インドへの旅はニューデリー1回、ムンバイ2回ですが、何れも会社の出張旅行でした。
1.ニューデリー
まず最初は1993年10月から11月にかけての東南アジア、インド、中東地域への出張の中でニューデリーとムンバイを訪ねました。
ニューデリーの空港には頭に鮮やかな黄色のターバンを巻いたジータ氏が迎えてくれました。今回尋ねるウェストン社のマネージャーです。空港からホテルまでの道は片側2車線の舗装道路でしたが、車の前後を豚や鶏などが横切ったり先導してくれたりするのには驚きました。それは昔の話で今は無いと思っていたのです。
やがて市街地にあるホテルメリディアンに着きました。全体が円筒形の高層ビルでその内側をスケルトンのエレベーターがせわしなく上下していました。
案内された10階の客室からは市街地の中に森が点在する景色を眺めることが出来ました。更にその森の木の間をクジャクが飛び交う様子も見えたのです。まさに異郷を感じ、旅情に浸る私でした。
夜10時に就寝して間もなく、窓の外から音楽と拡声器を通した声が聞こえてきました。それもかなりの音量でとても寝ていられない程です。すぐに止むかと思い10分、20分、30分待ちましたが止みません。堪らずフロントに電話して部屋を変えてもらいました。明日大事な仕事を控えていたからです。フロントの話ではこの時期、一年で最大の祭りがあり、その会場の隣にこのホテルがあるとのことでした。
翌朝ジータ氏の車でウェストン社を訪ねました。玄関のロビーに祭壇があり、小さな火が燃えていました。多分ヒンズー教様式なのでしょう。来訪者はその信仰の如何に関わらず、この祭壇を拝まねばならないのでした。インドの技術者は皆さん英語が出来ます(私以上に)。私の仕事も通訳なしで無事に済みました。
2.ムンバイ(1回目)
ニューデリーからムンバイに飛びました。ムンバイはかつて英領時代にボンベイと呼ばれ、西側をインド洋に面しています。明日訪ねるパラス社の社員に案内されたホテルはバックベイに面したマリーンドライブ沿いに有りました。大きな弧を描く防波堤沿いの道は格好のデートスポットの様で、月明かりの中大勢の男女で溢れていました。
テレビでは「踊るマハラジャ」のような感じで、美男美女が幾つかの困難を乗り越えた末に目出度く結ばれるという内容のミュージカル風のものを流していました。
翌朝社員氏の車でパラス社に向かう途中のことです。車が信号で止まる度に脇から数人の子供が走り寄ってきます。窓ガラスをたたき、指を口に持っていく動作を繰り返します。「食べ物を買う金をくれ!」というジェスチャーの様でした。社員氏はその度に顔を怒らせ、身振りで子供たちを追い払うのでした。
パラス社ではニューデリーのウェストン社と異なり、玄関での宗教儀式はありませんでした。2日間の仕事が済んだ翌朝、社員氏に空港まで送ってもらいました。当時インドの空港では赤帽を頼んではいけないというジンクスがありました。荷物を隠されたり、法外なチップを要求されるらしいのです。そこで私はニューデリーでもムンバイでも全ての荷物をカートに載せて自分で運んだのです。
3.ムンバイ(2回目)
2度目のムンバイ滞在は1997年8月から9月にかけての中東・インド・東南アジア出張中のことでした。訪問先は前回同様パラス社です。今回は同社の技術者が空港でのピックアップ以降ずっとアテンドしてくれました。ホテルは前回同様バックベイのマリーンドライブ沿いでしたが、前回とは別のホテルでした。1階のレストランでは民族衣装を着たグループが民族音楽を奏でていました。
翌朝車でパラス社に向かいましたが、この時は前回と異なり、車に群がる子供たちの姿はありませんでした。4年の間に暮らしが良くなったのか、或は規制されたのかのどちらかでしょう。多分後者だと思います。
2日目の仕事が終わった後、技術者氏は私を市内観光に連れ出してくれました。インド門を見物した辺りで私の靴が壊れました。左足の踵が剥がれてパカパカになったのです。実はこの踵は直前の滞在地カラチで既に剥がれていました。そこのホテルの地下にある靴屋で接着してもらっていたのです。その際、「長くは持たない」と言われてはいました。
技術者氏は道端にいた靴磨きの前に車を寄せました。私の靴は技術者氏の手を介して靴磨き氏に渡され、数本の釘で修理された後、再び技術者氏の手を介して戻ってきました。その際技術者氏は「握手は不要、その男に触れないで!」と私に注意したのです。そして当人も触れることなく靴をやり取りし、料金を払ったのです。インドにはカーストを含む身分差別制度があり、この靴磨き氏はその最下層レベルの不可触民だろうと推測しました。
私がムンバイを発つ日の前日、技術者氏はホテルの前で客待ちするタクシーの運転手を品定めし、そのうちの一人の車のナンバーを手帳に書き留めてから、運転手に翌朝私を空港まで無事届けるよう依頼しました。生憎技術者氏は翌朝の都合がつかなかったのです。
翌朝私を乗せたそのタクシーは無事空港に着きましたが、そこで少しトラブルがありました。運転手は「超過料金を払え」と言うのです。その理由はと尋ねると「荷物が多い」でした。ボストンバッグ1個とショルダーバック1個しか持たない私は即座にこれを拒否しました。数分間の沈黙の後運転手が諦め、メーターの料金にチップを加えて支払いが済みました。昨日技術者氏が車のナンバーをメモしていなければ、もっと取られていたことでしょう。
