1957年春、私は小学3年生でした。学年の日帰り遠足が好天に恵まれて終わり、仲良しの小林君と家に向かって歩き始めたのです。
しかし途中から気になっていた物があって、立ち止まりリュックサックの底からその新聞包みを取り出しました。包みの中に白い紙袋があり、中を覗くと卵が二つ見えました。しかしそれはどちらも殻が網目模様にひび割れていたのです。一日中歩き通したリュックの中で握り飯や水筒やらにさんざん押された結果でした。
1個目の卵を掴むと私はそれを思い切り放り投げました。何故なら今にも完全に割れてリュックを汚しそうに見えたからです。親戚から借りた大切なリュックでした。卵は青々とした麦畑の中に消えていきました。
更に2個目の卵を掴んだところで小林君に止められました。「それは茹で卵だぞ!」初めて聞く名前です。「ユデタマゴ?」私はその時まで卵と言えば生卵しか知らなかったのです。小林君はそれを手に取ると丁寧に殻を剥き、袋の底にあった塩をまぶして私の手に戻しました。口に含めば白身も黄身も生卵とはまるで違う初めての味と食感でした。
我が家は当時6人家族で、次兄と3番目の私とは7歳の差がありました。朝の食卓に生卵が2個出て、醤油を加えて増量し、良くかき混ぜ、等分して卵かけご飯にします。勿論生卵の等分など上手くいく筈もなく、黄身が多いもの白身が多いもの様々で自分の好きな方をとりたくて毎朝大騒ぎでした。一人で1個の卵を独占することなど考えられない暮らしぶりだったのです。
今にして思えば母は兄たちには茹で卵を食べさせたことがあったのでしょう。しかし7歳年下の私にはそれを食べた記憶が有りませんでした。そして母はうかつにもそれに気づかず、大奮発して2個もの卵をリュックに忍ばせたのです。それは一家6人の一日分の量でした。またそのことを私に告げなかったのは、まずは私を驚かし、次に喜ばせようとしたのだと思います。確かに私は驚きましたが、それは母の意図したものとは少し違います。また喜びもしましたが、ひとつ捨ててしまった悲しみの方がまさりました。
あれから58年の歳月が経ちます。母も18年前に他界しました。「麦畑と茹で卵」の一件は母には勿論、誰にも内緒で通しました。小林君もとうに忘れていることでしょう。今も時々昼の食卓に茹で卵が出てきます。勿論一人1個丸ごと。殻を剥きわずかに塩をまぶして口に運ぶその度に、遠いあの日のことを思い出すのです。
しかし途中から気になっていた物があって、立ち止まりリュックサックの底からその新聞包みを取り出しました。包みの中に白い紙袋があり、中を覗くと卵が二つ見えました。しかしそれはどちらも殻が網目模様にひび割れていたのです。一日中歩き通したリュックの中で握り飯や水筒やらにさんざん押された結果でした。
1個目の卵を掴むと私はそれを思い切り放り投げました。何故なら今にも完全に割れてリュックを汚しそうに見えたからです。親戚から借りた大切なリュックでした。卵は青々とした麦畑の中に消えていきました。
更に2個目の卵を掴んだところで小林君に止められました。「それは茹で卵だぞ!」初めて聞く名前です。「ユデタマゴ?」私はその時まで卵と言えば生卵しか知らなかったのです。小林君はそれを手に取ると丁寧に殻を剥き、袋の底にあった塩をまぶして私の手に戻しました。口に含めば白身も黄身も生卵とはまるで違う初めての味と食感でした。
我が家は当時6人家族で、次兄と3番目の私とは7歳の差がありました。朝の食卓に生卵が2個出て、醤油を加えて増量し、良くかき混ぜ、等分して卵かけご飯にします。勿論生卵の等分など上手くいく筈もなく、黄身が多いもの白身が多いもの様々で自分の好きな方をとりたくて毎朝大騒ぎでした。一人で1個の卵を独占することなど考えられない暮らしぶりだったのです。
今にして思えば母は兄たちには茹で卵を食べさせたことがあったのでしょう。しかし7歳年下の私にはそれを食べた記憶が有りませんでした。そして母はうかつにもそれに気づかず、大奮発して2個もの卵をリュックに忍ばせたのです。それは一家6人の一日分の量でした。またそのことを私に告げなかったのは、まずは私を驚かし、次に喜ばせようとしたのだと思います。確かに私は驚きましたが、それは母の意図したものとは少し違います。また喜びもしましたが、ひとつ捨ててしまった悲しみの方がまさりました。
あれから58年の歳月が経ちます。母も18年前に他界しました。「麦畑と茹で卵」の一件は母には勿論、誰にも内緒で通しました。小林君もとうに忘れていることでしょう。今も時々昼の食卓に茹で卵が出てきます。勿論一人1個丸ごと。殻を剥きわずかに塩をまぶして口に運ぶその度に、遠いあの日のことを思い出すのです。