1.社会科教師の伝言
1963年中学生の頃のことでした。 世界史の授業がアヘン戦争に至ると、英国の清国に対するひどい仕打ちに大いに悲憤慷慨した私でした。 職員室に戻った先生を追いかけて行って「国際正義は無いのですか」と質問するほど怒っていました。 教科書のその先にはわが日本が朝鮮や中国をはじめとするアジア諸国に対していかなることをしたのか書いてあるのをまだ知りませんでした。 また、授業もなぜかそこに至らずに終わってしまうのでした。
これに対する先生からの直接の回答はなかったのですが、学年末試験にそれらしきものを見つけました。 何と教科書にも授業にもまったく出なかった問題が出たのです。 幾つかありましたがたとえば“ドミノ理論について述べよ”。 これら当時の時事問題には一言も書けなかった私ですが、先生がなぜこんな出題をしたのかは後々まで気になっていました。 やがてそれが“国際正義については教科書でなく、新聞や書物を読んで自ら学べ”という、先生から私への伝言だったのではないかと、かなり後になって思うようになったのです。
2.五味川純平さんの伝言
“国際正義”や“戦争と平和”という命題はそれ以降常に私の意識の底にありましたが、実際に先の大戦について学び始めたのは1969年二十歳を過ぎたころでした。 満州事変前後から敗戦に至るまでの歴史教科書として五味川純平さんの本を選ぶことにしたのは彼の“人間の条件”を何気なく読んでからです。 続いて“戦争と人間”を読みました。 これも“人間の条件”と同様フィクションに属する作品ですが、各分冊の巻末にあるおびただしい量の“註の部”は史実そのものであり、これが限りなくドキュメンタリーに近いことを示していました。 どちらもドラマ化・映画化されており、特に“人間の条件”の梶一等兵を演じた加藤剛さんはまさにはまり役だと思いました。
その後“虚構の大義”、“御前会議”、“ノモンハン”、“ガダルカナル”と読んでいきました。 いずれも当時の我が国の指導層や軍上層部が、いかに誤って戦に踏み込み、いかに誤って加害を拡大し、そしていかに誤って被害を拡大したかを克明に記したドキュメンタリーです。 これらは玉砕の地から生き延びて帰国した作者が、その余生をかけて書き上げた遺言ともいうべきものです。 ひとつにはまるで虫けらのように殺されていった無数の民衆や兵たちの思いを代弁するために。 もうひとつには後世再び同じ過ちを繰り返させないための私たちへの伝言として。
戦時体制という巨大なローリングストーンは一般民衆はもとより、作者のような反戦知識人をも無理やり巻き込んで歴史の坂道を転げ落ちます。 少しでも回転し始めるとなかなか止められないのです。 つい先頃日教組の教研全体集会の会場がキャンセルされたり、政党のビラを配って有罪判決を受けたり、映画“靖国”の上映中止などが相次ぎました。 これらは少しづつ民主主義が後退していく過程に相違ありません。 これを座視してはならない、みんなで力を合わせて押し戻してください。 晩年は食道発声になった作者からのそんな伝言が聞こえてくるのです。
五味川純平さんの本: 人間の条件、戦争と人間・以上三一書房、虚構の大義、御前会議、ノモンハン、ガダルカナル・以上文芸春秋
3.住井すゑさんの伝言
1973年25歳の頃だったでしょうか。 友人に誘われて映画“橋のない川”を見たのが最初の出会いでした。 被差別というものをよく知らなかった私はその映画から深い衝撃を受けました。 私の育った関東平野の街にも“何故か差別される家族”はありました。 その家には私の妹の同級生がいて小学校低学年のうちは互いの家を仲良く行き来していましたが、「あの子と遊んではいけない」という雰囲気ができて、いつしか疎遠になりました。
“エタ”とか“ヨツ”とか大人たちは密かに呼んでいましたが、ポツンとした一家族であり、“”ではありませんでした。 察するにその家族は“普通の人”になりたくてを遠く離れたのでしょう。 しかし世間はやがてその家族が出身であることを知ってしまいます。 その執拗さこそが罪深いものです。 人は往々にして自分より“下”の階層を作っては優越感に浸りたがるもの。 そうしてできた差別が幾世代にも積み重なって被差別の悲劇を生みます。 妹と疎遠にされたその子の当時の心境を思うと辛くてならないのです。
