かつての東西国境検問所の1つチェックポイント・チャーリー(現壁博物館前)に近い、Zimmer Strasse(ジマー通り)とWilhelm Strasse(ヴィルヘルム通り)が交差する場所あたりに現存するベルリンの壁です。
第二次世界大戦後ドイツが連合国(米・英・仏・ソ連)によって、東西に分割統治されたものの、首都であったベルリンは東ドイツ領内にも関わらず、東西による分割統治領(西側にとってベルリンは飛び地)となっていました。
その後東西のドイツは別国家となり、東ドイツは自国民の西側流出を防ぐ為(名目上は西側からの軍事的防御の為)、1961年に壁が築かれます。
これがいわゆるベルリンの壁で、全長155km、高さ最高4.1メートル(地下からの逃亡を防ぐため地下にも延びていた)の壁が、1989年までの約28年間、東西のベルリンを挟んで存在していました。
ベルリンの壁は実は2枚あり、その間は数十メートルの無人地帯となっており、壁を越える者がいないか、東ドイツ当局によって監視されていました。
この28年の間に壁を越えようとして東ドイツ当局によって192名の人々が射殺され、逮捕者が3000名以上、生きて西ベルリンに到達した人が5000名以上と言われています。
1989年に東欧諸国が革命によって次々と民主化され、同年5月にハンガリー政府がオーストリアとの国境を開放した為に、東ドイツからハンガリー、オーストリアを経由しての西側亡命が可能となり、東ドイツ国民が殺到した為、ベルリンの壁は殆ど意味を果たさなくなり、ライプツィヒ、東ベルリン、ドレスデン等の東ドイツ各地での民主化要求デモの活発化もあって、1989年11月9日についにベルリンの壁は崩壊しました。
第二次大戦後1つの民族・国家が2つに分断された悲劇の歴史。
今なお朝鮮半島の韓国・北朝鮮との間で、その悲劇の歴史は続いています。
そして1つ歴史の歯車が違えば、同大戦の敗戦国である日本も、同じように2つに分断されていたかもしれません。
旧国境検問所の1つ、チェックポイント・チャーリーの前にある壁博物館(Friedrichstr.43-45)に行くと、冷戦時のベルリンの様子や、境界となった建物の4階から飛び降りる子供の写真等、東から西へ亡命しようとした人々の写真が紹介されています。