1.ニューデリー
まず最初は1993年10月から11月にかけての東南アジア、インド、中東地域への出張の中でニューデリーとムンバイを訪ねました。
ニューデリーの空港には頭に鮮やかな黄色のターバンを巻いたジータ氏が迎えてくれました。今回尋ねるウェストン社のマネージャーです。空港からホテルまでの道は片側2車線の舗装道路でしたが、車の前後を豚や鶏などが横切ったり先導してくれたりするのには驚きました。それは昔の話で今は無いと思っていたのです。
やがて市街地にあるホテルメリディアンに着きました。全体が円筒形の高層ビルでその内側をスケルトンのエレベーターがせわしなく上下していました。
案内された10階の客室からは市街地の中に森が点在する景色を眺めることが出来ました。更にその森の木の間をクジャクが飛び交う様子も見えたのです。まさに異郷を感じ、旅情に浸る私でした。
夜10時に就寝して間もなく、窓の外から音楽と拡声器を通した声が聞こえてきました。それもかなりの音量でとても寝ていられない程です。すぐに止むかと思い10分、20分、30分待ちましたが止みません。堪らずフロントに電話して部屋を変えてもらいました。明日大事な仕事を控えていたからです。フロントの話ではこの時期、一年で最大の祭りがあり、その会場の隣にこのホテルがあるとのことでした。
翌朝ジータ氏の車でウェストン社を訪ねました。玄関のロビーに祭壇があり、小さな火が燃えていました。多分ヒンズー教様式なのでしょう。来訪者はその信仰の如何に関わらず、この祭壇を拝まねばならないのでした。インドの技術者は皆さん英語が出来ます(私以上に)。私の仕事も通訳なしで無事に済みました。
2.ムンバイ(1回目)
ニューデリーからムンバイに飛びました。ムンバイはかつて英領時代にボンベイと呼ばれ、西側をインド洋に面しています。明日訪ねるパラス社の社員に案内されたホテルはバックベイに面したマリーンドライブ沿いに有りました。大きな弧を描く防波堤沿いの道は格好のデートスポットの様で、月明かりの中大勢の男女で溢れていました。
テレビでは「踊るマハラジャ」のような感じで、美男美女が幾つかの困難を乗り越えた末に目出度く結ばれるという内容のミュージカル風のものを流していました。
翌朝社員氏の車でパラス社に向かう途中のことです。車が信号で止まる度に脇から数人の子供が走り寄ってきます。窓ガラスをたたき、指を口に持っていく動作を繰り返します。「食べ物を買う金をくれ!」というジェスチャーの様でした。社員氏はその度に顔を怒らせ、身振りで子供たちを追い払うのでした。
パラス社ではニューデリーのウェストン社と異なり、玄関での宗教儀式はありませんでした。2日間の仕事が済んだ翌朝、社員氏に空港まで送ってもらいました。当時インドの空港では赤帽を頼んではいけないというジンクスがありました。荷物を隠されたり、法外なチップを要求されるらしいのです。そこで私はニューデリーでもムンバイでも全ての荷物をカートに載せて自分で運んだのです。
3.ムンバイ(2回目)
2度目のムンバイ滞在は1997年8月から9月にかけての中東・インド・東南アジア出張中のことでした。訪問先は前回同様パラス社です。今回は同社の技術者が空港でのピックアップ以降ずっとアテンドしてくれました。ホテルは前回同様バックベイのマリーンドライブ沿いでしたが、前回とは別のホテルでした。1階のレストランでは民族衣装を着たグループが民族音楽を奏でていました。
翌朝車でパラス社に向かいましたが、この時は前回と異なり、車に群がる子供たちの姿はありませんでした。4年の間に暮らしが良くなったのか、或は規制されたのかのどちらかでしょう。多分後者だと思います。
2日目の仕事が終わった後、技術者氏は私を市内観光に連れ出してくれました。インド門を見物した辺りで私の靴が壊れました。左足の踵が剥がれてパカパカになったのです。実はこの踵は直前の滞在地カラチで既に剥がれていました。そこのホテルの地下にある靴屋で接着してもらっていたのです。その際、「長くは持たない」と言われてはいました。
技術者氏は道端にいた靴磨きの前に車を寄せました。私の靴は技術者氏の手を介して靴磨き氏に渡され、数本の釘で修理された後、再び技術者氏の手を介して戻ってきました。その際技術者氏は「握手は不要、その男に触れないで!」と私に注意したのです。そして当人も触れることなく靴をやり取りし、料金を払ったのです。インドにはカーストを含む身分差別制度があり、この靴磨き氏はその最下層レベルの不可触民だろうと推測しました。
私がムンバイを発つ日の前日、技術者氏はホテルの前で客待ちするタクシーの運転手を品定めし、そのうちの一人の車のナンバーを手帳に書き留めてから、運転手に翌朝私を空港まで無事届けるよう依頼しました。生憎技術者氏は翌朝の都合がつかなかったのです。
翌朝私を乗せたそのタクシーは無事空港に着きましたが、そこで少しトラブルがありました。運転手は「超過料金を払え」と言うのです。その理由はと尋ねると「荷物が多い」でした。ボストンバッグ1個とショルダーバック1個しか持たない私は即座にこれを拒否しました。数分間の沈黙の後運転手が諦め、メーターの料金にチップを加えて支払いが済みました。昨日技術者氏が車のナンバーをメモしていなければ、もっと取られていたことでしょう。