この映画を見た後、私は小説“橋のない川”を読み始めました。 そして住井さんのほかの作品もその多くを読み、その映画を観、また講演会にも参加しました。 私は住井さんから“差別と戦争を憎み人権を大切にする心”を伝言として受け取りました。 彼女は1997年に亡くなりましたが、生前の講演会のあとで直にいただいたお声の優しさ、暖かさがいまだにこの耳の奥に漂っています。
住井すゑさんの本: 橋のない川、夜明け朝明け、野づらは星あかり・以上新潮社、農婦譚・筑波書林、牛久沼のほとり・暮らしの手帖社
4.西口克己さんの伝言
1978年30歳の頃、上記と同じ友人に紹介されて小説“直訴”を読みました。 これほど感動に打ち震えながら読んだ本は久しぶりでした。 さらに“廓”、“山宣”、“祇園祭”、“びわ湖”、“高野長英”と読み進みました。 いずれも半ば泣きながら読んだ記憶があります。 それらの作品の主人公の多くは作中で死んでしまいますが、その死はいずれも悔いのない死、己の信ずるままに生き抜いての死でした。 さらに周りの人々や後世の人々のための死であり、惜しまれ語り伝えられる死でした。 天から授かったこの命、同じ命であるなら悔いなく生きたい。 人生の寄り道をできるだけ早く切り上げ、自分のライフワークと信じる道に進むべきだ。 そんな伝言を彼の作品群から受けた私でした。
ある日の朝日新聞に“世界連邦建設同盟”の数行の記事が載りました。 これこそわが“ライフワーク”と直感した私はその連絡先を尋ねる手紙を、あろうことか京都の西口さん宛に出したのです。 そしてその返事は届きました。 差出人には“西口克己・内”とありましたのでご家族の手で書かれたものでしょう。 西口さんご自身は1986年に亡くなりましたが、そこに書いてあった建設同盟の事務所に連絡を取ったのが30歳代の、そして現在に続く私の世界連邦活動の始まりでした。
西口克己さんの本: 直訴、廓、山宣、祇園祭、びわ湖、高野長英・いずれも東邦出版社
5.世界連邦建設同盟の諸先輩の伝言
西口克己さんに世界連邦建設同盟の所在地を教わってそこに入会したのは1980年32歳のころでした。 世界各国の主権の一部を制限し、軍事をはじめ世界が一つになってかからないと解決できない分野のみを管轄する世界連邦政府を樹立し,戦争と貧困のない世界をできるだけ早く実現する。 この世界連邦の主旨は私の目指すものとぴたりと一致しており、私はこの運動に参加できたことを喜びました。 しかし当時の同盟は奇しくも私の年齢と同じ創設32年目で、その活動はかなり停滞気味でした。 世界連邦建設国会決議の見通しは立たず、会員数でも財政的にもじり貧の状態でした。
ある年の総会で当時の時子山常三郎会長(元早稲田大学総長)は挨拶のあと降壇され、私のそばに歩み寄ると「これからは君たちの時代だ、後をよろしく頼む」と声をかけてくださいました。 ご高齢の会長は傍目にも立っているのがやっとという風情でこの直後に退任されました。 このほか別の総会や研修会で何人かの先輩会員からも声をかけられました。 年齢は70歳代くらいつまり私の親の世代、比較的遠方からの参加者で、「来年からは参加できないが、今後の同盟をよろしく」という趣旨でした。
しかし私は彼らの期待に充分答えられないまま数年後に活動を停止します。 それはサラリーマンとの二足のわらじを履き続けることが苦しくなったからでした。 中途半端をやめ、いったん活動を停止し、サラリーマンに専念して結婚もし、恒産を蓄えたのちに、晴れてこの運動に専念しようと考えました。 私が退会した当時の同盟会長は湯川スミさんでした。 尊敬してやまない湯川会長からも慰留のお言葉をいただき、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
