学では治りません。 私だってもっともっと生きたい。 まだ中学生の娘のためにも、一年でも一月でも一日でも長生きをしたい。 生きて自分の夢を実現させたい。 あいにく背骨の骨折であのおじさんのように学校に出向くことは難しい私ですが、その代りこのブログ上で叫びます。 「自ら捨ててしまうような、そんなに安い命なら、私にくださーい!」と。