17日の朝日新聞によれば、松江市教育委員会が中沢啓治氏の代表作「はだしのゲン」を小中学校の図書館で閲覧制限するよう求め、各校はこれを閉架にしたようです。その理由は作品中の暴力描写が過激だということでした。
事の発端は昨年8月、「ありもしない日本軍の蛮行が描かれており、子供たちに間違った歴史認識を植え付ける」として、小中学校からの作品の撤去を求めて市議会に提出された市民からの陳情です。市議会はこの陳情を不採択としたものの、複数の議員の「大変過激な表現がある」との意見で教育委員会に判断を委ねた結果でした。
市教委によれば、描写が残虐としたのは、旧日本軍がアジアの人々の首を切り落としたり、銃剣術の的にしたりする場面です。陳情者の「ありもしない日本軍の蛮行」とは主旨が異なりますが、直接子供たちの目に触れなくなったことで、その目的は果たされました。
私の父は旧海軍の軍人でしたが、子供たちに軍隊時代の詳しい話をほとんどせずに他界しました。今までは単に「話したくない」のだろうと推測していたのですが、18日の同紙「声」の欄を読んで納得しました。「戦争中のことは誰にも話してはいけない、と上司に言われていた」というのです。
そうであれば、戦争を直接知らない私たちの世代では、自らあの戦争の事実を求めない限り、「はだしのゲン」に描かれた残酷な場面を「ありもしない日本軍の蛮行」と断じる陳情者のような人が出てきても不思議ではありません。それとも陳情者は判っていてもそれを単に「認めたくない」人なのでしょうか。
私は主に五味川純平氏の小説であの戦争の事実を学びました。「人間の条件」、「戦争と人間」、「ノモンハン」、「ガダルカナル」、「御前会議」などです。たかが小説と侮るなかれ、そのほとんどは膨大な注釈に裏付けられたノンフィクションなのです。
そこには捕虜や民間人など、丸腰のアジア人の首を切る場面はざらに出てきます。柱に括り付けた捕虜に向かって銃剣と共に体当たりさせられたのは主に初年兵でした。民間人の気分が抜けない初年兵を早く人殺しの兵器に仕立てるための訓練でもあったのです。スパイ隠匿や食料調達のための村ごとの焼き討ち、そして婦女のレイプ、その婦女を殺した後残された幼児を空中に放り投げて銃剣で刺し殺す場面も多々ありました。
一方「声」の欄には毎月一回「語り継ぐ戦争」特集があります。80歳代、90歳代の元兵士の投稿は苦渋に満ちています。中には上記同様元上司の緘口令に縛られていた人も居たことでしょう。しかし、自身の残り少ない命が消える前に、後世に戦争の残酷さを伝えることの重要性に突き動かされて重い口を開くのです。
そこで書かれたおびただしい事実の数々は五味川純平氏の記述の確かさを裏付けています。先日は婉曲な言い回しながら「食人」の事実に触れた投稿もありました。
陳情者のあなた、あなたが「はだしのゲン」に描かれた残酷な場面を「ありもしない日本軍の蛮行」と本気で思っているのか、或いは判っていてもそれを単に「認めたくない」だけなのかは判りませんが、先に掲げた五味川純平氏の本や「語り継ぐ戦争」を単行本にした「戦争体験 朝日新聞への手紙」を是非とも読んでいただきたいと思うのです。事実を正しく知って、その上での言動を心より願ってやみません。