あれからおよそ四半世紀が過ぎました。 時子山さんも湯川さんも既に“千の風”になられました。 そしてあの頃私に声をかけられた諸先輩も多くはご存命ではないでしょう。 建設同盟も運動協会と名を改め、代替わりをしています。 しかし私はこの25年間、あの頃の多くの同盟諸先輩から遺言にも似た何かを託されているという思いを片時も忘れることができませんでした。 それは戦前・戦中世代の諸先輩が夢見て立ち上げ、大いに盛り上げたこの世界連邦運動を、我々団塊世代並びにさらに続く若い世代で是非とも成就してほしいという“伝言”だったと思うのです。
6.私からの伝言
現在の世界で戦火の中、多くの国民の命が失われ傷ついているのは非民主国家です。 また戦火は無いまでも人命が軽視され国民が飢餓に喘いでいるのも非民主国家です。 さらに飢餓状態になくても人権が軽視され国民に自由が無いのも非民主国家です。 では世界各国がすべて民主化されれば戦争や貧困が無くなり自由が保障されるのでしょうか。 答えは“否”です。 世界中が民主化されれば人権はかなり守られ自由もほぼ保障されるでしょう。 貧困や戦争も今よりは少なくなると思います。 しかしまだ足りません。
それは現在のイラクやパレスチナでの戦火が最も先進的な民主国家である米国や英国の主導または関与で発生し、泥沼化しているのを見ればわかるのです。 最も民主的な国家でも石油利権を含めたもろもろの経済的、政治的利権のためには軍隊を差し向け、相手国を蹂躙します。 そこで多くの民間人を犠牲にしようとも、“テロとの戦い”や“民主主義化”をやめません。 同盟国イスラエルのためならば拒否権を駆使してでも安保理非難決議を阻止します。 敵の敵になりうると思えばインドのような核兵器保有国にも核不拡散条約の主旨を曲げて核技術供与をします。
これらはかつて中学生の頃の私が求めた“国際正義”はありえないということを示しています。 人類は国際正義を実現するためにまず国際連盟を、次いで国際連合を樹立しました。 しかしいずれもこの地球上から戦火と貧困を無くすことができなかったのです。 それは構成単位が“国”だからにほかなりません。 国はたとえ内部的には民主国家であっても他国との付き合いの中では自国の利益を優先するあまり、弱肉強食的な振る舞いをしがちです。 国どうしの付き合いである国際連合にはどうしてもこの点で限界があり、“国際正義”などお題目にすぎないのです。
そこで国連を改組し、平和、貧困、食糧、資源、環境など全世界が一つになってかからないと解決しない分野のみ、各国の主権を制限して統括し“世界正義”を実現する“世界連邦”の樹立が必要になります。 その構成単位は“国”ではなく、限りなく“人民”に近いものです。 世界連邦がうまく機能していき、いつの日か人民が“国境”を必要としなくなったとき、世界連邦はその究極の姿である“世界政府”になっていくことでしょう。 その時人類はその英知によって一つとなり、戦争と貧困、環境問題等を克服し、地球をベースとした宇宙空間において新たな繁栄の時代を迎えることができるのです。
私はこの世界連邦の樹立に向けた運動の中で、わずかでも役に立ちたいと考え、2004年末56歳で脱サラを果たし、新たな活動に向けて準備をしていました。 妻も背中を押してくれました。 しかしあいにく翌年体調を崩し、翌々年には多発性骨髄腫と宣告されたのです。 現在は要介護2級の状態で外出もままならない状態です。 私の余命があとどのくらいあるのかはわかりません。 医学書によれば平均値で2年半程度ですから2008年の秋以降はいつ何があってもおかしくないことになります。 でも私は日進月歩で目覚ましく進歩する医学に大きな期待を寄せています。 第一まだ中学生のわが子のためにもまだまだ死ねません。 またこれまで私にさまざまな“伝言”を残してくださった諸先輩方の“思い”に応えるためにも。
今や私にとって皆さんが読んでくださるこのネット空間こそが残された活動の舞台です。 かつて予定していたような、世界を飛び回っての活動とは雲泥の差があります。 また文章の内容が既に“伝言”めいたものばかりで心苦しいのですが、私と同じ世代の団塊の皆様、より若い世代の皆様への私からの“伝言”として受け取っていただきたいと思っています。 そしてこの伝言があなたの心に響き、人類の恒久平和実現のためのあなたなりの行動のきっかけにしていただけたとすれば、一日も早い世界連邦の樹立を願う私にとってこれに勝る幸せはありません。